つわものどもが夢の跡
誰でも知っている城に、真正面から入ってみました。梅雨の晴れ間、多くの外国人観光客に混じって久しぶりの訪問です。
<大手門>
最初の完成は1607年。築城技術に定評のある藤堂高虎(たかとら)によって築かれました。後の改修者には、あの伊達政宗も名を連ねます。
■江戸城の正門■
当ブログでは、街に埋もれそうな堀跡や見附跡にスポットライトを当ててきました。
<赤坂見附跡>
<四谷見附跡>
どちらも城本体から切り離された遺構です。まぁそれがまた魅力なのですが・・・主だった江戸城の城門を指して「江戸城三十六見附」といいます。見附とは見張り番のいる城門のこと。赤坂見附も四谷見附も三十六見附に含まれる重要な城門です。
さてさて、今回の大手門はいわば江戸城の正門。現役です。三十六見附の中で最も重要な虎口(=入口)ということになります。
<大手門>
大手門とは正門のこと。追手門(おうてもん)も同じ意味ですね。
■枡形■ますがた
当ブログで見附跡などを紹介する際に、よく「枡形」という言葉を使います。枡はいわゆる器の枡のこと。四角形の容器のことですね。そんな形をしている城の出入り口。これを城用語で桝形とか、桝形虎口いいます。虎口は「とらぐち」じゃなくて「こぐち」と読んで下さい。
ここ大手門の構造も桝形門です。高麗門と渡櫓(わたりやぐら)型の櫓門で構成された典型的な枡形門と言えます。石垣だけ残っている見附跡とは異なり、門もしっかりと形として見ることができるので、構造として分りやすい。
説明下手ですが、画像に筆を入れてちょっとだけ説明させて頂きます。
<大手門>加筆
(青は人の導線)
オレンジは高麗門。死角を減らすべくやや低めに造られています。この一つ目の門をくぐると、四角く囲まれた小部屋のような空間(この形状から枡と呼ばれる)が待っています。これは侵入者の直進を防ぐ役割と、城兵が待機するスペースの両方の機能を備えた場所です。さて、侵入者が城内を目指すには右手に曲がらざるを得ません。そこに設けられているのが二つ目の渡櫓門。門の上が頑丈な櫓となっており、枡に入り込んだ敵を狙い撃ちすることができます。
<無理やり図解>
まぁこういうことです。
下手な上に簡素でスミマセン。私の手作りですw
<渡櫓門>
最初の門を突破できても、上から狙われます。しかも壁に囲まれているので行き場が制限され、隠れる場所もありません。
<壁の内側>
城兵が待機する場所でもあるので、外に向かって銃を撃つための準備がなされていますね。
<狭間>
銃を撃つための小窓。狭間(さま)といいます。
<説明板>
<渡櫓門の石垣>
門をくぐって櫓の土台を撮影。じっと見つめる。
1629年の改修工事では、幕府の中核・酒井忠世(ただよ)が門を担当したそうです。そして石垣部分は仙台藩主・伊達政宗。この時に「桝形」として完成したようです。
典型的な枡形門
ざっとこんな感じです。ちなみに、高麗門は1657年の明暦の大火後に再建されたものです。そして立派な渡櫓門ですが、こちらは第二次大戦で焼失してしまったそうで、現存のものは昭和になってからの復元だそうです。でもむかしむかしもこんな雰囲気だったのでしょう。見る価値ありの枡形門です。
■大手門から登城■
あとはどっかの殿様気分で本丸まで。かつて多くの大名が、ここから登城していました。
<石材>
おお!これは!
中世の「土の城」のファンですが、たまにはいいですね!この石垣。石材だけで圧倒されます。下の二段だけで、大人の身長よりずっと高い。
隙間に詰めた小石まで気になる。
こちらは隙間すらない。細かいことですが、強度に影響することです。
さて、石垣だけで楽しめますが、向うに何やら見えてきました。
<同心番所>
まだ本丸まで遠いですが、早くも番所。厳重ですね。
登城する大名の供の者を監視していたとのこと。番所はこの先にもあり、奥へ進むほど位の高い役人が詰めていました。
<番所と石垣>
どうしても石垣の大きさに目がいってしまいます。建物と比較して、とんでもなく大きいこと、伝わりますでしょうか。
そしてもうすこし進むと
<百人番所>
この長い建物も番所
百人番所というそうです。ここは登城する者の監視や検問をするところですが、有事に備えて幕府直轄の者が詰めている場所でもありました。直轄の警備員たち?それは古くから徳川と縁のある伊賀組などの同心たちです。他に甲賀忍者に由来する甲賀組、そして紀州の根来寺に由来する根来組など。伊賀と甲賀といえば忍者、そして根来(ねごろ)といえば手ごわい僧兵、のちの徳川配下の鉄砲隊。なんかやたら強そうな人たちを想像してしまいますね。
さて、その百人番所から見えている次の巨大な門へ
<中乃門跡>
おお・・・ホントにむかし造ったのか疑いたくなる近代的な石垣。この付近の石垣は、江戸城内でも最大級の石材が使用されているそうです。35トン前後?どうやってここまで上げましたかね?というより、そもそもとこから運んできましたかね?
これらの石材、主な供給源は伊豆でした。良質の安山岩が採石できる伊豆半島には、かつて多くの石丁場がありました。いまも伊豆半島とその周辺には、石を切り出した石丁場跡が史跡として残されています。で、小田原よりも遠い伊豆から、どうやって江戸まで運んだか?これは専用の舟です。伊豆の山で切り出した巨大な石を、海路で江戸まで運ぶ。とても400年前のこととは思えませんが、事実のようです。昔の日本人、凄いですね。
また建造物が見えますね
<大番所>
また番所。同心番所→百人番所に続き、いよいよもっともグレードの高い番所ですね。ここを通過してもうちょっ登れば、いよいよ本丸。後ろに見えている石垣は、本丸の石垣です。
<本丸への道>
ちょっとと言っても道は曲がりくねってますので、昔はそれなりに監視の目が光っていたのでしょう。
昔はここにも門があったのでしょうね
石垣に見惚れて、ちょっと振り返る
そしていよいよ
<本丸跡>
到着です。天守閣はありませんが、遠くにその土台が見えています。
ということで、大手門から本丸まで、あまり寄り道しない場合の道のりでした。
普通に公園として楽しめますが、当然史跡も多数。ほんの一部だけ紹介すると
<富士見櫓>ふじみやぐら
本丸の東南隅に位置する櫓です。外側から見た方が堂々と見えますが、今回は城内から。本丸に現存する唯一の櫓で、天守台の次に高い場所にあります。天守閣の代わりとして使用されたこともあるそうです。
<石室>
何となく異様な雰囲気の石の部屋。何に使われたのか、はっきりとは分かっていないようです。石の室の内部は約20平方メートル。大奥の納戸付近に位置していたとのことです。万が一の時の脱出口?そんなわけないですかね。耐火性を意識した蔵という説もあります。
<松之大廊下>まつのおおろうか
「忠臣蔵」で有名な松の廊下の跡です。浅野内匠頭、ここでいよいよ我慢できなくなった訳ですね。
<天守台>
天守閣の土台部分ですね。これについては別途投稿させて頂きます。
ということで、今回はここまでです。
写真中心でしたが、最後までお付き合い頂きありがとうございます。
-------■ 江戸城 ■-------
別 称:千代田城
築城年:1457年(長禄元)
築城者:太田道灌
改修者:徳川家康 他
城 主:太田氏 扇谷上杉氏
北条氏 徳川氏
現 状:皇居(1868年以降)
[ 東京都千代田区千代田 ]
お城巡りランキング
2018年06月10日
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