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2018年06月05日

荒川低地の浮城(富士見市)難波田城のなごり 

つわものどもが夢の跡
埼玉県富士見市の難波田城跡を訪問しました。

<難波田城公園>
shirononagori238 (11).JPG
御覧の通り、城跡は公園として整備されています。

ちょっと綺麗すぎますね!城郭というより、市民の憩いの場というのが最初の印象です。ざっと見ただけで、いきなり昔の姿を偲ぶことは難しいかもしれません。

ただ歴史は明らかで、城の縄張りも分かっている城跡なのです。遠くに水面を見つめ、静かに思いを馳せれば、つわものどもの思いが伝わってくるような気がしもします。

ここは低湿地の一角に築かれた中世の平城。荒川と新河岸川の間の自然堤防上に築かれた難波田氏の城跡です。


■難波田氏■なんばた
かつてこの地を本拠にしていた難波田氏。村山党金子氏金子高範がこの地に移り住み、地名を苗字としたことが始まりと考えられています。村山党、要するに同族による武士団ですね。村山党は「武蔵七党」と呼ばれる有力武士団の一つ。金子氏はその村山党を構成する氏族(ほかは宮寺氏や仙波氏など)のなかでも中心的な存在でした。

入間郡難波田郷に根をはった金子高範から始まる難波田氏の歴史。南北朝から戦国期にかけて、子孫と思われる方々の活躍を時々目にしますが、一番印象が強いのは、扇谷上杉氏に仕えた難波田憲重でしょう。

名門の血筋とはいえ陰りの見え始めた扇谷上杉氏。その組織内で頭角を現していた難波田弾正憲重は、重臣として若い当主を補佐し続けます。そして運命の河越夜戦(かわごえよいくさ:1546年)。この戦いは、兵力で圧倒的に不利な状況を、北条氏康が奇襲ではねのける話として有名です。大敗により、主君・上杉朝定は死亡。難波田憲重も、戦いの動乱に巻き込まれ、壮烈な死を遂げました。これを機に、難波田氏は衰退していきます。

さて、河越夜戦以降、ここ難波田の地はどうなったのでしょうか。これはもう、その時代の自然な流れです。小田原北条氏の勢力に組み込まれました。難波田城は、松山城主・上田朝直の一族の上田左近の城となります。この時、更に縄張りが拡張されたようです。

松山城といえば、かつて難波田憲重も城主を務めた城です。河越夜戦の敗退後、北条氏康の手に落ちながらも、憲重の娘婿の太田資正が一旦奪回しています。しかし太田資正が諸事情で上田朝直に松山城を託したところ、そのまま北条氏に寝返ってしまいました。


■難波田城跡■
あまりにも綺麗な城跡公園。城マニアの方はまず「エエッ」と感じるかもしれません。そもそもの話として、開発が進んで城が姿を消しても、山城なら地形が残っているぶんまだ救いがあります。これに対し、平城は厳しいですね。どこをどう見たらいいのやら。
まずは「かつての姿」を想像できるものをじっくり見てみましょう。

<説明板>
shirononagori238 (3).JPG
要所要所に説明板が設置されています。とても親切な公園です。

<拡大>まずこれを見ましょう!
shirononagori238 (5).JPG
こんな城だったのかぁ

周囲を沼に囲まれた低地の平城。浮城のような感じだったのでしょうね。何となく行田の忍城(おしじょう)を思い出しました。「のぼうの城」の舞台となった城です。
難波田城は沼地に守られた上に、堀と土塁を工夫することで更に守りを固めていました。中世の名だたる平城としては、よくあるパターンです。

これらを充分に理解した上で公園を眺めれば、随分と気配りして再現してくれていることが伝わってきます。

<水堀と土塁>
shirononagori238 (2).JPG

<復原木橋とあずま屋>
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一見ただの橋ですが、発掘調査の時に出土した橋脚を参考にして造られた橋です。凝ってるんですよ!

shirononagori238 (10).JPG
左側の曲輪から水堀を隔てたところに見えている建物は「難波田城資料館」です。

<工夫>
shirononagori238 (12).JPG
手前から進むと直進できないように造ってあります。城好きの人ならピンときますね。説明板には「こういうのを食い違い虎口といいます」といった丁寧な解説がなされています。ちょうど遊びに来ていたファミリーでが通りかかり、お父さんが子共に説明していました。ほのぼのとしたいい光景です。こういうのがきっかけで、あるいは将来の種となって、城好きになっていくのかも知れませんね。


さて、この公園内には城跡ゾーンとは別に古民家ゾーンがあります。こんな感じです。

<古民家ゾーン>
shirononagori238 (8).JPG
説明は省略。いい感じです。
shirononagori238 (7).JPG
良くできてるなぁ
shirononagori238 (6).JPG
田舎育ちなので落ち着きます。


■現在の地名・南畑■なんばた
繰り返しになりますが、ここは低地。荒川と新河岸川に挟まれ氾濫も多く、農耕に支障をきたしていました。堪り兼ねた村民が「難波田の文字は縁起が悪い」と願い出て、地名が「南畑」の文字に改まったそうです。

<水塚>みづか
shirononagori238 (9).JPG
これも古民家ゾーンで撮影。水塚とは、母屋よりも更に高く盛土をして、倉などの建物を建てるための塚のことです。洪水時の対策ですね。このエリアがいかに水に悩まされていたか伝わってきます。

地名から難波田という文字が消えてしまったことは、何となく寂しく思えます。でも、それは私がのん気な部外者だからでしょう。この地で必死に生きた人たちの願いで、南畑に改められたのです。それなら、その方がいいですよね。


■つわものどもが夢の跡■
<石碑>
shirononagori238 (4).JPG
村山党金子氏から始まり、やがて小田原北条氏の支配下となった難波田の平城。豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)により北条氏が滅亡すると、まもなく廃城となりました。

------■難波田城■------
別 名:南畑城 難波田氏館
築城年:鎌倉時代
築城者:難波田高範
改修者:上田氏
城 主:難波田氏 上田氏
廃城年:1590年
現 状:難波田城公園
[埼玉県富士見市南畑]


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-----ついでご紹介-----
<水子貝塚公園>
SN237ad.JPG
[埼玉県富士見市水子]
画像は水子貝塚公園の竪穴式住居。中も見学できます。

水子貝塚は縄文時代の貝塚。海無し県の埼玉で貝塚?そう、かつてはこの付近まで海が迫っていました。いわゆる奥東京湾ですね。「かつて」って、そうとう昔ですが。埼玉県南部の荒川流域なんて、当時は入り江のようなものだったので、周辺に貝塚が残されていてもなんら不思議ではありません。ここ水子貝塚公園は、そんな縄文時代の貝塚とムラを保存すべく整備された公園です。車の方は、ついでに足を延ばしてみては如何でしょうか。難波田城からは2kmほどです。
タグ:埼玉
posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
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