岩槻の太田氏に仕えた伊達氏の陣屋跡を訪問しました。
<陣屋跡>
陣屋跡と伝わる場所は御覧の通りです。
<土塁>
もともと民家があり、ながらく中の様子を伺うことはできませんでしたが、現在ははっきりと土塁が確認できます。貴重な遺構ですね。
<隣の区画>
分譲が始まるようですね。屋敷跡の遺構の運命やいかに?
陣屋跡は更地となっていますが、今でも私有地と思われます。柵などなくとも、どかどかと足を踏み入れるのは控えた方が良いですね。やや高い位置かに見下ろしていますので、低い方へ回ってみましょう。勿論、敷地を横切らないよう迂回して。
<南側から見た陣屋跡>
周辺の住宅はなるべく避けて撮影。開発が進められており、綺麗な新築物件が多いです。ということは、まぁなんとなくですが、この土塁が見られるのもあとわずかなのでしょうか。
<方形の区画>
ほぼ方形の区画の周囲を土塁が囲んでいる。そんな構図ですね。昔はもっと広範囲だったのかも知れません。
<別アングル>
また迂回して別の角度から敷地を撮影。ここから近づくと土塁がもっと良く見学できそうですが、この道すら私有地のような雰囲気が漂います。遠慮しました。
<画像拡大>
私が先駆者のブログで見た画像はこの角度だったと思います。その頃はまだ民家があり、敷地は木々で覆われていました。土塁を何とか撮影したいものの、住んでいる人に配慮しているブロガーさん気配りが伝わってきました。そういう気使い、大切だと思います。
■戦国武将 伊達房実■ふさざね
伊達房実はもともと岩槻太田氏の家臣(家老)。いわゆる『伊達政宗』と祖を同じくしますが、枝分れして武蔵国に根をはった大和田伊達氏に分類されます。
主君である太田氏が小田原北条氏に傘下にあったことから、房実は秀吉による小田原征伐の時にはこれに抵抗する勢力として戦に参加。岩槻城にて城主に代わって指揮をとり、約2千の兵で天下軍2万を迎え撃ちました。しかしもともと勝ち目はありません。千人もの犠牲者を出して落城となりました。
■旗本 伊達房実■
小田原北条側として秀吉軍と戦った伊達房実。その後は徳川家康に召し抱えられました。やがて旧領であるここ大和田村に知行を与えられ、陣屋を構えることに。これが今回訪問の陣屋跡ということになります。この時の知行は250石だったそうです。
<付近の地形>
この道沿いを歩いてきましたが、陣屋近くで下り坂になります。ここを下ったら行き過ぎ。陣屋は高台にあります。
<親切な道しるべ>
来る途中に撮影。赤い線は私の加筆です。「大和田陣屋・土塁まで250m」の地点。その下に「芝川540m」と記されていますね。上の画像の坂を下った先はしばらく低地が続き、芝川が流れています。
要するに、大和田陣屋は低湿地に面した高台に位置している。そういうことですね。
<台地の斜面>
高台の下側から撮影。
<付近の城跡>
大和田陣屋跡の近くには、伊達氏のかつての城があったと考えられています。画像はその推定地。施設となっているので遠くから撮影しました。
伊達房実はこの付近を熟知していたのでしょうね。廃城となった城の近くに、陣屋を築きました。
■つわものどもが夢の跡■
<陣屋跡>
2千の兵の指揮をとり、岩槻城にて天下軍2万と戦った伊達房実。この地は、そんな戦国武将が旗本として過ごした場所です。
-----■ 大和田陣屋 ■-----
築城年:不明(1591年頃)
築城者:不明(伊達房実)
城 主:伊達房実
廃城年:不明
[埼玉県さいたま市見沼区大和田町]
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-----追記-----
最寄り駅から大和田陣屋跡へ行く途中、立派な長屋門と出会いました。
<道しるべ>
先ほどの標柱。上段に「島村家長屋門70m」とあります。
<行く先>
あれか・・・。なんと立派な
<島村家長屋門>
個人のお宅ですので、至近距離からの撮影はやめようかと思いましたが、歴史コースとして案内されていますので。ただ気持ち遠くから。なるべく門の奥が見えないような角度から撮影させてもらいました。
江戸時代に建てられたとのこと。維持が大変かと思います。でも今後とも訪れる人の目をひく存在であって欲しいですね。昔をしのばせる素敵な門です。
以上、追記でした。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
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