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2021年03月22日
紅葉の名所!錦色に染まる平林寺と大河内松平家の歴史/新座市
こんにちは。
前回は玉雄さんが新緑の平林寺を紹介していたそうなので、今回は秋の紅葉真っただ中の平林寺をお見せしつつ、この土地ゆかりの人物についてもふれていきたいと思います^^
紅葉の時期の平林寺は混み合いますからね。今年はコロナで見れるとも限らないのでお先に景色だけでもご覧になってください^^
平林寺の歴史
もともと平林寺は現在のさいたま市岩槻区周辺にありました。
しかし戦国時代、豊臣秀吉の小田原征伐の戦火を受け、岩槻の平林寺は小寺がかろうじて焼け残るだけとなってしまったんです。
そこに現れたのが徳川家康です。
鷹狩の途中、休憩のために小寺へ立ち寄った家康は軒主から平林寺の由緒を聞き、再興を約束するのです。
平林寺の再建
平林寺の再建には家康の家臣である大河内秀綱が大檀那となって取り掛かりました。
山門や仏殿などの伽藍を建て終え、平林寺は無事に再興を果たすことになります。
秀綱の孫であり、松平家の養子となった松平信綱は、秀綱を始め、実父の久綱、養父の正嗣の死後、彼らを平林寺に篤く弔いました。
平林寺を野火止に移転
一方、幕府の老中で上水道の工事を取り仕切っていた川越藩主・信綱は玉川上水から領内である野火止への分水が許され、家臣に命じて野火止用水を作らせました。
これにより周辺の暮らしは豊かになり、人々は信綱にとても感謝したそうです^^
その信綱も病気により1662年に死没、彼の遺命により菩提寺であった平林寺を翌年に子の輝綱が現新座市の野火止に移すことになりました。
まとめ
野火止は彼にとって思い入れの深い場所だったのでしょう。
伊豆守として官位を与えられていた信綱は徳川家光に仕え重宝され、その優れた才覚から「知恵伊豆」と称えられていました。
境内の大河内松平家廟所には高さ2mの五輪塔が2基並んでおり、信綱夫妻が眠っています。
この廟所は保存状態の良さ、墓石数ともに全国有数なのでぜひ訪れてみてください^^