2017年11月28日
大和朝廷の謎(26)白村江の敗戦
孝徳天皇の死後、皇極天皇が重祚を行い第37代斉明天皇
として再び即位されました。
その頃、唐と新羅の連合軍に百済が追い詰められていまし
た。義慈王が降伏し、遺臣たちが抵抗を続けている状態で
最後の望みは、百済から大和朝廷が預かっていた王子・余
豊璋(よほうしょう)でした。
斉明天皇は、王子の返還と援軍を要請され、これを受諾し、
大軍を百済に派遣します。
斉明天皇自らも九州まで遠征しますが、筑紫の朝倉宮で急
逝され、以後は、中大兄皇子が称制という形で皇位に就か
ないまま軍を統率しました。
しかし、余豊璋や倭軍と百済の遺臣の間でゴタゴタが起こ
ります。
ついに663年、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)
で倭軍と唐軍が激突、倭軍は歴史的大敗を喫しました。
これ以後、百済は滅亡し、大和朝廷は朝鮮半島から駆逐
されることになりました。
因みに、唐・新羅連合軍は、この後、高句麗を滅ぼし
ますが、最終的に唐も追い出され、新羅が朝鮮半島を支
配することになります。
として再び即位されました。
その頃、唐と新羅の連合軍に百済が追い詰められていまし
た。義慈王が降伏し、遺臣たちが抵抗を続けている状態で
最後の望みは、百済から大和朝廷が預かっていた王子・余
豊璋(よほうしょう)でした。
斉明天皇は、王子の返還と援軍を要請され、これを受諾し、
大軍を百済に派遣します。
斉明天皇自らも九州まで遠征しますが、筑紫の朝倉宮で急
逝され、以後は、中大兄皇子が称制という形で皇位に就か
ないまま軍を統率しました。
しかし、余豊璋や倭軍と百済の遺臣の間でゴタゴタが起こ
ります。
ついに663年、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)
で倭軍と唐軍が激突、倭軍は歴史的大敗を喫しました。
これ以後、百済は滅亡し、大和朝廷は朝鮮半島から駆逐
されることになりました。
因みに、唐・新羅連合軍は、この後、高句麗を滅ぼし
ますが、最終的に唐も追い出され、新羅が朝鮮半島を支
配することになります。
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