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2017年12月05日

日本人のルーツを探る(10)

さて、炎帝神農についてのお話です。

神農、姓は姜、120歳まで生き、長沙に葬られたといわれていま
す。農具を作って土地を耕し、農耕をすることを人々に伝えまし
た。また、薬となる植物を選別し、効用を知らせたとされていま
す。

長沙市は、中国湖南省にあり(武漢の南西、洞庭湖の南)、日本
の米の原種があった場所とほぼ一致する場所です。

また、佐賀県唐津市の呼子町呼子に「長沙子」(ちょうさご )
という地名も存在しており、もしかすると壱岐島経由で神農の
子孫が上陸して来たのかもしれません。

ここで、国常立命は北東へ、国佐槌命は南東へ向かったのかも
しれませんね。

神農は、試験のため、あまりに多くの毒草を食したために、体
中に毒素がたまってしまい、最終的には亡くなってしまったと
いいます。

断腸草という草をなめたのが最後で、腸がちぎれて死んだとも云
われています。

もしかすると「断腸の思い」という言葉の由来かもしれません。

ただ、断腸の思いというのは、「はらわたがちぎれるほどの耐え
難い悲しみ」のことですから、身内の死とか悲惨な状況に出会っ
てしまったという意味なのかもしれませんね。

神農は、医薬の祖であることから、漢方薬業者や医療従事者など
に広く信仰されているようです。また、「神農皇帝」の名称で、
香具師・てき屋業界では守護神・まもり本尊として崇敬されてい
るようです。

薬草、毒草の区別なく、命を賭として食べたことから、ギャンブ
ルの神様になったのでしょうね。(笑)

皆さんも、「体中に毒素がたまらない」よう、ギャンブルは控え
目にね!



日本人のルーツを探る(9)

さあ、三皇五帝を論じましょう。

さらに妄想を全開にして推理することにします。(笑)

三皇とは、天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、人皇(じんこう)
のことで、これは中国の神様のことです。孫悟空が迷惑をかけた
方々だと思います。いわゆる「天地人」(てんちじん)のルーツ
でしょうか。

この、天皇を唐の三代皇帝の「高宗」が十年間だけ使用されてい
たものを持統天皇がパクリ、天皇(てんのう、すめらみこと)と
しました。「すめら」が「シュメール」のことではないかとの説
もありますが、触れないことにします。

始皇帝は「三皇五帝」の2字を取って「皇帝」を名乗りました。
日本はパクったとはいえ、この最上級の「天皇」を名乗ること
になったのですから、GJ(グッジョブ)と言えるかもしれませ
んね。(笑)

この三皇について、伝説上の人物と突合することは容易ではあり
ません。

ここでは、伏羲(ふっき、ふくぎ)、女媧(じょか)、神農(し
んのう)の3人とします。

伏羲と女媧は、兄妹とも夫婦ともいわれていますが、蛇体であり、
それぞれ、手にはコンパスと定規を持っています。

フリーメイソンとの繋がりが疑われますが、中国は早くから測量
が行われており、おそらく中国の話が西に伝わり、フリーメイソ
ンの紋章に組み込まれたものだと推測します。

因みに、コンパスは円=太陽=「天」を、定規は四角=月=「地」
を表すものと言われています。

この二人には、何と「ノアの箱舟」のような洪水伝説も残されて
います。

さて、本題の「人」ですが、神農(しんのう)または、炎帝神農
(えんていしんのう)と呼ばれています。

そうです、昨日触れました、日本国の祖の父親ではないかと疑わ
れる人物です。

次は、この炎帝神農についてお話します。


日本人のルーツを探る(8)

徐福が日本の王になったことはなかったようです。
しかし、全国各地にその痕跡は残っています。

特に有名なのは、伊勢の新宮市。それから、丹後半島の新井
崎神社。それ以外にも、山梨県富士吉田市、三重県熊野市波
田須、佐賀県佐賀市などたくさん有ります。

不老不死の薬を真剣に探し求めていたのでしょう。

ただ、どこにも王になった記録はありませんし、ましてや
ユダヤの痕跡もありません。

ただ、富士吉田市の「阿祖大神宮」に伝わる「宮下文書」に
興味深い記録が残っているようです。

それは、徐福一行558人の名簿、それから「開闢(かいび
ゃく)神代歴代記」です。

山下先生の作成された系譜に私個人の考えを追加した系譜を
下記に示します。

いずれにしても、徐福とユダヤはやはり無関係のようでした。

しかし、弥生の渡来人は中国大陸からの移住民のようだとい
うことが分かりました。

神系譜.png

これは、米の起源、弥生人=ハプログループ「O」とも完全
に合致します。


日本人のルーツを探る(7)

日ユ同祖論に対し、扶余国の民族的な繋がりは有りそうも
ありませんでした。

次は、徐福についてです。

徐福(じょふく)は、中国・秦(しん)国の方士です(紀
元前3世紀頃)。始皇帝の命を受け、東方に船出し、王とな
り戻らなかったとの記述があります。

紀元前3世紀頃といえば、須佐之男命の奴国建国の少し前と
いうところでしょうか。

始皇帝の信用厚く、おそらく一族または同郷の出であったの
かもしれません。方士ですから、道教だったのでしょう。
本人にユダヤとの直接の関係は見いだせません。

連れて来た仲間の中にそういった人もいた可能性もあります。

そもそも秦の本拠地は、黄河の支流・渭水の近く、西安の西
に位置し、青海湖の南東にありました。

その地はシルクロードにもほど近く、古くより、西方の異民
族との交流もあったはずだと思われます。

イスラエルの「失われた10支族」は、北王国が、紀元前722
年頃にアッシリアにより滅ぼされたため、行方知れずとなっ
た古代ユダヤ民族です。

その間500年、ユダヤ民族が東方へ向かいたどり着いたと
すれば、何ら不思議なことではありません。

ただ、始皇帝自身がユダヤ人という説は否定しておきます。
もし、そうであれば、中国の歴史自体が塗り替えられていた
はずだからです。始皇帝は皇帝になったのですから。

中国にユダヤの痕跡が殆どない以上、始皇帝がユダヤ人であ
ったことなど有り得ないと思います。

さて、徐福ですが、「王となり戻らなかった」との記述が引
っかかります。

これについて、次に述べることにします。

2017年12月03日

日本人のルーツを探る(6)

十種神宝のことを書いたので、少しお話しておきましょう。
弊稿の「大和朝廷の謎(10)祓戸四神 その2」で「大祓詞」
(おおはらえのりと)について述べました。

本文前段の最後に「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とあります
が、その「天津祝詞の太祝詞事」の内容はどこにも書かれて
いないのです。

nozomimatukiさんは、「一二三四五六七八九十」と入れて
下さっています。

太祝詞は、中臣氏が祝詞を唱え、「天津祝詞の太祝詞事を宣
れ」までいったところで、物部氏が「一二三四五六七八九十」
と唱え、また、中臣氏が最後まで祝詞を唱えていたようです。

それでは、この「一二三四五六七八九十」の意味とは何か?

実は、一から順番に神様と対応しているそうなのです。

私は、もしかすると、十種神宝とも対応しているのではない
かと思っています。

物部系神社に伝わる「ひふみ祝詞」では、「百千万」が加わ
って全部で13となりますが、十二種神宝でも一足りません。
これが何かを考えているところです。

因みに、「一二三四五六七八九十」をヘブライ語で
「ヒッファミヨツイァマナーネヤカヘナタウォ」(=意味は、
「誰がその麗しい女を出すのやら、いざないにいかなる言葉
をかけるやら」となるそうです。)
を天照大神の「岩戸が隠れ」の時に、全員で合いの手
「TETSE」(=意味は、「出てこい」)を、手拍子を打ちな
がら唱えたという話もありますので、ご紹介しておきます。

また、十種神宝の中の「死返玉(まかるかへしのたま)」を
ゆらゆらゆらしながら「ひふみゆらゆら」と唱えれば、死者
を生き返らせることができたということです。



日本人のルーツを探る(5)

徐福のことは、後で触れるとして、まず、扶余国について
考察したいと思います。

扶余国は前にも述べましたが、中国東北部に存在したツン
グース系民族の国です。

遺伝子的には、ハプログループ「C」に属するらしく、こ
ちらもユダヤとの直接の関係はないものと思われます。

しかし、高句麗の建国神話の中に「昔、北夷の索離国があ
り、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は『以前、
空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごも
りました』」というお話があります。

これが東明聖王(とうめいせいおう=朱蒙)であり、その
子が沸流(プリュ)です。

朱蒙は扶余国を引き継ぎ、後に高句麗を建国しますが、朱
蒙がかつて扶余にいたときの子を高句麗の第2代国王(瑠
璃明王)にしたために沸流は離国します。

朱蒙も、もとは扶余人でありますが、この神話が事実だと
すると、『空にあった鶏の卵のような霊気』が誰であった
か気になるところです。

もしかすると、古代ユダヤ人なのかもしれません。

いずれにしても、民族単位のつながりではなさそうです。

ただ、沸流→布都→須佐之男命と仮定した時、何らかの
宝が相続された可能性はあります。

十種神宝(とくさのかんだから=布留の御魂)は、
沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握
剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死返玉(ま
かるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道返玉(ちか
へしのたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はち
のひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
ですが、
これに九握剣、十握剣を加え、十二種神宝と呼ばれるこ
ともあります、

この十種神宝が、ユダヤ起源なのかもしれませんね。

三種の神器は、ご存知の通り、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草
薙剣ですが、草薙剣は須佐之男命由来、八尺瓊勾玉も玉
の産地が出雲玉造であったことを考えるとこれも奴国由
来だと思われます。

残る八咫鏡については不明ですが、裏面にヘブライ語で
「私は有って有るもの」の文字が書かれていたという話
は確認できないものの、別名、真経津鏡(まふつの かが
み)と云われており、ここにも、経津=布都=フツの痕
跡があります。

2017年12月02日

日本人のルーツを探る(4)

日本におけるユダヤの痕跡は、

@諏訪神社(御頭祭、守屋山他多数)
A四国・剣山(アーク聖櫃伝説)
B三種の神器(八咫鏡のヘブライ語)
C日本語とヘブライ語の類似
Dエルサレム神殿の16弁菊花紋
E水や塩で身を清める禊の方法

F伊勢神宮参道灯篭の六芒星
G籠神社の裏家紋(六芒星)

H大避神社
I仁徳天皇陵の中島の形(マナの壺)
Jお神輿
K朱塗りの鳥居
L木嶋坐天照御魂神社の三ツ鳥居
M狛犬
N祇園祭の山鉾「鯉山」(ダビデ王)
O正月の餅(過越祭)

他、たくさん有ります。

もう、ここまで証拠がそろえば、何らかの関係があることに
疑いの余地はありません。

実際に、間違いなく関係があると思われるのは、H〜Oです。

それは、応神天皇の時代、大陸からやって来た秦氏の存在です。
秦氏は、大陸の景教(キリスト教)を持ち込んだと思われます。

しかも、京都を中心に八幡神社を始めたくさんの神社を建立し
日本古来の神道と融合させた文化を浸透させていった可能性が
あります。

しかし、@〜Gは秦氏とあまり関係がなさそうです。

特にFとG(@も可能性がありますが)は、奴国系と関係があ
りそうです(Fは天照大神が饒速日尊だとすると)。

Fは、GHQが関与したとの説がありますが、GHQと関係があり
そうもない天皇家系の地方の神社でも目撃したことがあります
ので、これは違うと思います。

そうすると、前稿で触れましたように、弥生民族とユダヤの繋が
りは遺伝的にありませんし、また、日向系にはその痕跡は有りま
せんので、あるとすれば、須佐之男命の家系の中にあることにな
ります。

どうも、扶余国を調べてみる必要がありそうです。

もう一つ、残された可能性は、徐福です。徐福は秦の始皇帝と関
係がありますので、これも調べてみないといけません。始皇帝は
西方からやって来たという説もありますので、可能性は否定でき
ません。

その場合不思議なのは、徐福を祀る神社があまりにも少ないこと
です。

他の祖先たちが神として祀られる中でその存在感が希薄過ぎます。

扶余と徐福、この辺に日ユ同祖論のカギがありそうです。

日本人のルーツを探る(3)

米の次は人間の遺伝子です。

皆さんも、多くの方が「Yap遺伝子」のことをお聞きにな
ったことがお有りだと思います。

曰く、日本人は特有の「Yap-D遺伝子」を持っていて、
「Yap-E」の古代ユダヤ人と近い関係にある。

日本人とユダヤ人は同じ先祖を持つ民族である(日本ユダ
ヤ同祖論)。

日本人が特有の「Yap-D遺伝子」を持っているのは事実で
すが、残念ながらユダヤ人の方は、ハプログループ「J」
タイプが主で、若干のEタイプがいるものの、どうも説得
力に欠けるようです。

しかも、弥生人の祖先は、ハプログループ「O」タイプの
ようですから、これは、中国・朝鮮系に近い人達のようで
す。

そもそも「Yap-D遺伝子」は、縄文人特有のものですから、
はるか昔の縄文時代7万年前?頃に「失われた10支族」
が日本に来たというのは、あり得ない話だと思います。

しかし、確かに、ユダヤの痕跡が日本にあることは認め
ます。その理由について、考察してみたいと思っています。

Yap遺伝子.png

日本人のルーツを探る(2)

本稿では、これまで、天津神を日向、国津神を奴国として
区別して来ましたが、国津神の名誉回復を重きに置き、日
向がまるで悪者であるかのような印象を皆様に与えてしま
ったのではないかと思います。

しかし、それは違います。天津神もやはり私たちの祖先な
のです。

現在の日本のお米の遺伝子のことをご存知でしょうか。
日本のお米は殆どが同じ種類の遺伝子を持ちます。

しかも、それは、中国でも、中国の揚子江近辺の限られた
エリアでのお米と同じものなのです。

中国のその他のエリア、韓国のお米は、日本のお米と違う
ものが殆どです。

これは、何を意味するか。古代の早い時期に中国の揚子江
近辺の住民が日本にお米を持ち込んだということでしょう。

決して、朝鮮半島経由ではないということです。

しかも、日本国内に於いても、九州から次第に東へ伝播し
ていったことが解っています。

これは、土器の種類の分布とも殆ど合致しているようです。

つまり、日向系は、奴国系よりも先に日本に根をおろして
いた先輩格であったといえるでしょう。

奴国系は、朝鮮半島で取れる鉄を基盤にして勢力を伸ばし
ていったものと考えられます。

九州北部が文明の中心であったことから、この地域を押さ
えていた奴国の代表が須佐之男命であり、日向の代表の大
日窶貴との政略結婚により、安定を保っていたのでしょう。

しかし、須佐之男命の死とその跡継ぎである須世理姫に子
供がなかったことから、日向勢力が巻き返しを図り、出雲
の国譲りを実現し、大奴国が出来上がったのだと思います。

これは、孝安天皇が「漢委奴国王」であったことから分か
ります。日本が外国に対し「倭=大和国」となったのは
卑弥呼の時代までのどこかのことでしょう。

それから、オマケですが、須世理姫のことについても触れ
ておきます。ちょっと前に「植村花菜」さんの「トイレの
神様」という曲が流行りましたね。

その「トイレの神様」が須世理姫のことではないかと思っ
ています。トイレの神様は金色に輝く美しい神様だそうで
す。もしかすると、「出雲の国譲り」の時に殺されて、
トイレに投げ込まれていたのかもしれませんね。


2017年12月01日

日本人のルーツを探る(1)

これまでは、古事記、日本書紀をベースに、その隠された
真実に迫ることを主眼として来ました。

一応、日々疑問に思っていたことをまとめ、一つのストー
リーに組み立てたつもりです。

一番、大きかったのは、「漢委奴国王」の金印が西暦57
年、「王師升等」(おしひと)が孝安天皇で西暦107年
と、山下先生に確定して頂いたことです。

これを前提に卑弥呼の年代から「倭迹迹日百襲姫」が特定
できるようになり、多くの事実が繋がって来ました。

倭国の創始者が、須佐之男命で饒速日命がその後を継ぎ
神武天皇で完成したことも確信できました。
饒速日命は誰なのかが分かって、全ての謎が氷解し始めま
した。

さて、それでは、須佐之男命以前の日本はどうなっていた
のか。これを探求せずにおいて、日本人のルーツは語れな
いでしょう。

しかし、残念ながら、古事記、日本書紀をもってしても
その真実は解明できません。情報が少なすぎるのです。

但し、神様のお名前とその関係性を探ることはできます。
また、ここでも山下先生が、価値ある情報を提供して下さ
っています。

ここからは、これまでもそうでしたが、さらに妄想を膨ら
ませ、判明している事実を繋ぎ合わせて、探求して行きた
と思います。


2017年11月30日

大和朝廷の謎(35)持統天皇 その4


持統天皇は、能力的には大変優れた女帝だったようです。
飛鳥浄御原令を完成(大宝律令の元)、庚寅年籍(戸籍)
により税制を完成、藤原京の造営・遷都を実施、中央集
権国家の完成を牽引しました。

西暦696年に貢献大だった高市皇子が亡くなり、翌年
には、第42代文武天皇が誕生しました。

高市皇子は、文武に秀でた大変優秀な方だったようで、
文武天皇も信頼を置き、慕っておられたようです。

個人的な見解で申し訳ありませんが、高松塚古墳は高市皇
子、すぐ近くのキトラ古墳には文武天皇が埋葬されている
のではないかと思っております。

この後、西暦703年には持統天皇が亡くなられました
(日本で初の火葬であったようです)。

また、それから間もない、西暦707年には、わずか24
歳で文武天皇も後を追うように亡くなられました。

その後は、天智天皇の第4皇女・阿閇皇女(草壁皇子のお
妃)が第43代元明天皇として即位され、西暦712年に
古事記が完成しました。

西暦715年に元明天皇の子供(文武天皇の姉)である
氷高皇女(ひたかのひめみこ)が第44代元正天皇とし
て即位され、西暦720年日本書紀が完成しました。




posted by mydears at 17:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

大和朝廷の謎(34)持統天皇 その3

持統天皇は、西暦690年正式に即位され、同時に孫の軽
皇子を皇位継承者として定められました。

これが、古事記の天照大神と孫の瓊々杵命(ニニギノミコ
ト)の関係に重ね合わせられたのです。

折しも古事記と日本書紀の編纂作業中です。物語りの中に
この場面を織り込ませるよう指示をしたとしてもおかしく
ありません。

天照大神は女性、瓊々杵命は男性でないといけません。

この時から、天照大神は女性神となり、日本の神々の中心
に位置づけられることが確定したのです。

そのため、各豪族が持っていた歴史は消され、作り変えら
れて、持統天皇に都合の良い内容に書き換えられていった
のです。

従わない場合は、厳しい罰則もありました。

天孫系の天津神と、それ以外の国津神に厳格に分けられ、
歴史が消されていきます。

しかし、これを良しとしない人々もいました。

それぞれの神は名前を変え、存在を隠し、現代まで生き続
けることになります。

そして、日本書紀、特に古事記がその事実のヒントを各所
にちりばめ、後世の人たちが解読できるように残しておい
てくれているわけです。


posted by mydears at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

大和朝廷の謎(33)持統天皇 その2

天武天皇がご存命中、鸕野讚良(うののさらら、後の持統
天皇)、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、施基
皇子と共に吉野へ行幸されました。そこで、後継者争いを
しないように皆に誓いを立てさせました(吉野の盟約)。

この時には、大津皇子の母親である大田皇女(おおたのひ
めみこ)は亡くなっていましたから、既に大津皇子の立場
は微妙であったと思われます。

天武天皇家系.png
第1皇子は高市皇子でしたが、母親の血筋が天智
天皇である大津皇子と草壁皇子(鸕野讚良の息
子)が実質的な後継者候補であったと推察されま
す。

特に、大津皇子は壬申の乱でも功績があり、これ
を推す人は多かったものと思われます。

さて、天武天皇が亡くなると、鸕野讚良はいよい
よ本領を発揮します。天智天皇譲りの権謀術数が
炸裂します。

まず、称制として、自分は天皇の地位につかず、皇后のま
ま実権を握り、目の上のたんこぶであった大津皇子を策謀
により、死刑にします。

大津皇子の妃、山辺皇女ははだしで走り出て来て殉死を選
びました。

鸕野讚良は、子の草壁皇子が病弱であったため、そのまま
称制を続けます。

しかし、西暦689年肝心の草壁皇子が亡くなってしまい
ます。

草壁皇子の息子、軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)は
まだ小さかったので、鸕野讚良は、ついに第41代持統天
皇として即位します。

posted by mydears at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

2017年11月29日

大和朝廷の謎(32)持統天皇 その1

ついに、ここまでたどり着きました。
本稿の主役(良い意味でも悪い意味でも)持統天皇のお話し
に入らせて頂きます。

まず、「天皇」という呼び名のことから始めます。

数年前に、天皇家を「王家」と呼ばせ話題になったのは、
大河ドラマ「平清盛」ですが、この「天皇」という呼び名
を始めたのは、第41代持統天皇です。

従って、これよりずっと後の桓武天皇のそのまたずっと後
の平家の時代に大王家ということは絶対にありません。

日本書紀の持統記690年に「皇后、天皇の位につく」と
いう記載があります。

私も、これまで、本稿で、ずっと天皇と書いて来ましたが、
これは正確ではありませんでした。煩わしいので、そうし
たまでです。ご容赦くださいませ。

実際は、オオキミとかミカドとかそういった名前だったと
思います。

「天皇」という言葉自体は、日本で発明されたというわけ
ではありません。中国、唐の三代皇帝の「高宗」が十年間
だけ使用されていたのをパクッたものです。
まあ、中華ソバやカレーライスがいつの間にか日本食にな
ってしまったようなものでしょうか。

中国ではその後「天皇」なる言葉を使った皇帝はいなかっ
たので、わが国の天皇が世界で唯一の「天皇」になられま
した。

この天皇という言葉は、中国の「三皇・五帝」に因みます
が、そのお話しはまたいずれ。

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大和朝廷の謎(31)天武天皇

飛鳥浄御原宮へ遷都後、
西暦673年に第40代天武天皇は即位されました。

壬申の乱で敗れた有力豪族の没落によって、中央集権国家の
基盤が固まりました。

即位後、「八色の姓」(やくさのかばね)を始めとする官僚
制度を整備され、日本で最初の律令となる「飛鳥浄御原令」
の作成を開始、大臣を置かない独裁的な「皇親政治」を実施
されました。

また、神社を管理する「神祇官」を置き、天皇家を神格化し、
西暦681年これまでの天皇家の系譜や国の歴史をまとめた
「古事記」「日本書紀」の編纂にも着手されました。

「古事記」の完成は西暦712年元明天皇の時、「日本書紀」
の完成は西暦720年元正天皇の時ですから、その内容につ
いて西暦686年に亡くなられた天武天皇が関与できるはず
もなく、持統天皇と藤原不比等の影響下にあったことは、ほ
ぼ疑いがありません。


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大和朝廷の謎(30)「日本国」成立(天智天皇の称制)追記

ちょっと話が戻りますが、天智天皇が7年間の称制を経て、
天皇に即位された理由として、実は天智天皇は2度即位さ
れたという説があります。

1度目は「倭国王」として、2度目は「日本国王」として。
日本書紀は、その建前上、歴代天皇を「日本国王」と言い
張って来ましたから、今更「倭国王」として即位したと言
えないので、その期間を「称制」としたというのです。

西暦668年にわが国は初めて「日本国」となりました。
「三国史記」670年の条に「倭国、あらためて日本とな
づく。自ら言う『日の出る所に近し』」と書かれているこ
とからそれが証明されています。

なかなか、説得力のある説です。

しかし、その説をとると、壬申の乱は皇統を争う戦いでは
なく単なる相続争いとなり、面白くない(笑)ので、この
稿ではご紹介にとどめておきます。


posted by mydears at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

大和朝廷の謎(29)壬申の乱

昨日も述べましたように、この戦いは、単に天智天皇の後継
問題というだけではなく、皇統の争奪戦の様相も呈している
ようです。

皇極天皇の前夫が高向王でその父親が”不詳”などという(か
りにも天皇の夫の父親ですよ。しかも、大昔の話ではなく
ちょっと前の事)戯言は、明らかに何かを隠しています。

そして、吉野へ逃れた大海人皇子。天智天皇の死後、
第39代弘文天皇(大友皇子)が即位します。

弘文天皇が追っ手を差し向けたという情報をいち早くつか
んだ大海人皇子は、吉野を脱出、伊賀を越え、鈴鹿に出ま
す。そこで、長男の高市皇子、三男の大津皇子と合流し、
桑名へと向かいます。

その間、美濃、伊勢、伊賀、熊野、尾張の豪族たちの支援
を受け、不破の関(関ヶ原)を封鎖、大軍を集結させまし
た。

大和、近江(琵琶湖東岸と西岸)の3方面から、弘文天皇
軍を包み込むように進撃し、大津の東、瀬田橋(現在唐橋)
で、高市皇子が率いる軍勢は、弘文天皇軍と決戦を行い
これを撃破しました。

弘文天皇は自決し、大海人皇子が第40代天武天皇として
即位します。

さて、気になるのが天武天皇の応援勢力です。

特に、尾張氏(おわりうじ)。
壬申の乱では「海部氏に養育された大海人皇子」へ私邸や
資金を提供するなど全面的に支援し、天武天皇の誕生に格
段の功績を上げているとされます。

尾張氏は、日本書紀によると「天火明命を祖神とし天忍人
命から始まる」皇后や妃を輩出した格の高い家系とされて
います。

天火明命は、ご存知「饒速日命」ですから、日向系の天忍
人命から始まるという記述について疑問はありますが、熱
田の南に拠点を持ち、その後裔は熱田神宮大宮司を代々務
めた家系であります。

大海人皇子の名前の「大海人」というのは、海部一族の凡
海氏に幼少期に養育を受けたためその名にちなんだという
説があります。

「海部氏系図」によりますと、同族に大阪「住吉大社」の
社家の津守氏、そして京都府宮津市「籠神社」の社家海部
氏が挙げられています。

「海人族」(安曇、宗像、海部、津守氏)との繋がりが
あやしく感じられます。




posted by mydears at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

大和朝廷の謎(28)高向王とは誰か?

皇極天皇は、舒明天皇と結婚する前「はじめ高向王(用明天皇の
孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ」とあります。

用明天皇の子供は、「蘇我善徳=聖徳太子」という説がありまし
た。すると、用明天皇=蘇我蝦夷?、父=蘇我善徳、孫=高向王
となります。

つまり、皇極天皇は、「蘇我善徳の子、高向王と結婚して漢皇子
を産んだ」ということになります。

漢皇子が、大海人皇子(天武天皇)だとすると、天武天皇は、
蘇我氏の直系となります。

日本書紀では、蘇我氏は大悪人ですから、そうは書けなかった。
しかし、正統性という意味では、これほどの正統はありません
から、天智天皇は、娘を殆ど、天武天皇の嫁として嫁がせたと
いうことかもしれません。

その場合は、天智天皇と天武天皇は、異父同母の関係となりま
す。

皇極天皇は、大海人皇子に跡を継がせるつもりだったが、乙巳
の変で状況が変わってしまった。

天智天皇も、皇極天皇に気を遣ってすぐには即位しなかった。

話が繋がりますね。

すると、先日述べた、皇極天皇黒幕説はくつがえります。

どうなのでしょう?

次は、壬申の乱のお話しです。




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大和朝廷の謎(27)天智天皇称制から即位へ

白村江の敗戦以降、中大兄皇子は唐・新羅連合軍の脅威に備え
るために、九州の太宰府に水城を築き、瀬戸内海沿岸の山城を
整備し、近江に都を移し、防人を置くなどの防衛に努めると共
に、積極的な外交戦も展開し、唐・新羅との関係改善に尽力し
ました。

唐からも使者がやって来るなど、状況が落ち着いた668年、
ついに第38代天智天皇として即位します。

以降、中央政権国家の完成に向け、法律や戸籍を整備しました。

一方では、都の移転など民衆の反発が多く、火事などが頻繁に
起こったという記録も残っています。

また、子の大友皇子を太政大臣に任命するなど、当時、皇太弟
であった大海人皇子(後の天武天皇)との火種を残しています。

天智天皇が亡くなる直前、大海人皇子を呼んで皇位禅譲の意思
を示しましたが、大海人皇子はこれを断り、吉野へ隠棲しまし
た。

もし、大海人皇子がこれを受けていれば、天智天皇に殺されて
しまっていたかもしれません。

天智天皇は、大海人皇子を皇太弟に指名していましたが、2人
の仲は良くなく、額田王(ぬかだのおおきみ)の争奪戦や、か
なり激しい喧嘩もしていたようです。

しかし、何故か天智天皇の娘が4人も大海人皇子に嫁いでいる
という奇妙な事実もあります。それどころか、殆どの娘が、天
武天皇またはその息子に嫁いでいるというのはますます奇妙で
す。

もしかしたら、天武天皇の血筋に何らかの正当性を示す事実が
あったのかもしれません。

その場合は、同父同母となっている天智・天武の両親に隠され
た秘密があるのかもしれません。

天智天皇の娘.png


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大和朝廷の謎(26)白村江の敗戦

孝徳天皇の死後、皇極天皇が重祚を行い第37代斉明天皇
として再び即位されました。

その頃、唐と新羅の連合軍に百済が追い詰められていまし
た。義慈王が降伏し、遺臣たちが抵抗を続けている状態で
最後の望みは、百済から大和朝廷が預かっていた王子・余
豊璋(よほうしょう)でした。

斉明天皇は、王子の返還と援軍を要請され、これを受諾し、
大軍を百済に派遣します。

斉明天皇自らも九州まで遠征しますが、筑紫の朝倉宮で急
逝され、以後は、中大兄皇子が称制という形で皇位に就か
ないまま軍を統率しました。

しかし、余豊璋や倭軍と百済の遺臣の間でゴタゴタが起こ
ります。

ついに663年、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)
で倭軍と唐軍が激突、倭軍は歴史的大敗を喫しました。

これ以後、百済は滅亡し、大和朝廷は朝鮮半島から駆逐
されることになりました。

因みに、唐・新羅連合軍は、この後、高句麗を滅ぼし
ますが、最終的に唐も追い出され、新羅が朝鮮半島を支
配することになります。


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2017年11月27日

大和朝廷の謎(25)天智天皇の謎

前回、天智天皇の出自問題について少し触れました。
実は、天智天皇韓人(百済人)説があるのです。

乙巳の変の時、「蘇我入鹿が韓人に殺された」と
駆け込んで来た人がいるというのです。

私は、個人的には賛成したくありません。
なぜなら、その説を採ると非常に悲しい結果が待っている
からなのです。

それは、前にも少し触れましたが、「道鏡事件」の称徳天
皇に関係があります。

称徳天皇は、天武天皇の後裔ですが子供がなく、次の天皇
は、天智天皇の後裔にあたる光仁天皇になってしまうから
なのです。

そうすると、天皇の血統は、そこで完全に途絶えてしまっ
たことになってしまいます。

従って、個人的に、感情的に(笑)本稿では、天智天皇
韓人(百済人)説は採らないことにします。

日本書紀に書かれていることなので、話半分に聞いてお
きましょう。

それに、韓人は中臣鎌足の可能性もありますしね。






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大和朝廷の謎(24)大化の改新

乙巳の変の翌日、第36代孝徳天皇が即位すると、その翌日
から中大兄皇子が皇太子として指揮を執り「大化の改新」が
始まります。

@公地公民
A軍事・行政の整備
B班田制の導入
C租庸調税制の統一
といった諸政策の実施が大きな功績として挙げられますが、
実は、蘇我政権で既に実施され始めていたという説もありま
す。

なぜか中大兄皇子は16年間も皇太子のまま他の天皇を立て
続け、さらに7年間も「称制」という天皇不在のまま、皇太
子として、政務を取り続けています。

この辺に何か秘密がありそうです。

やはり、皇極天皇(重祚して斉明天皇)の背後に何らかの
力の源泉があり、言うことを聞かざるを得なかったのでし
ょうか。

それとも、同母妹、孝徳天皇の后・間人皇女(はしひとの
ひめみこ)との不倫関係が原因なのでしょうか。

はたまた、皇極天皇グループに対する反対派から注意を逸
らせるための隠れ蓑として天皇にならず、皇太子のままで
いたのでしょうか。

もしくは、中大兄皇子自体の出自に問題があり、ほとぼり
が冷めるまで、即位できなかったのでしょうか。

残念ながら、はっきりとは分かりません。

これも、宿題にしておきます。





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大和朝廷の謎(23)大化の改新(乙巳の変)

近年の研究で、蘇我氏は開明的で、世間の評判とは逆に良い
政治を行っていたのではないかとの意見が出されています。

天皇家をないがしろにしたということも、よくよく考えて
みれば、蘇我氏は武内宿禰の子孫であり、同じ流れを汲む
(応神天皇の出生の秘密を知っていたとすれば)天皇家は
同族、むしろ自分達の方が本流であるという自負心さえ
あったかもしれません。

これに反発したのが、中大兄皇子や中臣鎌足です。
ついに蘇我入鹿を誅殺し、父の蝦夷も自殺し、ついに
乙巳の変を実現したことになっています。

ここでも、あえて疑問を呈したいと思います。

蘇我の馬子とか蝦夷とか入鹿とか、名前が変ではありませ
んか?馬(ウマ)と蝦(エビ)と入鹿(イルカ)ですよ。

その他の蘇我氏関係者は、倉麻呂、倉山田石川麻呂など
普通の名前にもかかわらずです。

蝦夷に至っては、異民族に対する(多分当時は差別的な)
呼び名であったと思われます。

これは、そもそもこのような人物自体が存在しなかったか、
あるいは、名前を変えられて蔑称を付けられたと考えるの
が自然ではないでしょうか。

歴史は勝者によって、いかようにも塗り替えられますから。

もし、これらの人物自体が存在しなかったと仮定するなら、

殺されたのは「蘇我善徳」=聖徳太子ではないでしょうか。

奈良の「飛鳥寺」の裏に「蘇我入鹿首塚」があります。

飛鳥寺は、日本書紀が、「馬子の子の善徳が寺司となり、
恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始め
た」とする、まさに、その寺です。

この時代の天皇家家系図です。
大化の改新.png

推古天皇の後、舒明天皇以降のゴタゴタが推察されます。
また、表中第35代皇極天皇の時に、乙巳の変があり
ました。

皇極天皇が手引して、蘇我入鹿(蘇我善徳?)を討たせた
可能性さえ見えてきます。

皇極天皇がこのあたりの最重要人物のように思えます。

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大和朝廷の謎(22)推古天皇・聖徳太子(古代最大級の謎)

さて、第33代推古天皇のお話しです。崇峻天皇が皇后問題で
蘇我馬子に殺された後、即位された正史では初の女性天皇です
(卑弥呼、台与、神功皇后は無視されています)。

推古天皇は、蘇我馬子と悪い言葉で言えば「ずぶずぶの関係」
であり、すべて蘇我馬子の思いのままです。

その推古天皇の摂政として立てられたのが「厩戸皇子(聖徳太
子)」です。

通説では、聖徳太子が若かったからと言いますが、何かおかし
くありませんか?

推古天皇が若かったから聖徳太子を摂政にしたというなら分か
りますが、逆ですよね。

聖徳太子を天皇にすれば済むことなのに、なぜ、回りくどく
推古天皇の摂政にしたのか。

ここに興味深い説があります。

私の尊敬すべき心の師、山下重良さんがその著「古代日本原記」
で述べられています。

厩戸皇子は、実は、蘇我馬子の長男「蘇我善徳」(そがぜんとこ)
だったと。

これなら、辻褄が合います。蘇我馬子は、たよりない推古天皇の
ために、自分の長男を摂政に立てたということですから。

聖徳太子.png

では、その後 ”聖徳太子”はどうなってしまうのか、大化の改新の
行方は?

さあ、いよいよ面白くなって来ました。



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大和朝廷の謎(21)崇峻天皇

用明天皇崩御の後、蘇我氏と物部氏はついに戦闘状態となります。
蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害し、多くの皇族を味方につけます。

しかし、物部氏も大和朝廷の軍事を預かる豪族なので当初は優位
に立ちました。

伝説では、厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺建立の誓いを立て、
物部守屋にようやく勝利したとなっています。

しかし、おかしいのは、この戦闘は、物部守屋の邸宅で決戦が
行われ、物部守屋も木に登り奮戦したが射殺され物部一族は滅
亡したとなっていることです。

もし、豪族同士の戦争であれば、戦場はもっと違った場所で、
しかも大規模なものになったのではないでしょうか?

つまり、物部氏はスキをつかれ、屋敷を包囲され、準備も何も
整わないまま殲滅されたということだと思われます。

物部守屋の墓は、今も大阪八尾市の住宅街の一角にあり、
近くの「大聖勝軍寺」(だいせいしょうぐんじ)で鎮魂され
ています。

戦後、物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は蘇我馬子のも
のになりました。

そして、第32代崇峻天皇が即位しますが、実権のない傀儡
天皇にすぎませんでした。


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2017年11月26日

大和朝廷の謎(20)用明天皇

第31代用明天皇は、欽明天皇の子供、敏達(びだつ)天皇の弟、
崇峻天皇、推古天皇、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子の兄にあたり
ます。
蘇我氏系図.png
因みに、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女は用明天
皇、推古天皇は敏達天皇のお后でもあります(兄妹の結婚)

また、用明、推古の母親は、蘇我稲目の娘・堅塩媛(そが
のきたしひめ)です。崇峻、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子
の母親は、同じく蘇我稲目の娘・小姉君(そがのおあねの
きみ)です。

第31代用明天皇は、第30代敏達天皇(敏達天皇は、全
方位外交を展開し、百済、新羅に加え高句麗とも国交を開
きました)の後を継いで天皇となられました。

これ以降、蘇我氏の権勢は絶対的なものとなったのです。
蘇我氏も代替わりし、蘇我馬子がその中心となっていまし
た。蘇我馬子が、まさに裏天皇として君臨していたのです。

用明天皇は、厩戸皇子(聖徳太子)の父親でもあります。聖徳太
子の実在性については、諸説ありますので、これは、後で触れます。

敏達天皇の葬儀中、穴穂部皇子が推古天皇の部屋に押し入りました
が、三輪君に制止されました。これを穴穂部皇子が逆恨みし、蘇我
馬子と物部守屋に三輪君を成敗するように命じました。

物部守屋は従いましたが、蘇我馬子は従いませんでした。
これを契機として、穴穂部・物部と推古・蘇我の対立の図式が出来
上がります。

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2017年11月25日

大和朝廷の謎(19)欽明天皇

継体天皇の後、大和朝廷は、しばらく落ち着きを見せていましたが、
第29代欽明天皇の時に、大事件が立て続けに起こります。

まず、欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目により蘇我氏が台頭し、
大伴金村の権勢は衰え始めました。

また、新羅が任那地方を併合するという事件があり、大伴金村が継
体天皇の時に、百済へ任那4県を割譲したことを物部氏が糾弾し、
大伴金村は失脚してしまいます。

さらに、友好国の百済は、高句麗、新羅に押されっぱなしで、大和
朝廷が企図する任那の失地回復は進みませんでした。

これに加え、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿・中臣連鎌子と
の対立が激化していきました。

葛城氏滅亡に続き大伴氏も力を失い、いよいよ、最大のライバル、
蘇我氏と物部氏の両雄決戦は待ったなしの状態になってきました。

蘇我氏は、武内宿禰の子孫で、仏教および大陸文明を積極的に取
り入れた改革派。これに対し、物部氏は、饒速日命の子孫であり、
従来からの神道を重んじる守旧派でした。


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大和朝廷の謎(18)継体天皇

前回の武烈天皇の稿では、日頃の鬱憤が出て、多少お見苦しい
コメントがあったことを陳謝いたします。

さて、今回は、第26代継体天皇です。

武烈天皇の後、その後継者選びは非常に混迷いたしました。
簡単に言うと、誰もなり手がいなかったのです。

そこで、最終的に頼み込んで、無理やりなって頂いたのが
継体天皇です。

大伴金村がその立役者であると云われています。
大伴氏は、葛城氏滅亡の後急速に勢力を伸ばした一族で、日向
系の豪族です。

天皇家の系譜をたどり第15代応神天皇まで遡って、やっと
越前・福井で、応神天皇の子孫である継体天皇を探し当てたの
です。

継体天皇は、再三固辞しましたが、説得に負け、ついに天皇に
なることを承諾します。

なかなか奈良に入ることが出来ず、やっと入れたのは即位後
20年近く経ってのことでした。

それほど、大和朝廷は混乱していたのでしょう。

その後すぐに、新羅と戦闘状態にあった百済に救援の軍を差し
向けようとしますが、新羅と内通していた磐井氏を討伐するの
に苦心しています(磐井の乱)。

国内、国外共に不穏な状況の中、立派に職責を全うされた極め
て有能な方であったと推測されます。

この後、政権はやっと安定を取り戻していきます。





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大和朝廷の謎(17)武烈天皇

いよいよ倭の五王最後の第25代武烈天皇のお話しです。
この天皇も、雄略天皇と同様に、日本書紀において、
「しきりに諸悪をなして」とか、何一つ善行のない残虐
な天皇と書かれています。

日本書紀は、基本的に、対外的プロパガンダの要素を多
く含みますので、最初から眉にツバを付けて考えてみま
す。

この武烈天皇でいわゆる天皇直系の子孫が尽きて、さん
ざん探し回ったあげく、やっと、次の継体天皇に即位し
て頂くという事態が発生しています。

雄略天皇のライバル潰しが起こした問題と言えます。

日本書紀では、武烈天皇の残虐非道の数々が取り上げら
れていますが、古事記では殆ど取り上げられていません。

「なんとか事実を伝えたい」との立場を貫いていると
私が勝手に考えている古事記としては、「表現をしない
自由」を行使したのかもしれません。

実は、武烈天皇には、豊富な知識を活かして正しい裁判
を行ったり、日が暮れるまで政治に取り組んだりと名君
としての記述もあるのです。

ちょっとあやしい継体天皇の正当性を際立たせるために
その直前の天皇を叩くという技を日本書紀が使ったので
はないでしょうか?



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2017年11月24日

大和朝廷の謎(16)雄略天皇

第21代雄略天皇は、前述の眉輪王から始まり、兄、従弟
と次々に皇統継承権者を殺害しました。気性の荒い乱暴な
専制君主として知られ、恐怖政治を行い「大悪天皇」とま
で呼ばれています。

しかし、一方で、大和朝廷の支配領域を全国に拡大し、権
力を天皇に集中し、日本で初めて「専制君主」と呼ばれる
存在になりました。

また、吉備、播磨、伊勢などの反乱も全て鎮圧し、重臣の
合議制や財政機構の整備なども行いました。

今も昔も、大胆な改革を実施する為政者は評判が悪いのは
同じようです。

稲荷山鉄剣.JPG

1968年に世紀の大発見がありました。
埼玉県行田市埼玉古墳群の稲荷山古墳から鉄剣が出土した
のです。

この埼玉古墳群からは、これ以外にもたくさんの出土品が
あり、謎の関東文明などと呼ばれていましたが、
鉄剣に記載された文字から、雄略天皇(獲加多支鹵大王
=ワカタケル大王)の臣下の持ち物であることが判明した
のです。

さらに、「辛亥の年七月」という文字から西暦471年で
あることも判明しました。

これで、大和朝廷の勢力範囲が関東まで及んでいたことが
確認されたのです。

さて、雄略天皇が皇位につく際に、皇位継承権者の粛清を
行ったことにより、その後、大問題が発生することになり
ます。


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大和朝廷の謎(15)安康天皇と眉輪王(悲劇の王子)

倭の五王の時代は、広開土王との争いも一段落し、倭国
が宋と連携を持ち、2正面作戦によって、朝鮮半島の情
勢も硬直状態となり、比較的に安定した時代だったので
しょう。

第15代安康天皇の時に、大事件が起こりました。
なんと妻の連れ子の眉輪王(マヨワノオオキミ)によっ
て、刺殺されてしまったのです。

この事件の背景には、とても悲しい事実がありました。
叔父の妹を弟の妻にしようとした安康天皇は、家臣の讒
言を信じ、叔父を殺してしまいます。

そして、叔父の妻を自分の妻にしてしまったのです。
この叔父の息子である眉輪王(連れ子)が父親の死の真
相を知り、父のカタキを討ったのです。

7歳の眉輪王は、追っ手から逃れるために葛城円(カツ
ラギノツブラ)の邸宅に駆け込みます。

葛城円はこれを庇いオオハツセ(後の雄略天皇)の軍に
対し、「自分はとても大王軍には勝つことができません
が最後まで戦います」と言って、ついに眉輪王共々殺さ
れてしまいます。

葛城氏は、武内宿禰の子孫で奈良盆地の南西部に強大な
権力を持ち居を構えていましたが、この事件により滅亡
してしまいます。

武内宿禰の子孫には、蘇我、巨瀬、平群などたくさんの
有力氏族がいますが、その代表格であった葛城氏の滅亡
により、勢力図は次第に塗り替えられて行きます。



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大和朝廷の謎(14)仁徳天皇

第16代仁徳天皇は、皆さんもご存知の通り、大阪の堺市にある
世界一の面積を誇る陵墓をお持ちになる大天皇です。

古事記では「聖皇」、日本書紀でも「聖帝」とされる非常に評判
の良い天皇です。

その性格も温厚で慈愛に満ちた方のようで、ある日、宮殿から
眺めているとどの家からも煙がのぼっていないことに気づき、
民を救済するため3年間の年貢、労役を停止し、自らも質素な
生活を貫いたとの逸話も残っています。

また、河内平野の治水・灌漑事業を推進されるなど、「土木・
土建事業」の推進者であったようです。

まさに「仁政」→「仁徳」を体現されたようです。

その即位時の逸話として、ダチョウ倶楽部のように
「どうぞ」「どうぞ」と譲り合いをされて、最終的に即位され
るに至ったとの話があります。

そして、即位5年ほどで履中天皇に譲位され、その20年後に
亡くなられるまで院政を続けられたようです。

国内では、このように評判の良い一方で、海外では相当アグレ
ッシブに行動されたようです。

韓国ドラマ・ヨン様「大王四神記」の広開土王(こうかいどお
う)と直接対峙されたのも、この方のようです。

大古墳の造営、海外遠征と、国内が相当にまとまっていなけれ
ば出来ないようなことだと思います。

まさに、古代の高度成長時代の輝いている状態だったと推測さ
れます。

因みに、広開土王の先祖は、やはり韓国ドラマで有名な「朱蒙」
(ちゅもん)ですが、この人となりもこの際触れておきましょう。

朱蒙は、古代中国の東北部「扶余国」(ぷよこく)の出身でツ
ングース民族(満州族に近い?)と云われています。

以前、「天照大神の謎(3)須佐之男命」で、須佐之男命の本当
の父親は布都(フツ)ではないかとお話ししましたが、この布都
の出自が「扶余国」の佛流(プリュ)の流れではないかとの疑い
があるのです。

*プリュ=フル=布留→布留の御魂=十種神宝(とくさのかんだ
 から)(石上神宮)。

理由は、熊野神社の「三足烏」。サッカー日本代表でもお馴染み
ですね。朱豪の高句麗の紋章もこの「三足烏」です。

次に、「因幡の白兎」のお話。朱豪が河を渡ろうと思った時に
魚がたくさん現れて、その上を踏んで向こう岸に渡ることができ
たというお話とよく似ていますね。

もちろん、百済王族が高句麗王族の血筋であるらしいということ
から、百済から伝わったということも否定できませんが、「因幡
の白兎」は大国主命の古い時代の話でもあるし、熊野神社も
須佐之男命ゆかりの神社(島根県松江市八雲町熊野に「熊野大社」
があり、須佐之男命のお墓もその裏山にあると云われている)で
ありますから、やはり、須佐之男命と「扶余国」との繋がりが
あやしく感じられます。



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2017年11月23日

大和朝廷の謎(13)応神天皇

第15代応神天皇(おうじんてんのう)は、全国各地にある
八幡神社に祀られています。村の鎮守の神様です。

八幡神社の総本宮は大分県の「宇佐神宮」です。
宇佐神宮の本殿は3つの建物があり、左から順に
@一之御殿 八幡大神
A二之御殿 比売大神(ひめおおかみ)
B三之御殿 神功皇后
が並んでいますが、比売大神が真ん中の一番格式の高いと
思われる場所に祀られています。

この比売大神って、どなたなんでしょう?

宗像3女神という説もありますが、どうも、そうでは
ないような気がします。

私は、ズバリ!
日向(国津神)系の「天照大神」である「大日窶貴」
(オオヒルメノムチ:大日女)であろうと思います。

その理由は、皇室で重要な問題があると、伊勢神宮
よりもむしろ、この宇佐神宮にお伺いをたてる場合
が多かったようだからということです。

道鏡事件の時にも、この神社のご神託を重要視した
ようです(宇佐八幡宮神託事件)。

かっては、今以上に相当格式の高い神社だったと思
われます。

でも、何故、それならば、比売大神ではなく「天照
大神」にしなかったのでしょう。

それは、伊勢神宮のご祭神を「天照大神」としたた
めに、2ヶ所も同じ神様が、しかも最高神が祀られ
るのは都合が悪かったからではないでしょうか。



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大和朝廷の謎(12)倭の五王 応神天皇〜武烈天皇

さて、ついに「倭の五王」時代に突入して行きます。
第15代応神天皇(西暦390年即位)から第25
代武烈天皇(西暦506年崩御)までの116年間
は、まさに、倭国が古代最も輝いていた時代と言え
るでしょう。

「倭の五王」をまとめてみました。

倭の五王年表.jpg

倭の五王家系図.jpg

それぞれの天皇のお話しについては、続きます。


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大和朝廷の謎(11)神功皇后(古事記最大のヒロイン)

さて、古事記最大のヒーローが日本武尊命であれば、
最大のヒロインは、神功皇后(じんぐうこうごう)
といえるでしょう。

この方は、本当に凄い。ある意味、日本武尊命を
上回るほどのご活躍です。

また、謎の多い人物でもあります。

まず、出生からして、よく解かりません。
天日矛(アメノヒボコ:新羅からの帰化人)の後裔
だという話もありますが、とにかく、但馬、近江付
近の豪族のご出身のようです。

そして、三韓征伐に出発する際、身重の体であった
にもかかわらず、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる
石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産
を遅らせて渡海し、朝鮮半島に出兵して新羅の国を
攻めた(三韓征伐)という逸話もあります。

そして、日本書紀では即位年が西暦201年であり、
卑弥呼に比定される記載も見受けられます(私も最
初、これに騙されていました)。

しかし、実際には西暦320年頃なので、卑弥呼で
はありません。

西暦369年、百済の肖古王(しょうこおう)より、
石上神宮につたわる七支刀を贈られているようです。

西暦390年頃亡くなられていますので、三韓征伐
では、韓国ドラマ・ヨン様の「大王四神記」でお馴
染みの広開土王(こうかいどおう:好太王とも呼ば
れる)との交戦はかろうじて実現していないようです。

最大の謎は、夫である第14代仲哀天皇とのことで
す。

仲哀天皇は、熊襲征伐を強行に主張されていましたが、
神功皇后は神のお告げにより、朝鮮を攻めるべきと
対立し、何故か仲哀天皇は、神の怒りをかって急死
してしまいます。

そして、その後すぐ、神功皇后は朝鮮に出征してい
るので、これは暗殺の可能性があります。

また、この後、生まれた「応神天皇」(オウジンテン
ノウ)は、武内宿禰(タケウチノスクネ)との不義密
通の子との疑惑があります。

皇統的には、武内宿禰も第8代孝元天皇の後裔なので
何ら、問題はありません。

いずれにしても、仲哀天皇は不運な境遇にあったので、
「仲哀」という悲しい名前を贈られたのでしょう。







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大和朝廷の謎(10)祓戸四神 その2

気吹戸主(イブキドヌシ)のことがどうしても
気になったので、追記します。

本ブログは、謎解きが主眼なので、謎のままだと
ちょっと、気持ちが悪いんです。

ここまで、分かっていることを整理します。

@祓戸四神(はらえどよんしん)は、罪・汚れを
 取り除いてくれる神様であること。

A祓戸四神は、国津神(奴国系)ばかりであること。

B「大祓詞」(おおはらえのりと)は、天津神(日向系)
 だと思われる天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする
 中臣氏によって作られたこと。

以上から推察するに、中臣氏はニギハヤヒ一族を全て
無視することができず、祓戸四神という形で名前を
少しずつ変えて残しておいたのでは?と、考えました。

考えてみたら、罪・汚れを取り除いてくれる神様が
荒ぶる神たちの「国津神」(くにつかみ)ばかりであ
るということは何かおかしいですよね。

「伊勢津彦」(イセツヒコ)という神様をご存知です
か?「伊勢国風土記」に登場する国津神で風の神だそ
うです。別名、「櫛玉命」(クシタマノミコト)とい
います。これって、まさにニギハヤヒのことですね。

しかも、「伊勢」だなんて。

と、いうことは、もしそうだとすると、
@瀬織津姫(セオリツヒメ)= 饒速日命の本妻
A速秋津姫(ハヤアキツヒメ)= 饒速日命の妻
B気吹戸主(イブキドヌシ)= 饒速日命本人
C速佐須良姫(ハヤサスライヒメ)= 饒速日命の妹

となってしまいます。

確信があるわけではありませんが、可能性も
否定できないと思います。

因みに、私も大好きなnozomimatukiさんのリンクを
貼っておきます。【初音ミク】大祓詞です。
ご興味があれば、聞いてみてください。



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2017年11月22日

大和朝廷の謎(9)祓戸四神

皆さんは、神社に行かれた時に、神主さんの
祝詞をお聞きになられたことがあると思います。

その意味や言葉を理解されていらっしゃる方
は少ないと思いますが、これは殆どの場合、
「大祓詞」(おおはらえのりと)だと思われ
ます。

その最後の方に、「祓戸四神」のお話しが出て
くるのです。

少々長いのですが、この現代語訳をして下さっ
ているブログがあったので、ご紹介いたします。

『こうして祓い清められた全ての罪は、高い山
・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流と
なっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と
呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださる
だろう。
このように瀬織津比売によって持ち出された
罪を、今度は人が近づけないほどの大海原の
沖の多くの潮流が渦巻くあたりにいらっしゃ
る速開津比売という勇ましい女神が、その罪
をガブガブと呑み込んでしまわれることだろう。
このように速開津比売によって呑み込まれた
罪は、今度は海底にあって根の国・底の国へ
通じる門(気吹戸)を司る気吹戸主といわれる
神が根の国・底の国(黄泉の国)に気吹によっ
てフゥーっと息吹いて地底の国に吹き払って
くださるだろう。このように気吹戸主によっ
て吹き払われた罪は、今度は根の国・底の国
にいらっしゃるパワー溢れる速佐須良比売と
いう女神がことごとく受け取ってくださり、
どことも知れない場所へ持ち去って封じてく
ださるだろう。』
http://bit.ly/2zX3XPD

と、いうものですが、この中に
@瀬織津姫(セオリツヒメ)
A速秋津姫(ハヤアキツヒメ)
B気吹戸主(イブキドヌシ)
C速佐須良姫(ハヤサスライヒメ)
の四神が登場します。

瀬織津姫様出て来ましたね。
この祝詞のお陰で世間から忘れ去られずに済ん
だのかもしれませんね。

速秋津姫も珍しい神様ですが、愛知の一宮
「真清田神社」で見かけた気がします。
この真清田神社のご祭神は「天火明命」なので
瀬織津姫同様ニギハヤヒの奥方だったのかも
しれませんね。

気吹戸主は、良く分かりません。伊吹山に関係
があるのではないかと思われます。

速佐須良姫は、おそらく須佐之男命の末娘、大
国主命の奥さん、須世理姫だと思われます。

以上、四神まとめて、結構たくさんの神社でお
見受けします。

一番有名なのは、大津の「佐久奈度神社」(さ
くなだりじんじゃ)です。



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大和朝廷の謎(8)日本武尊命(ヤマトタケル)

今回は、古事記の中の大英雄のお話しです。

古事記では、倭建命と表記されています。
第12代景行天皇の第2子として生まれ
オウスが本名と思われます。

この方は、九州、出雲、東海、関東と連戦
に継ぐ連戦で殆ど休むひまもなくご活躍さ
れています。

謎という謎も殆どありません。
静岡の日本平の近くの草原で、敵に囲まれ
火攻めに合うも、倭姫命より授かった、
「叢雲の剣」(ムラクモノツルギ:須佐之
男命がオロチ退治で手に入れた)で草を
なぎ払い、敵を打ち破った話が有名です。

これ以後、叢雲の剣は「草薙の剣」(クサ
ナギノツルギ)と呼ばれるようになり、
現在は3種の神器の一つとして、名古屋の
「熱田神宮」で祀られています。

唯一の謎は、子供の時に兄を殺害したとか
敵を残虐な方法で殺したとか、ネガティブ
な書かれ方をしていることです。

日本武尊命は、関ヶ原の近くにある伊吹山
で自分の力を過信し、草薙の剣を持って行
かなかったため、山の神から毒を浴び、
これが原因で伊勢の亀山で息絶えます。

ここで、不思議なのは、祓戸四神の一人が
「気吹戸主」(イブキドヌシ)という名前
であることです。

伊吹山以外にイブキドという場所や言葉は
なく、この伊吹山の神様と何らかの関係が
あるものと推測されます。

「主」という名前は、国津神特有の名前で
奴国系の神様だと思われます。

ここまで述べたので、次回は「祓戸四神」
のお話しをしたいと思います。
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大和朝廷の謎(7)卑弥呼 その5

天津神と国津神の区別化(差別化?)は、いよいよ
激しさを増し、第11代垂仁天皇の時代、娘の倭姫
命(ヤマトヒメノミコト)は、豊鍬入姫(トヨスキ
イリヒメ)の後を継ぎ斎宮となりました。

おそらく、この頃より、巫女が政治に口出しをしな
いような体制(政治と神道の分離)が作られ始めた
のではないかと思われます。

倭姫命は、天照大神の安住の地を探すべく、諸国を
放浪されます。

三輪山を出発し、近江、美濃、桑名を経て、ついに
安住の地伊勢にたどり着きます。

奈良からは、鈴鹿山脈を越えた裏側の地であり、そ
れほど遠くもなく、近くもなく、遠く富士山も望める
風光明媚な土地であります。

実は、伊勢湾をはさんで対岸の東海地方は饒速日命
(天照大神)の関係の深い場所で、海人(あま)族
(後に出て来ますが、壬申の乱の時の立役者でもあ
ります)の本拠地であり、須佐之男命の総本社「津
島神社」の存在する地でもあります。

話は変わりますが、皆さんは「猿田彦」のことをご
存じですか?

天孫降臨の際に天の八衢(あまのやちまた)でニニ
ギノミコトを出迎え、道案内をした人物です。

この人は、須佐之男命の長男で、出雲の「佐太神社」
(さだじんじゃ)に祀られています。

道案内というのは、大和国と日向・奴国の合併を推
進した立役者であろうと思います。

猿田彦も、「猿田彦神社」で伊勢神宮の近くに祀ら
れています。伊勢神宮の土地を提供したのも、猿田
彦なのでしょう。

猿田彦の最後は、二見ヶ浦でヒラフ貝に挟まれて溺
死してしまうというものですが、これは、対抗勢力
(日向系?)の暗殺なのかもしれませんね。

posted by mydears at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

2017年11月21日

大和朝廷の謎(6)卑弥呼 その4

第10代崇神天皇の時に、もう一つの大きな事件
が起こっています。

古事記では、崇神天皇の夢枕に「大物主神」が現れ、
「子孫である「意富多多泥古」(オオタタネコ)に
祀らせろ」ということで、大物主神を三輪山に祀ら
せたとあります。

一方、日本書紀では、それまで宮殿の中に祀っていた
天照大神と倭大国魂神を殿内で祀るのをやめ、天照大
神を檜原神社に移したとあります。

檜原神社は三輪山の麓にある神社で豊鍬入姫ゆかりの
神社です。

ここでも、「大物主神」が実は「天照大神」であるこ
とを示しています。

また、「倭大国魂神」は「須佐之男命」であり、この
両神が、宮廷内でも尊崇されていたことは明らかです。

因みに、「意富多多泥古」(オオタタネコ)は、神武
天皇とイスケヨリヒメとの間の第2子「八井耳命」の
子孫「多」氏ですが、「大物主神」が自分の子孫だと
言っています。ここでも、古事記の作者は自白(ゲロ)
してしまいました。

本当は、何とかして真実を伝えたくて、必死に謎を隠
しておいたのでしょう。ニギハヤヒの子孫の太安万侶
さんですもの。

この神様のお引っ越しについて、
考察するに、これは、日向系の天津神(アマツカミ)
と奴国系の国津神(クニツカミ)を信奉する者たち
の間での軋轢、葛藤があったのではないかと思われ
ます。

大和朝廷は、合併によって誕生しましたが、日向系
と奴国系の争いが継続していたのではないかと思わ
れます。

崇神天皇が四道将軍を派遣した国を見てください。
全て、奴国系の国々です。吉備(岡山)、旦波(丹波)、
高志(越の国、越前・越中・越後)、会津、東海道。

これが、その後の「天照大神」の位置づけに大いに
関与したものと思われます。


posted by mydears at 13:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

大和朝廷の謎(5)卑弥呼 その3

大和朝廷が、「陳寿」に対して虚偽の情報を
与えていたのだろうとは思いますが、気になる
のは、

南に水行10日と陸行1月で女王の都のある
邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、
弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、
奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

という、実際に「陳寿」がその地に至った
ような記述があることです。

もしかしたら、昼の晴れた日は南に向かい
曇りや雨の日は東に向かい、月や星の見える
夜は酒や肴で饗応漬けにするなど、涙ぐましい
努力があったのかもしれません。
その場合の航路は、豊後水道を南に下り、四国
を回り込む形で東に向かったのでしょう。

弥馬獲支(みまかくき)という名前も、
第10代崇神天皇の本名が「御間城入彦五十瓊殖尊」
(ミマキ イリヒコイニエノミコト)ですから、
何となく似ていますね。

さて、この崇神天皇の時代、大きな内乱がありました。
魏志倭人伝の東夷伝倭人条には、

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、
100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々は
これに服さず内乱となり1000余人が死んだ。
そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女の
壹與が王に立てられ国は治まった。

とあります。

実際に、第10代崇神天皇の時代に、四道将軍の派遣が
あり、吉備(岡山)、旦波(丹波)、高志(越の国、
越前・越中・越後)、会津、東海道とかなり広範囲に
戦闘が及んでいることから、これが、その時のことを
記述しているのではないかと思われます。

吉備国に派遣された吉備津彦命は、桃太郎伝説のモモタ
ロウのモデルだと言われています。

「13歳の少女の壹與」は、崇神天皇の娘、「豊鍬入姫命」
(トヨスキイリヒメ)と思われます。

posted by mydears at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

大和朝廷の謎(4)卑弥呼 その2

さて、問題は、魏志倭人伝の東夷伝倭人条の中に
示される場所の問題。

作者の「陳寿」は、嘘を平気で書くような人物で
はなく、その記述は正確で正しいものという前提
でお話しを進めなければなりません。

先程、「卑弥呼」の宮殿は、奈良田原本町あたり、
現在の唐古鍵遺跡あたりにあったと述べましたが、
いわゆる別宮が、福岡市博多湾の近くにあった
ようです(あるいは佐賀の吉野ヶ里だったのかも
しれません)。

政治の中心は奈良、経済・外交の中心は九州とい
う使い分けがされていたのかもしれません。

この頃の大和朝廷は、まだまだ不安定で、外国か
らの侵略も警戒する必要があったので、九州の南
の果てに都があったと嘘をつき、その情報を鵜呑
みにした陳寿に偽りの記載をさせたとも考えられ
ます。

敵が、山が多い九州を南下して来れば、その殲滅
作戦も容易だったことでしょう。

実際、ずっと時代が下りますが、元寇の時も元軍
は、博多、松浦湾辺りに侵攻して来ましたが、
京都に近い敦賀や加賀辺りに上陸するそぶりも
見せていません。

もしかしたら、遠い東の海上にある島国の事など
その程度にしか理解していなかったのかもしれま
せんね。

posted by mydears at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

大和朝廷の謎(3)卑弥呼 その1

いよいよ、古代最大の謎、卑弥呼です。

魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の
「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。
西晋の陳寿により3世紀末に書かれました。
この頃には、既に、奴国は倭国と認識され
ていたのでしょう。

倭人とは、大和国の大を取って「和」国。
和の蔑称として、小さい人々を表す「倭」の
語をあてたのだと思います。

邪馬台国も「大和国」の蔑称としてのあて字
だと思います。

元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭
国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(倭国
大乱)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を
女王に共立することによってようやく混乱を鎮
めた。

と、あります。

昨日、第6代孝安天皇のお話しをしました。
ちょうどその頃、倭国は大乱の中にいたので
しょう。

だから、金印「漢委奴国王」をお墨付きとして
拝領したが、王宮で保管されることなく、志賀
島の浜辺近くで巨石の下に隠されていたのだと
思われます。

第7代孝靈天皇の娘に「倭迹迹日百襲姫」
(ヤマトトトビモモソヒメ)という人がいます。

この人こそ、「卑弥呼」だと思われます。

卑弥呼という記述も、日巫女(ヒノミコ)また
は姫御子(ヒメミコ)の蔑称としてあて字した
のだと考えられます。

「女王」というのは、第7代孝靈天皇以降、
第10代崇神天皇あたりまでの間、
@摂政的な役割を果たしたか、または、
A祭祀者としての政治(祭りごと)を行っていて、
天皇と実務的な国務を分担していた
と、思われます。

巫女は神様のご意思を代弁する存在なので、
最高権力者の天皇でさえ、ひれ伏して、ご託宣
を聞く様子を見たものは「女王」と思うことで
しょう。

この頃の宮殿は、奈良田原本町あたり、現在の
唐古鍵遺跡あたりにあったと考えられます。

墓はすぐ東の箸墓古墳と比定されています。



posted by mydears at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

2017年11月20日

大和朝廷の謎(2)金印

今日は、金印のお話しです。

その前に、大和朝廷の状況です。
先日も述べました通り、日向、奴国、大和国の合併により、
かなり穏便に大和朝廷は誕生しました。

まさに、和の国、大いなる大和国です。

しかし、現在の会社合併でもそうですが、やはり派閥の
ようなものは存在し、小さな国々の寄り合い所帯(奴国
も大国主命時代大いに発展しましたが、婚姻や連帯によ
るまとまりでした)であることには、変わりありません
でした。

ゆるやかな連邦制、連帯国家であったと考えられます。
神武天皇の後継をめぐりいざこざがあったり、まだ
しっかりとした体制ではありませんでした。

おそらく第3代の安寧天皇時代にはかなり落ち着き、
安定してきたものと思われます(安寧という名前が
それを示しています)。また、そのため、大した
業績もなく、欠史八代と呼ばれる所以だと考えられ
ます。

さて、第3代安寧天皇の頃、有名な金印が後漢の
光武帝より届けられます(西暦57年)。

有名な国宝「漢倭奴国王」です。

金印.JPG

しかし、よく見ると「倭」ではなく「委」です。
従って、通説の「漢の倭の奴国王」ではなく
「漢が委任する奴国王」が正解と思われます。

つまり、大和朝廷は、対外的には「奴国」を
名乗り続けていたのです。

これは、先にも述べたように、当時奴国は朝鮮
半島にも領地を持っており、外国との交渉は
この奴国の出張所を通じて行っていたからだと
思われます。

さらに、後漢書「東夷列伝」に「倭国王師升等
、貢に生口百六十人を献じ請見を願う」とあり
ます。

通説では、「倭国王」(わこくおう)「師升」
(すいしょう)「等」(とう)と読んでいますが、
これも、「倭国」(わこく)
「王師升等」(おしひと)が正解と思われます。

第6代孝安天皇は、本名「日本足彦国押人尊」
(ヤマトタラシヒコクニ オシヒト ノミコト」
ですから、孝安天皇が奴隷を贈られたのでしょう。
西暦107年のことです。

日本書紀では、第3代安寧天皇が紀元前548年、
第6代孝安天皇が紀元前392年の即位となって
いますので、500年から600年も年代のサバ
を読んでいたことになります。

次回は、いよいよ、皆さんの最大関心事、卑弥呼
のお話しです。お楽しみに!!



posted by mydears at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷

2017年11月19日

月読命の謎

そういえば、月読命の事を忘れていました。

正直言って、古事記にも日本書紀にも殆ど記述がなく、あっても須佐之男命と被ったようなものです。古事記の嘘に騙されず、その隠された真実を暴き出すという本稿の立場をもってしても、その記事の少なさから解明は難しいです。

現存する神社は、伊勢、京都等それほど多くありません。しかも、御利益は安産だったりします。

そもそも、男神なのか女神なのかも明確ではありません。

考えられる可能性は、次の3つです。

@天照が太陽だから、その対極の月が必要だった。
A月読命に対応する人物が実際にいた。
B月読命と須佐之男命は同一人物だった。

まず、天照大神が女神だとすると月読命の存在が微妙になるのでしょうね。天照は太陽の象徴、月読は月の象徴ですから、

天照大神が女神だとすると月読命が男神。このため、混乱した話ししか出来上がらなかったのでしょう。

古今東西、太陽神は男、月の女神は女と相場は決まっていますから。

天照大神が男神だったと考える本稿では、割と簡単に説明できます。

それはズバリ、天照=饒速日命、月読=瀬織津姫です。

ただ、古事記で、イザナギが右目を洗った時に出来た2番目の子ということですから、これは日向側の人物という可能性も捨て切れません。

また、四国の愛媛県あたりに若干その痕跡も伺えますので、東征に先立ち日向から海を渡って四国に移った人物がいたのかもしれません。

いずれにしても、暦に詳しい、現在で言えば農林水産省、経産省、気象庁、経済企画庁を統合したような重要ポストを束ねたであろう人物だったのでしょう。
posted by mydears at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 月読命

2017年11月18日

大和朝廷の謎(1)神武天皇

今まで述べたように、この国は、須佐之男命を建国の父とし、
天照大神(ニギハヤヒ)が受け継ぎ、神武天皇で完成させたと
いえるでしょう。

おそらく、大和朝廷での扱いも、須佐之男命、天照大神(ニギハヤヒ)
を国の守り神としてあつく崇拝されていたものと思われます。

実際、今、日本で最も多い祭神は須佐之男命、次に村の鎮守の八幡様
応神天皇だと言われています(お稲荷さんは除きます)。

天照大神ももちろん多いのですが、持統天皇以来の書き換えで、
その正体は謎のままです(いろんな名前で出ています)。

だから、その本宮は、奈良を見下ろす三輪山ではなく、幾度も
の遷宮の上、現在伊勢に鎮座されているとも言えます。

いずれにしても、伊勢神宮は、日本第一の格式を誇る神社であり、
その本当のご祭神はまさに神のみぞ知るということでしょう。

さて、神武天皇に話は戻ります。

神武天皇には、4人の子供がいました(日本書紀では5人)。
日向時代の妻、吾平津姫(アイラツヒメ)との間に1人
名を手研耳(タギシミミ)と言います(日本書紀では2人)。
正妻伊須気余理姫(イスケヨリヒメ)との間に、3人。
八井命(ヤイノミコト)、八井耳命(ヤイミミノミコト)、神沼河
耳命(カムヌナカワミミノミコト)です。

古事記の木花咲耶姫が自分の無実を晴らすため、火の中で3人の
子供を産んだ話をご存知でしょうか?

一番上が海彦、3番目が山彦です。

海彦は、山彦をいじめ、最後には山彦に破れ降参する話です。

実は、同じような事がこの家族に起こっていました。

神武天皇の死後、なんとあろうことか、手研耳がイスケヨリヒメ
を自分の妻にしてしまったのです。

皇位の正当性を示すために前皇后を妻にしたのか、それとも
それほど彼女が美しかったからなのかはわかりませんが、
イスケヨリヒメは手研耳が自分の子供たちを殺そうとしている
ことを知ってしまったのです。

彼女は、その事実を兄弟に伝えました。
そして、八井耳命と神沼河耳命の2人は先に手研耳を殺すこと
を決断します。

決行当日、先に手を下すことになっていた八井耳命は、生来の
優しい性格のため、怖くなって動けません。そこで、神沼河耳命
が実際にやり遂げました。

皇位を継ぐ者を決定する時、八井耳命は、弟である神沼河耳命
に譲り、自分は、祭祀者として生きると決めました。

この神沼河耳命が第2代綏靖天皇です。八井耳命は、どうなった
かというと、多氏の祖、あの古事記の編纂者・太安万侶の祖と
なりました(本当は、もっと触れたいことがあるのですが、ここ
は我慢しておきます)。

次は、金印のお話しでもしましょうか。それでは!




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