伊奈一族の城跡を二つ訪問してみて、いろいろ調べるうちにちょっと思うところがあり、今回軽くふれさせて頂きます。基本的には城跡好きですが、水路好きでもあります。共感頂けると嬉しいです。
<玉川上水>
名前は有名ですね。江戸時代の大事業。現在の羽村市から始まり、新宿区四谷まで続く総距離約43qの水路です。現在でも都内でその姿を見ることはできますが、「昔の玉川上水の雰囲気」が再現されていると聞き、この地を訪問しました。場所は小平市津田町(いわゆる津田塾の津田)。玉川上水沿いが緑に囲まれた小路になっていて、のんびり散歩するのに最適です。
<駅近く>
駅でいうと西武国分寺線の「鷹の台」駅近く。歩いてすぐです。
■大事業です■
玉川兄弟の仕事として有名ですし、実際にそうです。ただ、小さな村で小川から田畑まで水路を掘ったとか、そういうスケールではありません。これは江戸の街にとっての一大事業。とても二人ぼっちでは無理。兄弟とともに現場に参加した人たちは勿論ですが、幕府の許しを得たり、資金を調達したり、人を集めたり、関係する利害関係者と調整したりと、すべき仕事はたくさんあります。
■フォーメーション■
総 奉 行 :松平伊豆守信綱(老中)
水道奉行:伊奈忠治★(関東代官)
工事:庄右衛門・清右衛門兄弟※(町人)
※功績により兄弟には玉川姓が与えられました
あまり知られてませんが、こういうフォーメーションとなっています。玉川兄弟は町人に分類しましたが、まぁもうちょっと具体的に言えば当時の土建業のプロフェッショナルですかね。で、松平伊豆守は一旦「偉い方」で済ますとして(いろいろご苦労されたと思いますがすみません)、ここでは中間的な立場で役割を担った伊奈氏について。
■伊奈忠克■ ただかつ
この人は上に記載した伊奈忠治の長男。通称半左衛門。父から関東代官と赤山城を拠点とした所領七千石を引き継ぎました(弟たちに知行を分け与えたことから、忠克本人は四千石)。
<赤山城跡> ↓ここです
[埼玉県川口市赤山]
父・忠治が赤山領の拠点として築城した城跡。長男忠克はこの地で生まれ、この地を引き継ぎ、関東の治水、新田開発に尽力しました。 (赤山城に関する記事はこちらになります→「伊奈一族の城跡」)
■仕掛中の大仕事■
伊奈一族の仕事として有名な利根川東遷事業(荒川と合流して江戸湾へ注いでいた利根川の流路を、東側へ変更する事業)ですが、父・忠治から始まったものの、完成したのは忠克の時です。そして今回のテーマである玉川上水についても、スターティングメンバーとしては忠治が名を連ねますが、まさにこの工事の最中に没してしまったため、完成に導いたのは忠克ということになります。
★伊奈忠治は、度重なる工事失敗の責任をとって切腹したという話もよく耳にしますが、これは事実ではないようです(病没) 。
■玉川上水誕生■
そもそもこの事業はどうして必要だったのでしょうか。これは一言でいえば急激な人口増加。江戸の街は人が増え続け、飲料水不足が深刻になりつつありました。小石川上水ほかの既存インフラではまかなえず、更に地形の高低差で水が届きにくいエリアもあり、玉川上水が掘られることになりました。大変な事業ですが、工事開始から8ケ月で完成したそうです。1653年の出来事。将軍家が既に四代家綱になっていた頃のお話です。
■あまり有名じゃない■
これだけの事業に尽力したんですがね。伊奈忠克の名を見聞きすることはありません。そもそも、関八州の幕府直轄領の管理を任されていた伊奈一族そのものが、仕事のわりにマイナー。せいぜい初代の忠次と三代目の忠治の名を目にすることがあるくらいですかね。やはりいつの時代でも、管理する仕事というのはあまり注目されませんね。そして立場においても、総責任者とリアルな現場は注目されますが、その間に位置する人は語られることもありません。結構苦労すると思うんですがね。
<笹塚駅付近> 渋谷区
ここも綺麗に残されていますね。ただこの景色がずっと続くわけではありません。
<上の画像のつづき> 暗渠(あんきょ)
ここから先は暗渠。玉川上水は地下に隠れ、地上は緑道となっています。ちなみに、右側の階段部分ですが、これは三田用水へ分水していたなごりです。つまり分水地点というわけです。便利な玉川上水。のちに沢山の分水が造られました。
<新宿御苑内> 新宿区
新宿御苑内の玉川上水・内藤新宿分水散歩道。何となく昔の水路の雰囲気を味わえる場所です。玉川上水の歴史的価値を伝える目的で整備されました。ここの説明文にもある通り、水路は多摩川の羽村堰から43q、土を掘りぬいただけの開渠(かいきょ)で造られました。つまり山をくぐるトンネルとか、谷を渡るための水道橋とかは無し。掘るだけです。羽村と四谷の標高差は僅か100m程度。水は低い方へしか流れませんから、高さを維持しながら、平坦であるはずのない台地を削って造ったということですね。建設機械もポンプも無い時代の話です。この現場力、凄いですね。やはり「玉川上水=玉川兄弟」で語られても仕方ないような気もします。
■老中・松平伊豆守と伊奈氏■
先述した偉い人。川越藩主でもあります。大変出世した方ですが、もともとは松平家の出ではなく、大河内家からの養子です。父は大河内久綱といいます。伊奈忠次配下の代官でした。出身も伊奈忠次屋敷付近と推定されています。
<伊奈氏屋敷跡>↓ここです
[埼玉県伊奈町大字小室]
伊奈氏は社会インフラの整備だけでなく、それに関わる人材の育成でも社会に貢献しました。大河内久綱もその一人です。そして、なんとその息子が、やがて幕府の中核となりました。玉川上水プロジェクトでは、伊奈氏の上司的な存在です。地味な存在ですが、社会に及ぼした影響が大きい。伊奈氏とはそういう一族、地味なつわものどもだと思えます。
今回はやや強引にまとめました。
こんな個人的な思い込みを最後までお読み頂き、ありがとうございます。
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