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2018年03月02日

大峠 神様一覧(まとめ1)

「松の巻」「夜明けの巻」に出て来る、天之日嗣・日月神のひつき文末・署名一覧です。

神まとめ1.png

天之日嗣は、正統の継承者ご神名。

天之日月は、歴代の正統神(日の神、月の神)

2018年03月03日

大峠 神様一覧(まとめ2)

次は、「雨の神」から「竜宮の乙姫」までです。
既に、お知らせしたように、「金の神」「火の神」「日の出の神」「竜宮の乙姫」が不確定となっています。
欄外右下に可能性のあるご神名を記載しております。
天照皇大神に「饒速日尊」と「瀬織津姫」が含まれるのであれば、「日の出の神」が「火遠理命」、「竜宮の乙姫」が「玉依姫」で確定となります。

神まとめ2.png


おまけ

カーリング女子に触れましたので、ついでに一つ。

テレビを見ておりましたら、北見市の「常呂神社」の話が出てまいりました。

ご祭神は、
@塩土翁大神
A天照皇大神
B建速須佐之男大神
C大綿積大神

とのことです。
@とCは海の神様ですが、全体的な印象としては出雲系の古くからある神社のようです。

注目すべきは、@の「塩土翁大神」です。

この神様は、古事記でも「塩椎神(しおつちのかみ)」として登場し、海彦の釣針を失くして悲嘆にくれる「火遠理命」=山幸彦の前に現れて導いてくれたり、日本書紀では神武天皇に東征を決意させたりと、人生の転機において登場して助けてくれる神様のようです。

私は、「オオカムツミの神」との共通点を感じてしまいます。

もしかしたら、その中のお一人かも。。


2018年03月05日

大峠 神様一覧(まとめ3)

国常立大神、豊雲野大神、須佐鳴之大神他の一覧です。艮の金神も入っています。

艮の金神については、先日検討いたしましたが、国常立大神のことであるとの証拠は見つかっておりません。
おそらく、出口直さんの馴染みのある神様のお名前で、どなたかが出て来られたということでしょう。

実際に、お筆先に現れる神様は一柱ではなく、入れ替わり立ち代わり複数の神様が現れられるので、「艮の金神」を特定しようとすること自体が無意味なのかもしれません。そもそも艮の金神が意味する鬼門の神様は「陰陽道」の神様のお名前であって、本来の古神道とは全く無関係なわけですから。

ただ、「国常立大神」、「豊雲野大神」が何らかの理由で封印されていたことは文脈から明らかであり、「祟り神」として扱われていたことに対する比喩として「艮の金神」の名前を持ち出されたのだろうと思います。


神まとめ3.png

2018年03月06日

大峠 神様一覧(まとめ4)

オーカムツミ神の一覧です。

なぜか大小の区別があるものもあります。夜明けの巻 第2帖「アメのひつ九Θ(天之日嗣神)」にも大小がありましたが、数字が丁度その半分の「12」と「3」であることが何かをにおわせます。

また、「オーカムツミの神」の合計が「96」で「オーカムスミの神」の合計「32」の3倍になっていることも何かありそうです。


神まとめ4.png


2018年03月07日

大峠 神様一覧(まとめ5)

さて、大峠の神様、最後の食に関する神々です。

豊受大神と共に、御食(みけ)の神、御饌(みせん=みけつ)の神らしきお名前が見られます。
保食神(うけもちのかみ)と宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)でしょう。

御饌の神が「宇迦之御魂神」と思われますが、数字がないので「豊受大神」と同一なのかもしれません。

さて、この「豊受大神」ですが、「月読尊」と同様に非常に有名な神様でありながら、その実体が不明なことでは双璧といえます。

古事記では、伊弉冉の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子として豊宇気毘売神(とようけびめ)として登場し、食物・穀物を司る女神とされています。

その後、雄略天皇の時代に、「丹波国比治の真奈井(まない)の御饌の神、等由気大神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」ということで、外宮に祀るようになったとされています。

真奈井で水浴をしていた天女8人のうち1人が、老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、それが豊宇賀能売命(とようかのめ)であるとの伝説も残っています。

何が何だか分かりませんね。

一方、福知山市大江町には元伊勢豊受大神社があり、豊鍬入姫命との繋がりが深そうです。
やはり、以前に指摘させて頂いた、伊勢神宮・内宮(天照=卑弥呼)、外宮(豊受=登与)の図式が、どこかの時代に組み込まれたものと考えられます。

日月神示では、「豊受大神」は「宇迦之御魂神」のことであると結論付けさせて頂きたいと思います。


神まとめ5.png


2018年03月08日

大峠 神様一覧(まとめ6)

さて、これまでは、「松の巻」と「夜明けの巻」に記載された神様について考察して来ましたが、「火の神」「日の出の神」「竜宮の乙姫」の3柱と「雨の神」他7柱の合計10柱の神(とおかみ)について一覧にしてお見せしました。次に、「雨の神」他7柱の下に配置される49柱の神(鳴り成る神)について考察してみたいと思います。

月の巻 第30帖に示される伊邪那岐・伊邪那美尊の「島生み・神生み」のうち、まず「島生み」から。
二島、八島、六島の合計十六島が生まれたと書いてあります。しかし、このうち、二島「水蛭子」と「淡島」は「国のうちに隠れた」とありますので除くと十四島。

この二島もなかなか面白くて、個人的には「水蛭子」は「伊豆半島」、「淡島」は「琵琶湖」(または「島根半島」)のことではないかとも思っておりますが、証拠はないのでご提示させて頂くに留めます。

この十四島には、複数の神様がある島もあり、合計で20柱となっております。
阿波の「大宣都比売」については、「素戔嗚命または月読命に殺された」とありますが別の個所に生存の記録もありますので、あえて数に加えさせて頂きました。徳島県だけ神様がないのはかわいそうですものね。

本来、あしざまに素戔嗚命を悪く書く日本書紀で月読命の仕業になっていて、同情的な古事記で建速須佐之男命の仕業になっているのは、逆転現象で興味深いですね。


神まとめ6.png

次は、「神生み」の29柱のお話です。

大峠 神様一覧(まとめ7)

前回の続き、「神生み」29柱のお話です。

まず、男女ペアの神様は一柱と数えます。次に「志那都比古神」「天之水分神」「国之水分神」「建御雷男神」「建布都神」は十柱の神(とおかみ)なので除外します。さらに「大宣都比売神」は「島生み」で既出なので除きます。また、「火之夜芸速男神」「火輝比古神」は「迦具土神」のことで、伊邪那岐尊に殺されたとのことで外しますが、「迦具土神」の身体から「石析神」を始めとして17柱という多くの神が出現されており、これらの神を「迦具土神」として一柱と数えることにします。

以上29柱、「島生み」の20柱と合わせて49柱。これら7x7=49柱の神を「鳴り成る神」として比定したいと思います。


神まとめ7.png



2018年03月09日

月読尊の再考

月の巻 第28帖
岩戸あけたり日本晴れ、富士光るぞ、この巻役員読むものぞ、世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。
くも出てクニとなったぞ。出雲とはこの地(くに)のことぞ。
スサナルの神はこの世の大神ぞ。
初めは◎(うず)であるなり、渦右巻き.jpg(うご)いて月となり地となりたのざぞ。
アは (ヒツキクニ)の神様なり、ワヤ.jpg(ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ。
このこと始めに心に入れれば掃除他愛ないぞ、グレンとは上下かえることと申してあろうがな、言うてはならぬことぞ。言わねばならぬことぞ。

月の巻 第37帖
天にも天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)様、天照大神(あまてらすおおかみ)様あるように、地にも天照皇大神様、天照大神様あるのざぞ。
地にも月読大神(つきよみのおおかみ)様、隠れてござるのざぞ。素盞鳴大神(すさなるのおおかみ)様、罪穢れ祓いて隠れてござるのざぞ。
結構な尊い神様の御働きで、何不自由なく暮らしておりながら、その神様あることさえ知らぬ臣民ばかり。
これでこの世が治まると思うてか。

以前、日の神と月の神は複数の神様の総称であるとの結論をご提示いたしました。

また、狭義には、

天 天照皇大神 (伊邪那岐大神)  天照大神 (大日婁貴)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
地 天照皇大神 (伊邪那美大神)  天照大神 (饒速日尊)

地 月読大神  (瀬織津姫)         (素盞鳴大神)=須佐之男大神

と、なるのではないかともご提示いたしました。


月の巻 第28帖を、より詳細に表すと

初め
日 スサナル 月 大日婁貴 地 国常立    (奴国)


日 大日婁貴 月 スサナル 地 国常立    (国譲り)


日 饒速日  月 瀬織津姫 地 スサナル   (大和国)


と、なります。

最後の形が「地に隠れてござる」狭義の大神様だと思います。


2018年03月10日

米朝首脳会談実現へ?

下つ巻 第34帖
臣民はすぐにも戦済みて善き世来るように思うているが、なかなかそうはならんぞ、臣民にΘうつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民、幾人もないぞ、みな曇りているから、これでは悪の神ばかりが憑(か)かりて、だんだん悪の世になるばかりぞ、それで戦済むと思うているのか、自分の心よく見てござれ、よくわかるであろがな、戦済んでもすぐに善き世とはならんぞ、それからが大切ぞ、胸突き八丁はそれからぞ、富士に登るのにも、雲の上からが苦しいであろがな、戦は雲のかかっているところぞ、頂(いただき)までの正味のところはそれからぞ。一、二、三年が正念場ぞ。三四五(みよいづ)の仕組と申してあろがな。


突然のニュースで、マスコミの方たちも舞い上がっています。現在は、慎重論もかなり見受けられますが、徐々に進展していく(ように見える)と、必ず、友好論者が幅をきかすことになると思われます。大陸の諸国は、長い戦いの歴史がDNAまで深く染み付いていますから、敵をあざむくための嘘やゴマカシを何とも思っておりません。また、非常に頭の良い人たちです。米国も大きいとはいえ「島国」みたいなもので、しかも、他国から侵略を受けた歴史を持ち合わせておりません。騙されないよう祈るばかりです。

もしかしたら、「一、二、三年が正念場」は、新天皇即位後の「一、二、三年」かもしれません。
今後の成り行きに注意したいと思います。


2018年03月12日

猫に気つけよ、犬来るぞ

中国・北京で開催中の第13期全国人民代表大会(全人代:日本の国会に相当)第1回会議において、中国国家主席の任期を撤廃する憲法改正案が可決されました(3月11日、即日公布、施行)。

日の巻 第10帖
「日本の臣民これで戦済むように申しているが、戦はこれからぞ。旧十月八日、十八日はいくらでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。今は型であるぞ。早う改心すれば型小さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気つけよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのだぞ。神が表に出て御働きなされていること、今度はよくわかりたであろがな。Θと神との戦であると申してあろがな。戦のまねであるぞ。」

3月11日は、旧暦1月24日(壬寅)となります。
東日本大震災の日に、この決定がなされたのは、何かの因縁でしょうか。
これで、中国は、戦争の結果にかかわらず、国家主席の地位は不動のものとなりました。
尖閣侵攻は、いよいよかもしれません。

中国には「張子の虎」という言葉があります。威勢ばかりよくて内実の伴わないものを意味しています。
張子の虎にならないよう、「猫」が動いてくるかもしれません。要注意です。


よく言われるのに、「2018年は子の年真中の最後の年」というのがありますが、間違っていると思います。2016年申年始めの3年目です。猿鳥犬の「桃太郎」です。亥年、子年が正念場です。

本命真中は2041年ですが、今年から3年間も要注意の年です。


2018年03月13日

雨の巻 第1帖

天の日津久の大神のお神示であるぞ、とくにお許しもろて書きしらすぞ。
十二の巻、説いて知らすのであるぞ、この巻「雨の巻」と申せよ。この度は昔から無かりたこと致すのであるから、人民にはわからんことであるから、素直に致すが一等ざぞ。惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申しているが、それが一等の間違いざぞと申してあろが、惟神とはΘ人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民Θ無くしているでないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、いよいよとなるまでは落としておくから、見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ。
世界中に面目ないことないようにせよと申してあろうが。足元から鳥立ちてもまだ目覚めんのか、神示裏の裏までよく読めと申してあろうがな。この道はただの神信心とは根本から違うと申してあろうが、三千世界の大道ざぞ。所の洗濯と身魂の洗濯と一度になるところあるぞ、イスラの十二の流れの源わかる時来たぞ。
命がけでΘの御用つとめていると思うて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。Θはせよと申すことするなと申すこともあるのぞ。裏の裏とはそのことぞ、よく心得て下さりて取り違い致すでないぞ。手のひら返すぞ返えさすぞ、この度の岩戸開きは人民使うて人民助けるなり、人民はΘのいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神憑かれるように、いつも神憑かっていられるようでなくてはならんのざぞ。Θの仕組いよいよとなったぞ。
十月十三日、ひつ九のか三。


十二の巻とは、上つ巻から夜明けの巻までの12巻のことです。この「雨の巻」以降は、終戦後の神示となります。

「惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申しているが、それが一等の間違いざぞと申してあろが、惟神とはΘ人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民Θ無くしているでないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ」
国家神道の影響は、現代の世の中にも深く根をおろしており、なかなか正神復活とまで行かないようです。まあ、拠り所となるのが、「古事記」と「日本書紀」しかないので仕方ないかもしれません。少なくとも「先代旧事本紀」「宮下文書」や各地に残る「風土記」「神社由緒・縁起」くらいはまともに研究して欲しいと思います。

「世界中に面目ないことないようにせよと申してあろうが。足元から鳥立ちてもまだ目覚めんのか、神示裏の裏までよく読めと申してあろうがな。」
米軍が「悪の御用」(当時の日本人にとっての悪)だったのでしょう。日本人の目を覚ますための外圧だったようです。その結果、帝国主義からの脱却はできましたが、「大和魂」も失われてしましました。これが2つ目の「悪の御用」でしょう。今、私たちはそれにより試されています。

「この道はただの神信心とは根本から違うと申してあろうが、三千世界の大道ざぞ。所の洗濯と身魂の洗濯と一度になるところあるぞ」
土地の穢れと人心の穢れのお掃除のことでしょう。

「イスラの十二の流れの源わかる時来たぞ。」
イスラエル十二氏族のことですね。以前、検討しましたが、Yap遺伝子との繋がりはありませんでした。おそらく、縄文時代後期に南から流入(ガド族?)したか、弥生人として、満洲、朝鮮半島を経由して流入(エフライム族?)したと思われます。後年(応神天皇期)になり、秦氏の流入と共に確立したと思われます。
日向=ガド族、出雲=エフライム族(以上旧約聖書)、秦氏(景教=新約聖書)という図式でしょうか。

「命がけでΘの御用つとめていると思うて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。Θはせよと申すことするなと申すこともあるのぞ。裏の裏とはそのことぞ、よく心得て下さりて取り違い致すでないぞ。手のひら返すぞ返えさすぞ」
中矢伸一氏著「日月神示完全ガイド&ナビゲーション」P147に「昭和二十年夏のある日、数名の青年将校が天明に面会を求め『近衛首相は腰抜けで役に立たない。このままにしておくと日本は総つぶれだ。ことは急を要する。すぐ(御神意を)伺ってくれ』と言う。やむなく天明が神前にぬかずき、お伺いをたてると、『それはならぬ』と告げられた」とあります。このことではないかと思います。この結果、日本はそのまま終戦を迎え、本土決戦は回避されました。私は、この「ご神意」が本当にあったかどうか、もしかしたら、岡本天明氏の独断で良心に従った回答をされたのではないかと思っています。そして、九月八日の仕組は無くなりました。

「この度の岩戸開きは人民使うて人民助けるなり、人民はΘのいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神憑かれるように、いつも神憑かっていられるようでなくてはならんのざぞ。Θの仕組いよいよとなったぞ。」


十月十三日は、旧暦昭和20年年9月8日、その日です。


posted by mydears at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 雨の巻

2018年03月14日

雨の巻 第2帖

天の大神様は慈悲深くてどんな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におえん、見当取れん、そこでΘΘ様をこの世から追い出して悪Θの言うこと聞く人民ばかりとなりていたのであるぞ。七五三(しめ)はΘΘ様をシメ込んで出さぬためのものと申してあること、これでわかるであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、キリストの十字架も同様ぞ、キリストを十字架に釘付けしたのは、そなたたちであるぞ、懺悔せよ。
〇とは外国のことぞ、ΘがΘ国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤っているぞ。大き心持てよ、鏡掃除ぞよ、上中下三段に分けてある違う血筋をだんだんに現わすぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次は十であるぞよ。何事も裏腹と申してあろうが、他人が他人がと思っていたこと、我のことでありたであろうがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞いせんならんぞ、日本が日本がと思うていたこと、外国でありたこともあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、わかりたか。
餓鬼までも救わなならんのであるが、餓鬼は食べ物やれば救われるが、悪と善と取り違えしている人民、守護神、神々様救うのはなかなかであるぞ、悪を善と取り違え、天を地と、地を天と信じている臣民人民なかなかに改心難しいぞ。我と改心出来ねば今度は止むを得んこと出来るぞ、我ほど偉い者ないと天狗になっているから気をつけるほど悪う取りているが、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれんことになったぞ。
十月の十四日、ひつ九のか三しるす。


「天の大神様は慈悲深くてどんな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におえん、見当取れん、そこでΘΘ様をこの世から追い出して悪Θの言うこと聞く人民ばかりとなりていたのであるぞ。七五三(しめ)はΘΘ様をシメ込んで出さぬためのものと申してあること、これでわかるであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ」
鳥居は奈良時代頃から出来たといわれるので、その頃のことかと思われます。「鳥居」の名前は「鳥が居る」または「通り入る」などが由来と思われますが、一説には、「天の岩戸」の「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の止まり木が起源とも言われています。そうであれば、「間違った岩戸開き」の象徴とも言えます。「悪Θ」とは「天照大御神」のことなのでしょうか。「大日孁貴」は「御三体の大神様」の一柱であることは明らかです。そうすると、「天照大御神」がどうのこうのというより、持統天皇の時代に作り上げられた「天照大御神」の虚像のことを指しているように思われます。即ち、日本の最高神として「天照大御神」をまつりあげ、それまでの「大神」を次々に消し去り、葬り去ったことなのでしょう。「悪Θ」は「持統天皇」を始めとする当時の藤原一族(政権)のことだとも言えます。ただ、その平安時代が日本史において最も平和な時代の一つであったことは皮肉ですが。

「キリストの十字架も同様ぞ、キリストを十字架に釘付けしたのは、そなたたちであるぞ、懺悔せよ」
本当ですね、私も以前から、どうして「十字架に釘付けされたキリスト」や「十字架」が信仰の対象になるのか不思議に思っていました。「十」の形そのものは天地水平であり、神を示すものとは思いますが、キリストはその「十字架」によって、自由を奪われ、死に至ったわけです。本来は「忌むべき」ものではないかと。祈るのであれば「私たちが悪うございました。決して過ちは繰り返しません」でしょう。何か広島の慰霊碑の文言のようになってしまいますが。

「上中下三段に分けてある違う血筋をだんだんに現わすぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次は十であるぞよ。」
上中下三段は「違う血筋」なんですね。「始めから居た者」「後から来た者」「これから来る者」でしょうか。簡単に言うと「縄文人」「弥生人」「帰化人」のことだと思います(上中下がどれであるかは分かりません)。確かに、遺伝子の研究が進み、段々明らかになりつつあります。「八苦」の次は「十」充、足りです。十中八九間違いないでしょう。(笑)

「何事も裏腹と申してあろうが、他人が他人がと思っていたこと、我のことでありたであろうがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞いせんならんぞ、日本が日本がと思うていたこと、外国でありたこともあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、わかりたか。」
戦争中は日本が外国=幽界でした。戦後は、日本人の心が外国=幽界になっています。上下ひっくり返ります。

「餓鬼までも救わなならんのであるが、餓鬼は食べ物やれば救われるが、悪と善と取り違えしている人民、守護神、神々様救うのはなかなかであるぞ、悪を善と取り違え、天を地と、地を天と信じている臣民人民なかなかに改心難しいぞ。」
私たちの信じる「善悪」、「天地」、「正神」、もう一度見直して見る必要がありそうです。

「我と改心出来ねば今度は止むを得んこと出来るぞ、我ほど偉い者ないと天狗になっているから気をつけるほど悪う取りているが、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれんことになったぞ。」


posted by mydears at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 雨の巻

2018年03月15日

雨の巻 第3帖

草木は実を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生まれると申してあろがな。人の身、神に捧げるのざぞ、神の御身となること嬉しいであろがな、惟神(かんながら)の御身とはそのことぞ、神示よく読めばわかるのざぞ。この道は先に行くほど広く豊かに光り輝き、嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、どんなことでも人に教えてやれるように知らしてあるのざぞ。
いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三が元ぞ、天からミロク様は水の御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、このこと魂までよくしみておらぬと御恩わからんのざぞ。悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろうがな、Θの国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国もΘの目からは無いのざと申してあろうが、Θの国あるのみざぞ、わかりたか。改心すれば✓の入れ替え致してその場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしているなら自由になるのであるぞ。我の自由にならんのは、させられているからざぞ、このくらいのことわからんで神国の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。この先は神示に出したこと用いんと、我の考えでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出している臣民ばかりであるぞ。従うところには従わなならんぞ、従えばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れるようにと申して知らしてあろうがな。
十月の十五日、ひつ九のか三。


「草木は実を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生まれると申してあろがな。人の身、神に捧げるのざぞ、神の御身となること嬉しいであろがな、惟神(かんながら)の御身とはそのことぞ、神示よく読めばわかるのざぞ。」
我れ無しで神に身をゆだねることが「惟神の道」だそうです。

「この道は先に行くほど広く豊かに光り輝き、嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、どんなことでも人に教えてやれるように知らしてあるのざぞ。」
惟神の道は、先に行くほど広く豊かに光り輝く、嬉し嬉しの誠の道だそうです。

「いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三が元ぞ、天からミロク様は水の御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、このこと魂までよくしみておらぬと御恩わからんのざぞ。」
初めて「ミロク様」という言葉が出て来たようです。この文章から、「ミロク様」は水の神=月の神であることが分かります。おそらく「瀬織津姫」のことでしょう。そして、「木之花咲耶姫」にバトンタッチされるのでしょう。

「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろうがな、Θの国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国もΘの目からは無いのざと申してあろうが、Θの国あるのみざぞ、わかりたか。」
世界中の国・人が「我よし」の考え方を捨てて「善に立ち返りて御用」する世が来れば、本当に素晴らしい未来が待っているのですが。

「改心すれば✓の入れ替え致してその場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしているなら自由になるのであるぞ。我の自由にならんのは、させられているからざぞ、このくらいのことわからんで神国の臣民と申されんぞ」
民主主義の基本原則は「自由」と「平等」ですが、それぞれが行き過ぎると、せっかくの「理想」も「悪の仕組」となってしまいます。「自由」と「平等」は本質的に相反するもので、「自由」が行き過ぎると「平等」が無くなり、「平等」が行き過ぎると「自由」が無くなります。それぞれが、抑制的になされることが「自由」と「平等」を両立させる唯一の方法となります。その「抑制」は「惟神の良心」によってなされる必要があります。「悪」の✓が入っていると、「させられている」自由となるのでしょう。

「国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。この先は神示に出したこと用いんと、我の考えでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出している臣民ばかりであるぞ。従うところには従わなならんぞ、従えばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れるようにと申して知らしてあろうがな。」
鳥居はダメですが、宮柱は良いようです。諏訪神社の御柱が有名ですね。「高い所から水流れるように」流れのままに自然に、神のご意思に従うことが重要だということです。



posted by mydears at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 雨の巻

2018年03月16日

雨の巻 第4帖

世界の臣民、皆手引き合って行く時来たくらい、申さいでもわかっているであろが、それでもまだ一苦労二苦労あるぞ、頭でわかっても肚でわからねば、発根(ほっこん)の改心出来ねばまだまだ辛い目に遭うのざぞ、人民自分で首くくるようなことになるのざぞ、わかりたであろ。天の御三体の大神様と地の御土の先祖様でないと、今度の根本の大立て替え出来んのざぞ、わかりてもなかなかわからんであろうがな。洗濯足らんのであるぞ。今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、Θは改めてあるが、Θから改めさすのでは人民可哀想なから、めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけお蔭あるのざぞ。
今度の岩戸開いたら末代のことざぞ、天地の違いに何事も違うのざぞ。信者引っ張りに行ってくれるな、皆Θが引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばして帰してやれと申してあろうが、人民喜べばΘ嬉しきぞと申してあろうが、草木も喜ばしてやれよ、神示よく読めば、どうしたら草木動物喜ぶかということも知らしてあるのざぞ、今までの心大河に流してしまえば何もかもよくわかって嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなって、言うに言われんことになって来るのざから、表面(うわつら)ばかり見ているとわからんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ。
元のキのΘの子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と、三つ揃ってしまわねばならんのぞ、アとヤとワと申してあろうが、だんだんにわかりて来るのざぞ。実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、人民はお手伝いぞ、雨風さえどうにもならんであろうが、生き物何で息しているか、それさえわからいでいて何でもわかっていると思っているが、鼻高ざぞと申すのぞ、今のうちに改心すれば、名は現わさずに許して善き方に廻わしてやるぞ、早う心改めよ。
十月十六日、ひつ九のか三。


「世界の臣民、皆手引き合って行く時来たくらい、申さいでもわかっているであろが、それでもまだ一苦労二苦労あるぞ、頭でわかっても肚でわからねば、発根(ほっこん)の改心出来ねばまだまだ辛い目に遭うのざぞ、人民自分で首くくるようなことになるのざぞ、わかりたであろ。」
良く分りました。一苦労は「東西冷戦=米ソ対立」、二苦労は「第2次東西冷戦=米中ソ対立(北朝鮮、中近東、テロ含む)」でしょうか。「世界が皆手引き合って行く時来た」のを分かっているのにそうならないのは、「発根の改心」が出来ていないからでしょう。いかに「教育のあり方」が重要か如実に物語っていると思われます。物質から精神へ、もう待ったなしです。NHKの最近の報道はひどいですが、「教育テレビ」が日本人に与えてきた「情緒・協調」の影響はとても素晴らしいものがあると思います。世界中の子供たちが、そうした環境で育てば、きっと問題の多くは消滅するのでしょうけど。

「天の御三体の大神様と地の御土の先祖様でないと、今度の根本の大立て替え出来んのざぞ、わかりてもなかなかわからんであろうがな。洗濯足らんのであるぞ。」
天の御三体の大神様は「天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神」、地の御土の先祖様は、地の御三体の大神様「邪那岐神、伊邪那美神、撞賢木向津媛神」、「五柱・十柱」を始めとする神々様のことです。

「今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、Θは改めてあるが、Θから改めさすのでは人民可哀想なから、めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけお蔭あるのざぞ。」
めんめとは、「各々」という意味です。京都、高松、四日市の方言としてその痕跡が残っています。

「今度の岩戸開いたら末代のことざぞ、天地の違いに何事も違うのざぞ。信者引っ張りに行ってくれるな、皆Θが引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばして帰してやれと申してあろうが」
今度の岩戸が開いたら、これまでとは全く別の世の中になり、永遠に続くという意味です。

「人民喜べばΘ嬉しきぞと申してあろうが、草木も喜ばしてやれよ、神示よく読めば、どうしたら草木動物喜ぶかということも知らしてあるのざぞ、今までの心大河に流してしまえば何もかもよくわかって嬉し嬉しとなるのざぞ」
草は動物に食べられることを喜び、動物は人に食べられることを喜び(四つ足以外)、人は神に身を捧げることを喜ぶ、但し、いずれも「種」だけは残してやるということのようです。

「まだまだ世界は日に日にせわしくなって、言うに言われんことになって来るのざから、表面(うわつら)ばかり見ているとわからんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ。」
次第に世界はせわしくなって来ました。「世界の民として世界の深層に目を届ける」ことが必要なようです。

「元のキのΘの子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と、三つ揃ってしまわねばならんのぞ、アとヤとワと申してあろうが、だんだんにわかりて来るのざぞ。」
縄文、弥生、帰化人が、ア、ヤ、ワだそうです。神様としては「国常立、須佐鳴、瀬織津姫」でしょう。瀬織津姫の父親は三島の溝杙またの名を陶津耳命と申されます。出自については高皇産霊神の後裔とも言われていますが、水田の灌漑技術を持たれていたらしいことから、大陸からの帰化人ではないかと思っています。瀬織津姫もその娘の伊須気余理姫(木之花咲耶姫)も随分な美人だったということですから、もしかしたら青い目、金髪の方だったかもしれません。陶津耳命は、「八咫烏」とも言われています。

「実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝いぞ、雨風さえどうにもならんであろうが、生き物何で息しているか、それさえわからいでいて何でもわかっていると思っているが、鼻高ざぞと申すのぞ、今のうちに改心すれば、名は現わさずに許して善き方に廻わしてやるぞ、早う心改めよ。」
「生き物何で息しているか、それさえわからいでいて」というのは、単にヘモグロビンを酸化させて体中に酸素を届けるというような物質的なことではなく、「気」とか精神的な何かなのでしょう。



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2018年03月17日

雨の巻 第5帖

神示に書かしたら日月の神が天明に書かすのであるから、その通りになるのであるぞ、皆仲よう相談して
悪きことは気つけ合ってやりて下され、それがまつりであるぞ、ρ(おう)の世が逆さまのЬ(おう)の世になっているのを今度は元に戻すのであるから、そのこと早うわかっておらんと一寸の地の上にもおれんことになるぞ。
今度の戦済みたら世界一平一列一体になると知らしてあろうが、一列一平、その上にΘが居ますのざぞ、Θなき一平一列は秋の空ぞ、魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ、Θは臣民人民に手柄致さして、万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これまでのことは一切用いられんことになるのざと申してあろ、論より実地見て早う改心結構ぞ。
何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一きりぞ、ひふみ肚に入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早うにたためよ、皆えらい取り違いして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ、祀りの仕方スクリと変えさすぞ、誠の神の道に返すのざから、今度は誠の生神でないと、人民やろうとて出来はせんぞ。
十月十七日、ひつ九のか三。


「神示に書かしたら日月の神が天明に書かすのであるから、その通りになるのであるぞ、皆仲よう相談して
悪きことは気つけ合ってやりて下され、それがまつりであるぞ」
日月神示の内容はその通りになるから、皆で注意し合って助け合いなさい、それが「まつり」であるぞということです。

「ρ(おう)の世が逆さまのЬ(おう)の世になっているのを今度は元に戻すのであるから、そのこと早うわかっておらんと一寸の地の上にもおれんことになるぞ。」
本来、上であるべき神が粗末に扱われて下に置かれているのを元に戻すのだから、大変が起きるぞということです。

「今度の戦済みたら世界一平一列一体になると知らしてあろうが、一列一平、その上にΘが居ますのざぞ、Θなき一平一列は秋の空ぞ、魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ」
世界の戦争が終わったら、神の下に全ての人が平等の世の中が来るということです。神のない平等は秋の空のごとくくるくる変わるようです。「魔の仕組」と「神の仕組」の違いは、Θの旗印で見分けることができるそうです。

「Θは臣民人民に手柄致さして、万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これまでのことは一切用いられんことになるのざと申してあろ、論より実地見て早う改心結構ぞ。」

「何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一きりぞ、ひふみ肚に入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早うにたためよ、皆えらい取り違いして御座るぞ」
苦労なしに誠なく、成就もしない。30年などあっという間だぞ。ひふみ、イロハをよく理解して自分のものとして落とし込め。アイウエオではなく、「アオウエイ」を正しいものとして取り扱いなさいということでしょう。

「宮の跡は草ボウボウとなるぞ、祀りの仕方スクリと変えさすぞ、誠の神の道に返すのざから、今度は誠の生神でないと、人民やろうとて出来はせんぞ。」
祀りの仕方が変わり、神社はなくなるようです。



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2018年03月19日

雨の巻 第6帖

神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあろうが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界からどんな偉い人が出て来てどんなこと尋ねても教えてやれるようになるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、祀りて下されよ、素直になればその場から、その場その場で何事もΘが教えてやるから、力つけて導いてやるから、どんな神力でも授けてやるぞ。一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゅななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。
我さえよければよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きては行けんぞ、神ばかりでも生きては行けんぞ、爪の垢でもだてについているのではないのざぞ、わからんと申してあまりで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろえよ、天(あめ)にまつろえよ、人にまつろえよ、草木動物にまつろえよと、くどう知らしてあるのにまだわからんのか、神拝むばかりがまつりでないぞ。
待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。身慾信心している臣民人民、今に神示聞けぬように、いれもの聾(つんぼ)になるのざぞ、厳しくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ないばかりでは日月の御民とは申されんぞ。あら楽し、黒雲一つ払いけり、次の一つも払う日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねばますますわからんことになったであろうが、天国に底ないように、地獄にも底ないぞ、どこまでも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何と申してもΘ承知出来ん。
十一月二十三日、ひつ九のか三。


前半部分のご説明は不要ですね。「神ばかりでも生きては行けんぞ、爪の垢でもだてについているのではないのざぞ、わからんと申してあまりで御座るぞ」の意味は、人の身体が「爪の垢」ということでしょう。

「待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり」
終戦によって、「日の出の御代」となりました。戦後日本の躍進が始まります。

しかし、「身慾信心している臣民人民、今に神示聞けぬように、いれもの聾(つんぼ)になるのざぞ、厳しくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ないばかりでは日月の御民とは申されんぞ。」
と、ありますから、注意が必要です。

「あら楽し、黒雲一つ払いけり、次の一つも払う日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねばますますわからんことになったであろうが」
黒雲は戦争でしょう。次の一つは占領だと思います。

「天国に底ないように、地獄にも底ないぞ、どこまでも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何と申してもΘ承知出来ん。」
鼻高は、「人の命を命と思わない」ような独善的な方向に導いた指導者たちのことでしょう。財閥は解体され、戦争に加担した多くの人が、その地位を追われました(逃げ延びた人たちもおりますが)。しかし、その反省が行き過ぎて、新たな「鼻高」をも生み出しています。

日本にとって、世界にとって、最善の選択をすべく、正しい情報と正しい立ち位置で議論できる土壌の醸成が必要とされています。



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2018年03月20日

雨の巻 第7帖

Θの心のわかりた臣民から助ける御用にかかりてくれよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りてくれよ。三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまわんと、御用している臣民にはさっぱりわからんのであるぞ、(使われているからわからんのであるぞ、)出来上がりてから、これは何とした結構なことでありたかとビックリするのざぞ。
アメのひつ九のか三とはアメの一二のΘで御座るぞ、アメの☽Θ(つきひ)のΘで御座るぞ、元Θで御座るぞ、ムのΘぞ、ウのΘぞ、元のままの肉体持ちて御座る御Θ様ぞ、つちのひつ九の御Θ様ぞ、つちのΘ☽(ひつき)の御Θ様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組見事成就なされるので御座るぞ、わかりたか、国土の神大切申せとくどう知らしてあろうがな、今までの臣民人民、地の御先祖のΘおろそかにしているぞと申して知らしてあろう、神は地に還るぞ、国土つくることどんなに難儀なことか、人民にはわかるまいなれど、今度新(さら)つの世にするには、人民もその型の型の型くらいの難儀せなならんのざぞ。それでもよう堪(こば)れん臣民も沢山あるのざぞ、元のΘの思いの何万分の一かの思いせんならんのざぞ。
今度世変わりたら、臣民この世のΘとなるのざぞ。国の洗濯はまだまだ楽であるが、身魂の洗濯なかなかに難しいぞ、人民可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、いくら言い聞かしても後戻りばかりじゃ、言い聞かして改心出来ねば改心するよう致すより、もう手ないようになっているのぞ。いつどんなことあっても、もうΘは知らんぞ、上から下までもう誰によらん、今までのようなわがままさせんぞ。
役員馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、大さかさ.jpgの阿呆に誤ってくれるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。命捨てて命に生きる時と申してあろうがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞いするのが目に見えんのか。いつも変わらぬ松心でおれと申して御座ろがな、立て替え致したら世界はいったん寂しくなるぞ、Θが物申しているうちに改心せなならんぞ、後悔間に合わんと申してあろがな。
十一月の二十三日、ひつ九のか三。


「Θの心のわかりた臣民から助ける御用にかかりてくれよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りてくれよ。三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまわんと、御用している臣民にはさっぱりわからんのであるぞ、(使われているからわからんのであるぞ、)出来上がりてから、これは何とした結構なことでありたかとビックリするのざぞ。」
三四五の御用は、まだ、これからのようです。「助ける」ためには「清め」が必要とのことです。

「アメのひつ九のか三とはアメの一二のΘで御座るぞ、アメの☽Θ(つきひ)のΘで御座るぞ、元Θで御座るぞ、ムのΘぞ、ウのΘぞ、元のままの肉体持ちて御座る御Θ様ぞ、つちのひつ九の御Θ様ぞ、つちのΘ☽(ひつき)の御Θ様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組見事成就なされるので御座るぞ、わかりたか」

アメのひつ九のか三 は、元Θ、ムのΘ、ウのΘであり、
アメの一二のΘ
アメの☽ΘのΘ
つちのひつ九のΘ でもある

つちのΘ☽のΘ と御一体となり、仕組を成就なされるそうです。

この文章より、「アメの☽ΘのΘ」は「高皇産霊神、神皇産霊神」、「つちのΘ☽のΘ」は「伊邪那岐神、伊邪那美神」と推定しておきます。

「国土の神大切申せとくどう知らしてあろうがな、今までの臣民人民、地の御先祖のΘおろそかにしているぞと申して知らしてあろう、神は地に還るぞ」
伊邪那岐神、伊邪那美神のことかと思われます。

「国土つくることどんなに難儀なことか、人民にはわかるまいなれど、今度新(さら)つの世にするには、人民もその型の型の型くらいの難儀せなならんのざぞ。それでもよう堪(こば)れん臣民も沢山あるのざぞ、元のΘの思いの何万分の一かの思いせんならんのざぞ。」

「今度世変わりたら、臣民この世のΘとなるのざぞ。国の洗濯はまだまだ楽であるが、身魂の洗濯なかなかに難しいぞ、人民可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、いくら言い聞かしても後戻りばかりじゃ、言い聞かして改心出来ねば改心するよう致すより、もう手ないようになっているのぞ。いつどんなことあっても、もうΘは知らんぞ、上から下までもう誰によらん、今までのようなわがままさせんぞ。」
国の洗濯より身魂の洗濯の方が難しいそうです。延ばしに延ばしてはいますが、改心出来なければ改心するようにするしかないそうです。

「役員馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、大さかさ.jpgの阿呆に誤ってくれるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。命捨てて命に生きる時と申してあろうがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞いするのが目に見えんのか。いつも変わらぬ松心でおれと申して御座ろがな、立て替え致したら世界はいったん寂しくなるぞ、Θが物申しているうちに改心せなならんぞ、後悔間に合わんと申してあろがな。」
大阿呆になれ、命捨てて命に生きろということです。非常=非情、小利巧な人には容赦ないそうです。立て替え後は、人口が激減するのでしょう。


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2018年03月21日

雨の巻 第8帖

大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろうがな、いかようにでも受け入れて、善きようにしてやるよう仕組みてある神の心わからんか、天災待つは悪の心ぢゃと知してあろうが、まだわからんのか、国敗けて大変待ちいる臣民沢山あるが、そんな守護神に使われていると気の毒になって来るぞ、よく神示読んで下されよ。今の守護神、悪の血筋、眷族であるぞ、悪も御役ながら、奥(悪?)表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、仏結構、キリスト結構、ことごとく(?)結構の世となり、鳴門の仕組近くなって来たぞ、世の元からの仕組、中行く仕組、天晴れ三千世界結構であるぞ、心の富士も晴れ晴れとなるぞ、結構々々。
甘くてもならんぞ、辛くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天のΘ様ばかりではならんのぞ、くどう申してここまで知らしているのにまだわからんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、いつまでもΘ待たれんぞ。辛さには甘さ陰にあるのざぞ、この道理よくわかるであろうがな。水の味、火の味、結構ぞ、恐い味ないような結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、(苦しみであるぞ、)この道理よくわかりたか。(神の御恵み神の御心わかりたか、)御心とは三つの御心ぞ、一と十と✓とであるぞ、御心結構ぞ、世の元のΘの仕組の現われて、三千世界光り輝く、あなさやけ。
十一月二十七日、ひつ九のΘ。


「大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろうがな、いかようにでも受け入れて、善きようにしてやるよう仕組みてある神の心わからんか、天災待つは悪の心ぢゃと知してあろうが、まだわからんのか、国敗けて大変待ちいる臣民沢山あるが、そんな守護神に使われていると気の毒になって来るぞ、よく神示読んで下されよ。」
現状を受け入れて大難を小難にと祈ることが必要で、天変地異を待つのは悪の心だということです。

「今の守護神、悪の血筋、眷族であるぞ、悪も御役ながら、奥(悪?)表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、仏結構、キリスト結構、ことごとく(?)結構の世となり、鳴門の仕組近くなって来たぞ」
激しいですね。「今の守護神」は「悪の血筋、眷族」だそうです。「今の」というのは戦前から戦中までの国を導いた「守護神」のことでしょうから、「国家神道」の神でしょうが、「血筋」とまで言及されています。これは「国家神道・天照大御神」のモデルとなった「持統天皇」か「卑弥呼」のことだと思われます(撞賢木向津媛=大日婁貴は御三体の大神様ですから)。因みに持統天皇の母は蘇我氏の「遠智娘(おちのいらつめ)」、卑弥呼と比定される倭迹迹日百襲姫の母は「倭国香媛(やまとのくにかひめ)」です。父親はそれぞれ天智天皇、孝霊天皇ですから、悪の血筋とすると天皇家も悪の血筋となってしまうので除外しておきましょう。遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘なので「裏切者(大化の改新)」の娘とも言えなくもありません。もう一人の倭国香媛は謎の多い人物で別名を「意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめの)」とも言われますので、阿礼比売⇒稗田阿礼と呼ばれる語りべの一族かもしれません。
また、「守護神」を、全ての日本人それぞれの守護神と考えると、戦争を遂行するのを助けた守護神なので、それぞれの守護神が「悪神」とも考えられます。
いずれにしても何でもありの「悪結構な世」は済んで「鳴門の仕組」が近づいているそうです。

「世の元からの仕組、中行く仕組、天晴れ三千世界結構であるぞ、心の富士も晴れ晴れとなるぞ、結構々々。
甘くてもならんぞ、辛くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天のΘ様ばかりではならんのぞ、くどう申してここまで知らしているのにまだわからんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、いつまでもΘ待たれんぞ。辛さには甘さ陰にあるのざぞ、この道理よくわかるであろうがな」
天ばかり拝んでいないで、地にも祈れよということです。天国に行くにも地獄の苦しみがあるし、地獄にも天国からの救いがあるぞということでしょう(この世は地獄の下から二段目です)。隠し味みたいなものでしょうか。

「水の味、火の味、結構ぞ、恐い味ないような結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、(苦しみであるぞ、)この道理よくわかりたか。」
水と火の仕組、とんでもなく恐い苦しみであると共に、喜びでもあるそうです。

「御心とは三つの御心ぞ、一と十と✓とであるぞ、御心結構ぞ、世の元のΘの仕組の現われて、三千世界光り輝く、あなさやけ。」
陰の心、陽の心、霊の心、「日月地」の「一二三の仕組」現れて、三千世界が光り輝くそうです。


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2018年03月23日

雨の巻 第9帖

Θの智と学の智とは、始めは紙一重であるが先に行くほどンプ(?)出来て来て天地の差となるぞ、ΘのΘの薬のやり方、悪のΘの毒のやり方となるぞ、Θの御用が人の御用ぞ、人の御用がΘの御用であるなれど、今の臣民
Θの御用するのと人の御用するのと二つに分けているが、見苦しき者にはこれからは御用致させんことに決まりたから気つけておくぞ。
何事も順正しくやりて下されよ、Θは順であるぞ、順乱れたところに、Θのはたらき現われんぞ。何もせいで善きことばかり待ちていると物事後戻りになるぞ、Θの道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(はじめ)の火消えているでないか、まだわからんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)のような心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りて誠のない教えのところへは人集まるなれど、誠の道伝えるところへは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、いくら人は少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時にΘが引き寄せると申してあろうがな、人間心で心配致してくれるなよ。
目眩(めまい)する人も出来るぞ、(ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ、)行けども行けども白骨ばかりと申してあろうがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらんうちにグレンぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元からわかっているのであるから、もう無茶なことは許さんぞ。軽い者ほど上に上にとあがって来るぞ、仕組通りになっているのざから、臣民心配するでないぞ。今度Θの帳面から除かれたら永遠に世に出ること出来んのであるから、近慾に目くれてせっかくのお恵みはずすでないぞ、Θ気つけておくぞ。人の苦しみ見て、それ見たことかと申すような守護神に使われていると気の毒出来るぞ。
世立て替えて先のわかる世と致すのぢゃ、三S(さんエス)の神宝と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬で裏腹であるぞ。 五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生まれんぞ、力生まれるから、カラ(カス?)出来るのぞ、カラ掃除するのがΘの大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除すること大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜてこねまぜて、天晴れこの世の宝と致す仕組みざぞ、わかりたか。一方の3Sよりわからんから、人民いつも悪に落ち込むのぢゃ、この道は中行く道と申して知らしてあろうがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待っていて下されよ、誠の教えばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行い出来んとこの道開けんぞ、理屈申すでないぞ、いくら理屈立派であっても行い出来ねば悪であるぞ、この世のことは人民の心次第ぞ。
十一月二十七日、ひつ九のか三。


智のやり方は薬のやり方、学のやり方は毒のやり方、最初は同じようですが段々差が出て来て、最後には天地の違いになるようです。神の御用と人の御用の話が出て来ました。神の御用は神を受け入れ惟神(かんながら)の道を目指すことで、人の御用は日々の生活を真面目に取り組むということでしょうが、「二つに分け」ることは見苦しき者になるようです。人の御用を果たす上でも惟神の道を踏まえた上で行えということでしょう。悪事(学のやり方)に手を染めることは悪神の手先になることと同意なので注意しなさいということだと思われます。

何事も順序が大事だそうです。高き所から低きところへ水が流れるように自然に物事を運べということです。後戻りは神の道ではないそうです。

一(はじめ)の火は、「霊=魂」のことだと思われます。都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾のように
表面ばかりで虚飾に満ちた誠のない教えのもとに人が集まっているぞということです。

戦後のどさくさにまぎれて悪魔は「軽い者ほど上に上にとあがって来る」仕組を作っているが、これは、神の仕組でもあり、全て分かっていることだから、心配する必要はないとのことです。今度は、永遠に世に出ることが出来なくならないよう、近慾に目をくれず、せっかくのお恵みを受け取れよとのことです。人の苦しみを見て、それ見たことかと考えるような悪い守護神に使われていると残念な結果になるとのことです。

世の中の立て替えが行われると、先に起こることが全て分かるようになるそうです。

「三S(さんエス)の神宝と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬で裏腹であるぞ」
三Sの神宝は、三種の神器で薬です。3Sの神宝は、「sex(セックス)、screen(映画)、sports(スポーツ)」です。毒だそうです。この3Sの娯楽を使って人間を思考力のない奴隷にすることが「悪の仕組」だそうです。気をつけましょう。

「五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生まれんぞ、力生まれるから、カラ(カス?)出来るのぞ、カラ掃除するのがΘの大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除すること大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜてこねまぜて、天晴れこの世の宝と致す仕組みざぞ、わかりたか。一方の3Sよりわからんから、人民いつも悪に落ち込むのぢゃ」
三種の神器(火、水、魂)と3Sの神宝を搗きこね混ぜて、カスを取り除き、「この世の宝」とするそうです。

「この道は中行く道と申して知らしてあろうがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待っていて下されよ、誠の教えばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行い出来んとこの道開けんぞ、理屈申すでないぞ、いくら理屈立派であっても行い出来ねば悪であるぞ、この世のことは人民の心次第ぞ。」
誠の教えと誠の行い、両立して初めて成就するので、それまで、じっと誠の行いの実践をして待っていなさいよとのことです。


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2018年03月24日

太陽の塔 (大阪万博)

今朝のTV番組で、1970年大阪万博の際に建造された「太陽の塔」の話をしておりました。もともと、破壊・撤去されることになっていたこのモニュメントを市民の要望により存続させ、修復を行い、この度、一般に再公開されることになったというものです。
私は、塔の内部に装飾が施されていたということを始めて知りました。1Fから頂上に至るまで、命の樹ともいうべき造形が施され、生命の進化に応じた動物などの人形が配置されております。
顔の部分の「黄金の顔」、正面の「太陽の顔」、背中の「黒い太陽」などと共に、なんと地下には、「地底の太陽」が置かれております。
どうやら、岡本太郎さん、ただの天才ではないですね。
日月神示には、地の日、地の月があることがはっきり書かれています。
この地底の太陽は、地球の中心部にある核融合エネルギーの存在を示しているのでしょう。地球は天の太陽の恵みを受けて存在していますが、同時に、地の太陽の恵みも併せて受けているのです。時にはマグマの噴出として被害をもたらすことがありますが、地の太陽のおかげで冷たい星にならないで済んでいるのです。
天に月があり、海の干満に影響を与えることにより、海をかき混ぜ、空気の対流を起こし、生命を育んでくれましたが(時には台風を起こしたり、干ばつや冷夏などのマイナスもあります)、地にも月=水があり、地の火と反応を起こして、さまざまな恩恵を与えてくれています(地震としてのマイナスもあります)。

火と水の仕組、まさに地球レベルで今現在も実施されている仕組なのです。


2018年03月26日

雨の巻 第10帖

天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりているのざぞ、我一力(われいちりき)では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠のいよいよとなったらもう堪忍してくれとどんな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし、Θも閉口ぞ。酷いところほど身魂に借銭あるのぢゃぞ、魂の悪きことしている国ほど厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。
五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るし、カス出さねば力出んし、それでΘは掃除ばかりしているのざぞ、Θの臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあろうが、キが餓え死にすると肉体餓え死にするぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、Θの子はΘのキ頂いているのざから、食う物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあろうが、キはいくらでも大きく結構に自由になる結構なΘのキざぞ。臣民利巧(りこう)なくなればΘのキ入るぞ、Θの息通ふぞ、凝りかたまるとコリになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろうがな、三千年余りで身魂の改め致して、因縁だけのことは否でも応でも致さすのであるから、今度の御用はこの神示読まいでは、三千世界のことであるからどこ探しても人民の力では見当取れんと申してあろうがな、どこ探してもわかりはせんのざぞ、人民の頭でいくら考へても智しぼっても学ありてもわからんのぢゃ。ちょこらわかるような仕組なら、こんなに苦労致さんぞ、ΘΘ様さえわからん仕組と知らしてあろうが、何より改心第一ぞと気つけてあろうが、神示肚に入れば先見え透くのざぞ。この地(つち)も月と同じであるから、人民の心そのままにうつるのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。
理屈は悪と申してあろうが、悪の終わりは共食ぢゃ、共食いして共倒れ、理屈が理屈と、悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、とわかっていながらどうにもならんことに今に世界がなって来るのぞ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るかわからんのか、神示読めよ。
オロシヤの悪神の仕組、人民には一人もわかっていないのざぞ。Θにはようわかっての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、この方に任せておきなされ、一切心配なくこの方の申すようにしておりて見なされ、大舟に乗っていなされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、どこにいても助けてやるぞ。雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様、祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様、拝みなされよ。日月の民を練りに練り、大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人ばかりでないぞ、大和魂とはΘの魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取り違いせんように気つけおくぞ。
出かけの港はここぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、いくら道進んでいても後戻りぢゃ、この神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気つけているのぢゃ、足あげて顔の色変える時近づいたぞ、世立て替えて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、この方の元へ引き寄せて、目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気つけていて下されよ、どちら行くつもりぢゃ。
十一月二十七日、一二Θ。


「天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりているのざぞ、我一力(われいちりき)では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠のいよいよとなったらもう堪忍してくれとどんな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし、Θも閉口ぞ。酷いところほど身魂に借銭あるのぢゃぞ、魂の悪きことしている国ほど厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。」
天の岩戸は開いています。地の岩戸は未だ開いておりません。地の身魂磨きが終わっていないようです。状況の酷いところほど借銭があり、悪いことをしている国ほど、厳しい戒めが待っているようです。

「五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るし、カス出さねば力出んし、それでΘは掃除ばかりしているのざぞ、Θの臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあろうが、キが餓え死にすると肉体餓え死にするぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、Θの子はΘのキ頂いているのざから、食う物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあろうが、キはいくらでも大きく結構に自由になる結構なΘのキざぞ。臣民利巧(りこう)なくなればΘのキ入るぞ、Θの息通ふぞ、凝りかたまるとコリになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろうがな」
五と五は安定ではあるが、凝りでもあり、動きが取れず苦しくて力が出ない。四と六や三と七は動きがあり力が出るが汚れも出る。その汚れは神が掃除する。全てはキが元なので、屁理屈をなくして神の気を入れればどんどん大きく自由になっていくぞということです。

「三千年余りで身魂の改め致して、因縁だけのことは否でも応でも致さすのであるから、今度の御用はこの神示読まいでは、三千世界のことであるからどこ探しても人民の力では見当取れんと申してあろうがな、どこ探してもわかりはせんのざぞ、人民の頭でいくら考へても智しぼっても学ありてもわからんのぢゃ。ちょこらわかるような仕組なら、こんなに苦労致さんぞ、ΘΘ様さえわからん仕組と知らしてあろうが、何より改心第一ぞと気つけてあろうが、神示肚に入れば先見え透くのざぞ。この地(つち)も月と同じであるから、人民の心そのままにうつるのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。」
今度の御用は、三千年の総決算ということです。この間の因縁はどうしても取り除かなければならないので、何より改心が必要だということです。地上の出来事も月と同じように人々の心をそのまま写し出すので善くも悪くもなるということです。

「理屈は悪と申してあろうが、悪の終わりは共食ぢゃ、共食いして共倒れ、理屈が理屈と、悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、とわかっていながらどうにもならんことに今に世界がなって来るのぞ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るかわからんのか、神示読めよ。」
どんな理想・理屈を掲げようと人間の浅知恵では、最後は共食い・共倒れだそうです。ライフサイクル(生存競争)の頂点に立つ人間も、人間同士の競争や飽食、環境破壊で、最後には終末を迎えるということでしょう。

「オロシヤの悪神の仕組、人民には一人もわかっていないのざぞ。Θにはようわかっての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、この方に任せておきなされ、一切心配なくこの方の申すようにしておりて見なされ、大舟に乗っていなされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、どこにいても助けてやるぞ。雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様、祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様、拝みなされよ」
オロシヤの悪神の仕組は、神の仕組に見せかけた共産主義(に名を借りた独裁・専制)のことでしょうか。
本家は破綻しましたが、今なお、その亜流・亜種が世界中にはびこっています。また、その対極をなす自由主義もいたるところにほころびを見せ始めています。これもオロシヤの悪神の仕組の一部なのでしょうか。

「日月の民を練りに練り、大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人ばかりでないぞ、大和魂とはΘの魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取り違いせんように気つけおくぞ。」
大和魂は、現在の日本人が思っているようなものではなく、和の心、思いやりの心、神を敬う心のことです。世界中の人々にもある「善と愛の心」です。

「出かけの港はここぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、いくら道進んでいても後戻りぢゃ、この神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気つけているのぢゃ」
日月神示に書かれていることを実践しないと、やり直しになるので注意してくださいとのことです。

「足あげて顔の色変える時近づいたぞ、世立て替えて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、この方の元へ引き寄せて、目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気つけていて下されよ、どちら行くつもりぢゃ。」
今は辛いが結果的に楽な道を行きましょう。

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2018年03月27日

雨の巻 第11帖

日の出のΘ様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、わかりたか。めんめめんめに心改めよと申してあろうがな、人民というものは人に言われては腹の立つことあるものぢゃ、腹立つと邪気起こるから、めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、智や学ではどうにもならんということよくわかりておりながら、まだ智や学でやるつもり、Θの国のことするつもりでいるのか、わからんと申してあまりでないか。
何事もわかった臣民、口に出さずに肚に鎮めておけよ、言うてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのぞ、Θが申さすから心配ないぞ、それまでは気(け)も出すなよ。二十二日の夜に実地が見せてあろうがな、一所だけ清い穢れんところ残しておかな足場なく、こうなってはならんぞ、カタ出さねばならんぞ、Θの国、Θの子はΘのΘの生神が護っているから、いよいよとなったら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代のとどめの立て替えであるから、よう腰抜かさんように見て御座れ、長うかかりては一もとらず二もとらさず、Θ国は潰れ、道は滅びてしもうから、早う早うと気もない時から気つけているのぢゃが、Θの申すこと聞く臣民人民まだまだぞ。
この道難しい道でないからそのままに説いて聞かしてやれよ、難かし説くとわからんようになるのぞ。平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、難しいことも臣民にはあるなれど理屈となるなよ、理屈悪ざぞ。霊術も言霊(ことだま)もよいなれど、ほどほどに、三分くらいでよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、銭儲けて口さえすごして行けばよいように今の臣民まだ思っているが、それは四ツ足の四つの悪の守護であるくらいわかりておろがな。
悪とは他を退けることであるぞ、まつりまつりとくどう申してあることまだわからんのか、今外国よいと申している臣民は外国へ行っても嫌われるぞ、外国にも住むとこ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、ガイコクとは我れ善しの国のことぞ、Θ国は大丈夫ざが、外国や日本の国大丈夫とは申されんぞと言分けて申してあろうがな。
日月の集団(まどい)作り、協会作ってもならんが✓入れた集団作らなならんぞ、〇も作らず✓も入らずに力出ないくらいわかりておろがな、馬鹿正直ならんと申してあること忘れたのか、集団のつくり方知らしてあろうが、盲(めくら)には困る困る。人の苦労あてにして我が進んで苦労せんような人民ではΘの気感(きかん?)にかなわんから、今度は苦労のかたまりの花咲くのぞ、苦の花咲くのざぞ、富士に木花咲耶姫のΘ祀りてくれと申してあろうがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ。
十二月七日、ひつ九のか三。


日の出のΘ様は、彦火火出見尊であり、本命、火遠理命=山幸彦ですが、饒速日尊(火明)の可能性もあります。また、神武天皇の諱(いみな)が彦火火出見だそうなのですが、本稿では瓊瓊杵尊に比定していますのでここでは無視しています。火遠理命も神武天皇の祖父ということになっていますが、この辺の日向の家系は錯綜していますので、綏靖天皇のことだということにしておきます(山幸=綏靖、海幸=手研耳命(たぎしみみのみこと)。須佐之男大王の子供、饒速日尊が、神武天皇(天照大御神の孫)の義父という前提でお話しています。

「人民というものは人に言われては腹の立つことあるものぢゃ、腹立つと邪気起こるから、めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、智や学ではどうにもならんということよくわかりておりながら、まだ智や学でやるつもり、Θの国のことするつもりでいるのか、わからんと申してあまりでないか。」
腹を立てると邪気が起こるそうです。智や学で解決しようとせずに神心で応じろということでしょう。

「何事もわかった臣民、口に出さずに肚に鎮めておけよ、言うてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのぞ、Θが申さすから心配ないぞ、それまでは気(け)も出すなよ。二十二日の夜に実地が見せてあろうがな」
実地があったようですね。肚に鎮めておいてしかるべき時に言葉を発する。息吹、言霊でしょう。

「一所だけ清い穢れんところ残しておかな足場なく、こうなってはならんぞ、カタ出さねばならんぞ、Θの国、Θの子はΘのΘの生神が護っているから、いよいよとなったら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代のとどめの立て替えであるから、よう腰抜かさんように見て御座れ、長うかかりては一もとらず二もとらさず、Θ国は潰れ、道は滅びてしもうから、早う早うと気もない時から気つけているのぢゃが、Θの申すこと聞く臣民人民まだまだぞ。」
一か所だけは、「清く、穢れのない」場所は残しておく必要があるようです。長くかかっては国は潰れ、道は滅びてしまうそうですが、もう随分時間がたっています。

「この道難しい道でないからそのままに説いて聞かしてやれよ、難かし説くとわからんようになるのぞ。平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、難しいことも臣民にはあるなれど理屈となるなよ、理屈悪ざぞ。霊術も言霊(ことだま)もよいなれど、ほどほどに、三分くらいでよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、銭儲けて口さえすごして行けばよいように今の臣民まだ思っているが、それは四ツ足の四つの悪の守護であるくらいわかりておろがな。」
身魂磨きと惟神の道ですね。

「悪とは他を退けることであるぞ、まつりまつりとくどう申してあることまだわからんのか、今外国よいと申している臣民は外国へ行っても嫌われるぞ、外国にも住むとこ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、ガイコクとは我れ善しの国のことぞ、Θ国は大丈夫ざが、外国や日本の国大丈夫とは申されんぞと言分けて申してあろうがな。」
自分だけ良ければいいという考え方は悪だそうです。Θ国は大丈夫だけど、日本の国が大丈夫とは限らないそうです。

「日月の集団(まどい)作り、協会作ってもならんが✓入れた集団作らなならんぞ、〇も作らず✓も入らずに力出ないくらいわかりておろがな、馬鹿正直ならんと申してあること忘れたのか、集団のつくり方知らしてあろうが、盲(めくら)には困る困る。」
ただの寄せ集めではなく、身魂磨けた人たちでの集団は必要だそうです。集団のつくり方は神が集めるということだったと思います。ただ、見かけや身分によらず訪れた人を丁寧に扱えよということだったと思います。

「人の苦労あてにして我が進んで苦労せんような人民ではΘの気感(きかん?)にかなわんから、今度は苦労のかたまりの花咲くのぞ、苦の花咲くのざぞ、富士に木花咲耶姫のΘ祀りてくれと申してあろうがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ。」
他人事だと思って自ら苦労しない人には「苦の花」が咲くそうです。富士(不死)の木之花咲耶姫に永遠の誠の花が咲くそうです。


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2018年03月28日

雨の巻 第12帖

上面(うわつら)洗えば良くなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度Θから見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食い物大切に、家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、始めの行ざぞ。出て来ねばわからんようでは、それは神力無いのぞ、軽き輩ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申しているのざぞ、Θの申すこと誠ざと思いながら出来んのは、守護神がまだ悪神のイキから放れていぬ証拠ざぞ、イキとはイキ(一キ)であるぞ、気であるぞ。悪Θはいかようにでも変化(へんげ)るから、悪に玩具(おもちゃ)にされている臣民人民可哀想なからこの神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ断ちて下されよ。
今のうちに神示じっくりと読んで肚に入れて、高天原となっておりて下されよ。まだまだ忙しくなって神示読む間もないようになって来るのざから くどう申しているのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民沢山出て来るから気つけておくのぞ。まだまだ人民には見当取れん妙なことが次から次にと湧いて来るから、妙なことこの方がさしているのざから、Θの臣民心配ないなれど、さうなったΘの臣民まだまだであろうがな、掃除される臣民には掃除するΘの心わからんから妙に見えるのも道理ぢゃ。
天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリということあるぞ、臣民可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気つけて下され、人に言うてもろうての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやろうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、そうならねば人民得心出来んから、やりたい者やってみるもよいぞ、やってみて得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったがいよいよ日の出の守護と相成ったから、物事誤魔化しきかんのぞ、誠の人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され。
Θ国の誠の因縁わからいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞと申してあろうがな、てんし天下平げて、誠のΘ国に、世界Θ国に致すのざぞ、世界はΘの国、Θの国真中の国は、十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つのΘのことわからな益人とは申されんぞ、Θの申すこと一言半句も間違いないのざぞ。人民はその心通りに写るから、小さく取るから物事わからんのさぞ、間違いだらけとなるのぞ、人民が楽に行ける道作りて教えてやっているのに、我出すから苦しんでいるのぞ、Θが苦しめているのでないぞ、人民自分で苦しんでいるのざと申してあろうがな。
十二月七日、ヒつ九のか三神示。


「食い物大切に、家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、始めの行ざぞ。」
カイの御用の内容が出て来ました。カ行イ段のキがカイなのでしょう。「食い物大切に、家の中キチンとしておく」ことで神を迎えよということです。カイの御用のキ(気)の御用は神の御用で、人の御用はミ(身)の御用です(マイ=myでしょうか上手くできてますね)(笑)。身魂磨きの第一歩ということでしょう。キについても正しいキ(神)を選んで、悪神のキを入れないように注意せよと述べられています。神示を言霊高く読み上げて悪のキを断てということです。

「悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民沢山出て来るから気つけておくのぞ。まだまだ人民には見当取れん妙なことが次から次にと湧いて来るから、妙なことこの方がさしているのざから、Θの臣民心配ないなれど、さうなったΘの臣民まだまだであろうがな、掃除される臣民には掃除するΘの心わからんから妙に見えるのも道理ぢゃ。」
人々の見当取れない妙なことが次から次にと湧いて来ています。これは、神がしていることで、掃除される臣民には神の心が分からないので妙に見えるということです。これは、妙に見えることが人間の心の曇りであり、心の曇りがあるから、妙なことが次から次に起こるということです。つまり必然ということです。

「天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリということあるぞ、臣民可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気つけて下され、人に言うてもろうての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやろうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、そうならねば人民得心出来んから、やりたい者やってみるもよいぞ、やってみて得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。」
いよいよキリが近くなっているのかもしれません。

「これまでは夜の守護であったがいよいよ日の出の守護と相成ったから、物事誤魔化しきかんのぞ、誠の人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され。」
戦争中は何でも戦争のせいにして済ますことが出来たが、戦後は人それぞれの自己責任になったぞということでしょう。

「Θ国の誠の因縁わからいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞと申してあろうがな、てんし天下平げて、誠のΘ国に、世界Θ国に致すのざぞ、世界はΘの国、Θの国真中の国は、十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つのΘのことわからな益人とは申されんぞ、Θの申すこと一言半句も間違いないのざぞ。」
神国の因縁は十万や二十万年の昔からでないというのは、 現代人(ホモ・サピエンス)の出現以前を示しているのでしょう。6550万年前頃に恐竜絶滅が起こり、霊長類の出現があったということですから、そのことかもしれません。いや、46億年地球誕生以前のビッグバン(138億年前)のことかもしれません。世の元からの誠一つのΘとは、「天之御中主神」のことでしょう。

「Θの申すこと一言半句も間違いないのざぞ。人民はその心通りに写るから、小さく取るから物事わからんのさぞ、間違いだらけとなるのぞ」
身近なことばかりの小さな出来事にとらわれず、もっと大きな視点で物事を考えることが真実に近くづくということでしょう。

「人民が楽に行ける道作りて教えてやっているのに、我出すから苦しんでいるのぞ、Θが苦しめているのでないぞ、人民自分で苦しんでいるのざと申してあろうがな。」
身魂を磨いて、惟神に身をまかせることが「楽に行ける道」なのでしょう。


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2018年03月29日

雨の巻 第13帖

世界中から神示通りに出て来て、足元から火がついてもまだ我張りているようでは、今度は灰にするより方法ないぞ。恐しなっての改心では御役難しいぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用難しいことあるぞ、神示頂いたとて役員面(づら)すると鼻ポキンぞと気つけてあろうがな。五十九柱いくらでもあるのざぞ、替え身魂あると申してあろうがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深いほど罪も借銭も深いのざぞ。
岩戸閉めにも善き身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気つけ合って善き御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。心から勇む仕事善きことぞ、この方の好くことざぞ。木の葉落ちて冬となれば淋しかろうがな、紅葉あるうちにと気つけおいたが、紅葉の山も落ちたであろうがな、外でわからん根本のキのこと知らすこの方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切のこと、説いて聞かして得心させてあげますぞや。落ちついて聞き落しないようになされよ、悔しさ目に見えておろうがな、どぶつぼに我と落ち込む人民ばかり出て来て、Θの国臭くて足踏む場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度に開いて世界一列一平一つのてんしで治めるぞ。
地の世界に大将なくなって五大州引っくり返りていると申すことまだわからんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだわからんか、尻の毛まで悪魔に抜かれていてまだわからんのか、あんまりなことぢゃなあ。これまでは高し低しの戦でありたが、これからは誠の深し浅しの戦ざぞ、誠とはコトざぞ、口でないぞ、筆でないぞ、 コトざぞ、コト気つけと申してあろうがな。コト、コト、コトざぞ。
始めウタあったぞ、終わりもウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄うのざぞ、終わりの御用の始めはウタぞ、ウタの集いとせよ。この神示ウタとして知らす集いとせよ、ウタの集い始めざぞ、表ざぞ、裏の裏ぞ、表の表ぞ、道開く表の終わりの御用ぞ、江戸の御用済みたら、尾張の御用ぞと申してあろうがな、甲斐の御用も忘れてならんのざぞ。食物(おしもの)の集いも作らなならんぞ、カイの御用のことぞ、この集いも表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのが誠の神の集いざぞ。
不動明王殿も力あるに、あそこまで落としてあるは、Θに都合あることぞ。世に落ちて御座る守護神と、世に落ちているΘΘ様と、世に出ているΘΘ様と、世に落ちて出ている守護神殿と和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろうがな、わかりたか。
十二月十八日、ひつ九のΘ神示。


「世界中から神示通りに出て来て、足元から火がついてもまだ我張りているようでは、今度は灰にするより方法ないぞ。恐しなっての改心では御役難しいぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用難しいことあるぞ、神示頂いたとて役員面(づら)すると鼻ポキンぞと気つけてあろうがな。五十九柱いくらでもあるのざぞ、替え身魂あると申してあろうがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深いほど罪も借銭も深いのざぞ。」
まさに現在の国際情勢です。北朝鮮の後はイラン、そして中国、ロシア問題が出て来そうです。中東、ヨーロッパも依然不安定です。日本の立ち位置もだんだん怪しくなって来ています。内部をしっかり固めて、この国難に臨んで欲しいものです。

「岩戸閉めにも善き身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気つけ合って善き御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。心から勇む仕事善きことぞ、この方の好くことざぞ。」
善き身魂であっても岩戸閉めすることもあり、悪き身魂であっても岩戸開きに繋がることもあるということでしょう。戦略的忍耐のオバマ政権、これを否定するトランプ政権、今後の岩戸開きはあるのでしょうか。そして、どんな展開になるのでしょうか。今世紀最大の岐路に立っているような気がします。

「木の葉落ちて冬となれば淋しかろうがな、紅葉あるうちにと気つけおいたが、紅葉の山も落ちたであろうがな、外でわからん根本のキのこと知らすこの方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切のこと、説いて聞かして得心させてあげますぞや。落ちついて聞き落しないようになされよ」

「悔しさ目に見えておろうがな、どぶつぼに我と落ち込む人民ばかり出て来て、Θの国臭くて足踏む場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度に開いて世界一列一平一つのてんしで治めるぞ。」
どぶつぼに落ち込んだ人ばかりで、臭くて足踏む場もない状況です。

「地の世界に大将なくなって五大州引っくり返りていると申すことまだわからんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだわからんか、尻の毛まで悪魔に抜かれていてまだわからんのか、あんまりなことぢゃなあ。」
Gゼロの世界、尻の毛まで悪魔に抜かれ、善の仮面を被った悪に牛耳られている状況です。

「これまでは高し低しの戦でありたが、これからは誠の深し浅しの戦ざぞ、誠とはコトざぞ、口でないぞ、筆でないぞ、 コトざぞ、コト気つけと申してあろうがな。コト、コト、コトざぞ。」
高し低しの戦とは、力の強弱、身分の高低、学力の高低、財力の有る無しのことでしょう。これからは、誠のコト(行動)が深いか浅いかが重要だそうです。

「始めウタあったぞ、終わりもウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄うのざぞ、終わりの御用の始めはウタぞ、ウタの集いとせよ。この神示ウタとして知らす集いとせよ、ウタの集い始めざぞ、表ざぞ、裏の裏ぞ、表の表ぞ、道開く表の終わりの御用ぞ、江戸の御用済みたら、尾張の御用ぞと申してあろうがな」
神示ウタとして知らす集いが大事だそうです。江戸の御用は火と水の仕組、その後に尾張の御用(終わりの御用)が来て道が開けるそうです。

「甲斐の御用も忘れてならんのざぞ。食物(おしもの)の集いも作らなならんぞ、カイの御用のことぞ、この集いも表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのが誠の神の集いざぞ。」
甲斐の御用(カイの御用)は「食い物大切に、家の中キチンとしておき神を迎えよ」のことでしたね。

「不動明王殿も力あるに、あそこまで落としてあるは、Θに都合あることぞ。世に落ちて御座る守護神と、世に落ちているΘΘ様と、世に出ているΘΘ様と、世に落ちて出ている守護神殿と和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろうがな、わかりたか。」
不動明王の元は「ヒンドゥー教の最高神シヴァ神」だと言われています。つまり「不動明王殿」はインドのことと思われます。二人でしてくれというのは、世に落ちている守護神と世に出ている神々、世に落ちている神々と世に出ている守護神のセットということでしょう。大日如来が日本とすると不動明王のインドが和合して手を取り合って世界を善い方向に導いて行けともとれますが、妄想でしょうか(笑)


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2018年03月30日

雨の巻 第14帖

一番尊いところ一番落してあるのぢゃ、このことわかりて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落とした上に落として、もう落とすところ無いようにして上下引っくり返るのぢゃ、引っくり返すのでないぞ、引っくり返るのぢゃぞ、このこと間違えるでないぞ。この道難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれて、なるようにしておりて下されたらそれでよいのぢゃ。今がΘ国の始めぞ、今までのことすっかり用いられんのにまだ今までのこと言うて今までのようなこと考えているが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今までのこと自慢すると鼻ポキンぞ、皆鼻ポキンばかりぢゃなあ。
まだまだ俘虜(とりこ)になる者たくさんあるなれど、今度の俘虜まだまだぞ、いずれ元に返って来るから、元に返ってまた盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次にまた捕えられる者出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、これも因縁ざぞ。Θの国は誰が見ても、どう考えても、二度と立ち上がられん、人民皆外国につくようになって、この方の申したこと、神示に書かしたこと、皆嘘(うそ)ざと申すところまで世が落ちてしもうてから初めて神力現われるのざぞ、人民臣民早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろうな。
事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用、事務所禁物ぞ、それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、だんだんわかりて来るぞ。表と裏のあなないぞ、あなないの道と申してあろうが、引き寄せる身魂は、天で一度改めて引き寄せるのであるぞ、今お役に立たんように臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂まわりぢゃぞ。
人民の肚さえたら天もさえるぞ、心鎮(しず)もれば天も鎮もるぞ、Θ勇むぞ。我(が)はじっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無いようなことでは、我で失敗(しくじ)ったこの方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民草木に変えてしまうぞ。この神示むやみに見せるでないぞ、神示は出ませんと申せと申してあること忘れるでないぞ。天の規則、地でやることになっているのざぞ、今度規則破りたら、暗い所へ落ち込んで末代浮かばれん、きついことになるのざから、Θくどう気つけておくぞ。
次に世に出る番頭殿、まだΘなきものにして御座るから、一寸先もわからんぞ、先わからずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次もお出直しぢゃ、この神示よく見てこの先どうなる、その先どうなるということ、Θはどんなこと計画しておいでますということわからいで政治ないぞ、すればするほど悪うなるぞ、Θにはこうなることわかって呑んでいるのざから、どんなことあっても心配ないなれど、それでは臣民可哀想なから、この神示ウタにして印刷して世に良きようにして皆に知らしてやれよ、表の集いでよいぞ。
Θは天からも地からも日も夜もコトで知らしているのに、コト聞く身魂ないから、コト聞くミミ曇っているから、人民はわからんなれど、あまりわからんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申しているのぞ。人の十倍も今の仕事して、その上でΘの御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らしたこと忘れたか、地に足つけよと申したことわからんのか、百姓になれ、大工になれと申したことわからんのか、天の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ。善と悪と小さく臣民分けるからわからんのざぞ、大きく目ひらけよ。松食(お)せよ、松食せばわからん病治るのぢゃぞ、松心となれよ、いつも変わらん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。
十二月十八日、ひつ九のか三。


「一番尊いところ一番落してあるのぢゃ、このことわかりて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落とした上に落として、もう落とすところ無いようにして上下引っくり返るのぢゃ、引っくり返すのでないぞ、引っくり返るのぢゃぞ、このこと間違えるでないぞ。この道難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれて、なるようにしておりて下されたらそれでよいのぢゃ。今がΘ国の始めぞ、今までのことすっかり用いられんのにまだ今までのこと言うて今までのようなこと考えているが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今までのこと自慢すると鼻ポキンぞ、皆鼻ポキンばかりぢゃなあ。」
欲はなれて、命はなれて、なるようにしておけばそれで良いとありますが、それでけではありません。裏の裏まであります。(笑)因縁の解消、身魂のお掃除です。

「まだまだ俘虜(とりこ)になる者たくさんあるなれど、今度の俘虜まだまだぞ、いずれ元に返って来るから、元に返ってまた盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次にまた捕えられる者出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、これも因縁ざぞ。Θの国は誰が見ても、どう考えても、二度と立ち上がられん、人民皆外国につくようになって、この方の申したこと、神示に書かしたこと、皆嘘(うそ)ざと申すところまで世が落ちてしもうてから初めて神力現われるのざぞ、人民臣民早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろうな。」
ソ連によるシベリア抑留のことでしょうが、次があるそうです。北朝鮮による拉致のことのようにも思えますが「次はひどいのざぞ、これも因縁ざぞ。Θの国は誰が見ても、どう考えても、二度と立ち上がられん」ほどですから、これは未来のことでしょう。人々が日本をあきらめ他国の意のままになるところまで落ちに落ちて、初めて神力現われるそうです。

「引き寄せる身魂は、天で一度改めて引き寄せるのであるぞ、今お役に立たんように臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂まわりぢゃぞ。」
引き寄せる身魂は、磨けば皆結構な身魂ばかりだそうです。

「人民の肚さえたら天もさえるぞ、心鎮(しず)もれば天も鎮もるぞ、Θ勇むぞ。我(が)はじっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無いようなことでは、我で失敗(しくじ)ったこの方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民草木に変えてしまうぞ。」
人々の心次第で世界も変わるそうです。我はあってはいけませんが、無くてもいけないということです。毒には毒の役目、薬には薬の役目があるのでしょう。

「天の規則、地でやることになっているのざぞ、今度規則破りたら、暗い所へ落ち込んで末代浮かばれん、きついことになるのざから、Θくどう気つけておくぞ。」
天の規則は、「キの巻 第8帖」の「借銭 負っている身魂は、この世にはおいてもらえんこと」でしょう。

「次に世に出る番頭殿、まだΘなきものにして御座るから、一寸先もわからんぞ、先わからずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次もお出直しぢゃ」
戦後の番頭は現在も続いている自民党政権のことでしょう。短命政権が続いたのは「Θなきものにして」いるからでしょう。それでも続いているのは、間違ってはいてもまだ完全に「Θなきものにして」いるわけではないことが理由かもしれません。民主党政権の時には、大地震が起こるは、尖閣問題が悪化するはとんでもないことが立て続きに起こり、本当に「三日天下」で終わりました。

「この神示よく見てこの先どうなる、その先どうなるということ、Θはどんなこと計画しておいでますということわからいで政治ないぞ、すればするほど悪うなるぞ」
物欲を捨てて、他人のために尽くし助け合う優しい社会を作り、人々を教育することを最大目標にすれば良い政治となるでしょう。

「Θは天からも地からも日も夜もコトで知らしているのに、コト聞く身魂ないから、コト聞くミミ曇っているから、人民はわからんなれど、あまりわからんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申しているのぞ。人の十倍も今の仕事して、その上でΘの御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らしたこと忘れたか」
コトとは天の異変、地の異変、国際情勢、経済、医療福祉その他様々なことでしょう。冬にひまわりが咲いたり、桜が咲いたり、珍しい雲が湧いたりと最近は珍しいことが増えた気がします。

「地に足つけよと申したことわからんのか、百姓になれ、大工になれと申したことわからんのか、天の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ。善と悪と小さく臣民分けるからわからんのざぞ、大きく目ひらけよ。」

「松食(お)せよ、松食せばわからん病治るのぢゃぞ、松心となれよ、いつも変わらん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。」


posted by mydears at 12:00| Comment(19) | TrackBack(0) | 雨の巻
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