前回記事にさせて頂いた「大和田陣屋跡」のすぐそばに、陣屋の主である伊達房実の城跡があるというので、同時に訪問してみました。
最初に言っておきます。大和田陣屋跡には土塁がありましたが、こちらは何もありません。説明板もなく、石碑もありません。
では何を見に行くの?
はい。こういう場合はいつも通り「地形」を楽しみます。勝手な妄想を追い風に。
<高低差>
そこに城を築くには、それなりの理由があります。それを感じに
■現地訪問■
<訪問の目印>
[見沼区大和田町]1丁目
まずはこの「やわら樹の里」を目指しました。大和田駅より徒歩で約10分くらいでしょうか。私はいろいろ見ながら来たのでもうちょっとかかりました。右手に見えている線路が東武野田線です。
老人ホームです。もちろん中へは入れません。現地に行くと、敷地の奥が高台になっていることがよく分かります。ちょっとこの画像だと伝わりにくいですかね。この敷地が城跡というより、この施設がある「高台のどこか」に伊達城があったと考えられています。こういう時は、台地そのものを実感するしかありません。別な角度からながめてみますかね。
<西側>
高台があることは伝わりますよね?同じく高台にある大和田陣屋跡を訪問後、坂を下って台地の西側を探索しました。
<暗渠>
右側が台地、左側が低地。この道はその中間くらいの高さでしょうか。暗渠が周辺の水を一旦集めてくれています。こういった整備がなされていない頃は、この付近ももう少し水を感じる場所だったのかもしれません。
<低地>
傾斜と暗渠を撮影した地点より更に西側。この先には荒川の支流の「芝川」が流れています。
<城跡推定値の南側>
西側の斜面沿いに歩いてきましたが、ここで東側に向かって台地が抉られています。大和田町1丁目緑地。城があったとされる付近からみると南側になります(冒頭の画像と同じ場所)。
西側が川で、南側は台地の一部が抉られた斜面となっている。そういうことですか・・・
■地の利■
これらのことから言えるのは、『伊達城は川に面する西側に向かって飛び出た台地の上に築かれていた』ということですね。更に細かいことを言うと、現在の芝川、この付近ではかつて沼でした。区の名前にもなっている「見沼(みぬま)」です。巨大な沼です。正確な位置はわかりませんが、伊達城はこの見沼に突き出た台地に築かれていた可能性もありますね。
見沼を挟んだ西側の高台には、同じく岩槻太田氏配下の寿能城がありました。伊達城と寿能城、意識的に見沼を挟んで配置されていたのかな?などと勝手に想像するのも面白いですね。
<沼のイメージ図>
[寿能城跡の説明板を撮影]
まぁいずれにせよ、城の北と西と南の三方は水辺、そして高低差もありました。そうすると、比較的地形として緩やかな東側に、堀などを擁していたのではないか?
ということで、想像の域を出ない部分もありますが、少なくとも、ここが要害の地であったことは実感できました。
遺構なき城跡。地形だけを頼りに、こんなふうに楽しんでいる。
それが共有できれば幸いです。
<つわものどもが夢の跡>
この地を拠点とした伊達房実は、小田原北条氏配下として秀吉軍と戦いますが敗退。しかしその後徳川家康に仕えることで、旧領であるここ大和田村に知行を与えられました。房実は伊達城のすぐそばに陣屋を構えますが、かつての城が再利用されることはなかったようです。
------■ 伊達城 ■------
築城年:1560年
築城者:伊達房実
城 主:伊達房実
廃 城:1590年頃
[埼玉県さいたま市見沼区大和田町]
-----( 補足 )-----
文中にあった沼の対岸の城(寿能城)。別途投稿しておりますので、宜しかったら覗いてみて下さい。
→『記事へすすむ』
<寿能城の物見台跡>
伊達城と同じく、岩槻城配下の城でした。
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