秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実の居城を訪ねました。
<九戸城跡>くのへじょう
二度目の訪問です。前回は真冬の訪問でしたが、今回は冬まだ遠い10月上旬。天気に恵まれた上に、ボランティアの方からパンフレットまで頂きました。「荒城の月」を意識した素敵なパンフレット。ありがとうございます。
■ 最初の訪問記 ■
九戸政実への思いは「北の猛将・九戸政実を訪ねて」と題して、最初の訪問記にすべて書き込んでしまった気がします。よろしければ覗いてみて下さい→『記事へすすむ』
自分でもう一度読み返して、説明不足だなぁと思ったのは、南部氏の内部事情。南部氏そのものを悪役の如く扱っているような雰囲気が漂います。
南部氏は源氏の流れをくむ名門中の名門です。ただ、その名門家の当主に強引になった上に、秀吉とも上手くやった南部信直さんに、ちょっと反感を持ちました。まぁこれもものの見方であって、26代当主となった信直を、南部氏発展に寄与した功労者と評価する意見もあります。
■ 九戸氏の居城 ■
九戸城は三方を川に囲まれた山城(平山城)。いわゆる天然の要害でした。政実の4代前の当主・光政が築いたと推定されています。言い方を変えると、政実が第4代城主ということになります。武勇に優れた政実は、この城を拠点に勢力を拡大。後から言っても仕方のないことですが、武将としての器量に恵まれていたことが、のちの悲運の火種となっていたのかもしれません。
<とある虎口にて>
最初の訪問時には素通りしてしまいましたが、これは枡形虎口のなごり?かもしれませんね。二度目ならではの発見もあります。
■九戸氏対南部氏■
九戸氏も、当時三戸城を拠点としていた南部家宗家も同じ一族です。祖は同じ。一族の中で既に実力者であった政実は、宗家の家督相続に不満を募らせこれと対立。やがて1591年、当主となっていた南部信直に反旗を翻しました。と、こういう話は戦国期には良くある話ですね。ここに天下人となった秀吉が絡むことで、九戸政実は天下に背く反乱者の如き扱いとなってしまいます。
■ 九戸軍対天下軍 ■
九戸軍は南部の精鋭。手を焼いた南部信直は、天下人に助けを求め、豊臣秀次を総大将とする6万の大軍(奥州再仕置軍)が九戸城に到着します。籠城する九戸軍は10分の1以下の5千ですが、城は三方を川に囲まれた天然の要害であり、城兵の士気も高く、大軍をもってしても攻めあぐねます。
硬直状態ののち、天下軍がとった策は騙し討ち。和議を勧告しておきながら、開城とともに城へ突入。城兵は勿論のこと、女子供まで焼き殺され、政実本人も斬首となりました。
■ あまり語られない日本史 ■
戦国ファンの間では当たり前に知られていることですが、世間一般ではあまり語られることもありませんね。日本史ではあまり耳にしない大掛かりな皆殺し(二の丸跡の発掘調査で明らかになっています)。私も高橋克彦さんの小説・天を衝くと出会うまで、その事実を知りませんでした。今回はやや客観的に城を眺めることができましたが、最初に訪れた時には、かなり感情が高ぶっていたような気がします。
■ 蒲生氏郷による改修 ■ がもううじさと
九戸城は秀吉の家臣・蒲生氏郷により改修されます。最初は、決着してなおも蒲生氏郷の出番があることに違和感がありましたが、勢力を誇った九戸氏の残党を警戒した秀吉の指示だったようです。改修された城は、三戸城から移った南部信直に引き渡され、名前も福岡城と改められました。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続け、いまでもそう呼ばれています。
<本丸の空堀>
この城跡には、九戸時代の城の特徴と、蒲生氏改修による西国の城の特徴があると言われます。この堀?どちらですかね。私にとっては「政実の城」で充分なので、調べていません。
■つわものどもが夢の跡■
天下統一を目前にした秀吉による奥州仕置。これに対する不満から、葛西大崎一揆、仙北一揆など、大規模な一揆が各地で勃発しました。「揆」の訓読みは「はかりごと」。一揆というと、何となくイメージが悪いですね。本人達にとってはあくまで決起です。
<つわものどもが夢の跡>
天下人に都合の良い秩序を受け入れず、奥州の猛者たちは大軍を敵に回して闘いました。ここ九戸城はその最後の舞台。後世に語り継がれる、いや、語り継がれるべき城跡だと思います。
--------■ 九戸城 ■--------
別 名:福岡城 宮野城
築城者:九戸光政
築城年:室町時代後期
改修者:蒲生氏郷
城 主:九戸氏 南部氏
廃城年:1636年(寛永13)
[岩手県二戸市福岡城ノ内]
[当ブログについて]
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