2018年03月16日
雨の巻 第4帖
世界の臣民、皆手引き合って行く時来たくらい、申さいでもわかっているであろが、それでもまだ一苦労二苦労あるぞ、頭でわかっても肚でわからねば、発根(ほっこん)の改心出来ねばまだまだ辛い目に遭うのざぞ、人民自分で首くくるようなことになるのざぞ、わかりたであろ。天の御三体の大神様と地の御土の先祖様でないと、今度の根本の大立て替え出来んのざぞ、わかりてもなかなかわからんであろうがな。洗濯足らんのであるぞ。今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、Θは改めてあるが、Θから改めさすのでは人民可哀想なから、めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけお蔭あるのざぞ。
今度の岩戸開いたら末代のことざぞ、天地の違いに何事も違うのざぞ。信者引っ張りに行ってくれるな、皆Θが引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばして帰してやれと申してあろうが、人民喜べばΘ嬉しきぞと申してあろうが、草木も喜ばしてやれよ、神示よく読めば、どうしたら草木動物喜ぶかということも知らしてあるのざぞ、今までの心大河に流してしまえば何もかもよくわかって嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなって、言うに言われんことになって来るのざから、表面(うわつら)ばかり見ているとわからんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ。
元のキのΘの子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と、三つ揃ってしまわねばならんのぞ、アとヤとワと申してあろうが、だんだんにわかりて来るのざぞ。実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、人民はお手伝いぞ、雨風さえどうにもならんであろうが、生き物何で息しているか、それさえわからいでいて何でもわかっていると思っているが、鼻高ざぞと申すのぞ、今のうちに改心すれば、名は現わさずに許して善き方に廻わしてやるぞ、早う心改めよ。
十月十六日、ひつ九のか三。
「世界の臣民、皆手引き合って行く時来たくらい、申さいでもわかっているであろが、それでもまだ一苦労二苦労あるぞ、頭でわかっても肚でわからねば、発根(ほっこん)の改心出来ねばまだまだ辛い目に遭うのざぞ、人民自分で首くくるようなことになるのざぞ、わかりたであろ。」
良く分りました。一苦労は「東西冷戦=米ソ対立」、二苦労は「第2次東西冷戦=米中ソ対立(北朝鮮、中近東、テロ含む)」でしょうか。「世界が皆手引き合って行く時来た」のを分かっているのにそうならないのは、「発根の改心」が出来ていないからでしょう。いかに「教育のあり方」が重要か如実に物語っていると思われます。物質から精神へ、もう待ったなしです。NHKの最近の報道はひどいですが、「教育テレビ」が日本人に与えてきた「情緒・協調」の影響はとても素晴らしいものがあると思います。世界中の子供たちが、そうした環境で育てば、きっと問題の多くは消滅するのでしょうけど。
「天の御三体の大神様と地の御土の先祖様でないと、今度の根本の大立て替え出来んのざぞ、わかりてもなかなかわからんであろうがな。洗濯足らんのであるぞ。」
天の御三体の大神様は「天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神」、地の御土の先祖様は、地の御三体の大神様「邪那岐神、伊邪那美神、撞賢木向津媛神」、「五柱・十柱」を始めとする神々様のことです。
「今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、Θは改めてあるが、Θから改めさすのでは人民可哀想なから、めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけお蔭あるのざぞ。」
めんめとは、「各々」という意味です。京都、高松、四日市の方言としてその痕跡が残っています。
「今度の岩戸開いたら末代のことざぞ、天地の違いに何事も違うのざぞ。信者引っ張りに行ってくれるな、皆Θが引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばして帰してやれと申してあろうが」
今度の岩戸が開いたら、これまでとは全く別の世の中になり、永遠に続くという意味です。
「人民喜べばΘ嬉しきぞと申してあろうが、草木も喜ばしてやれよ、神示よく読めば、どうしたら草木動物喜ぶかということも知らしてあるのざぞ、今までの心大河に流してしまえば何もかもよくわかって嬉し嬉しとなるのざぞ」
草は動物に食べられることを喜び、動物は人に食べられることを喜び(四つ足以外)、人は神に身を捧げることを喜ぶ、但し、いずれも「種」だけは残してやるということのようです。
「まだまだ世界は日に日にせわしくなって、言うに言われんことになって来るのざから、表面(うわつら)ばかり見ているとわからんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ。」
次第に世界はせわしくなって来ました。「世界の民として世界の深層に目を届ける」ことが必要なようです。
「元のキのΘの子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と、三つ揃ってしまわねばならんのぞ、アとヤとワと申してあろうが、だんだんにわかりて来るのざぞ。」
縄文、弥生、帰化人が、ア、ヤ、ワだそうです。神様としては「国常立、須佐鳴、瀬織津姫」でしょう。瀬織津姫の父親は三島の溝杙またの名を陶津耳命と申されます。出自については高皇産霊神の後裔とも言われていますが、水田の灌漑技術を持たれていたらしいことから、大陸からの帰化人ではないかと思っています。瀬織津姫もその娘の伊須気余理姫(木之花咲耶姫)も随分な美人だったということですから、もしかしたら青い目、金髪の方だったかもしれません。陶津耳命は、「八咫烏」とも言われています。
「実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝いぞ、雨風さえどうにもならんであろうが、生き物何で息しているか、それさえわからいでいて何でもわかっていると思っているが、鼻高ざぞと申すのぞ、今のうちに改心すれば、名は現わさずに許して善き方に廻わしてやるぞ、早う心改めよ。」
「生き物何で息しているか、それさえわからいでいて」というのは、単にヘモグロビンを酸化させて体中に酸素を届けるというような物質的なことではなく、「気」とか精神的な何かなのでしょう。
今度の岩戸開いたら末代のことざぞ、天地の違いに何事も違うのざぞ。信者引っ張りに行ってくれるな、皆Θが引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばして帰してやれと申してあろうが、人民喜べばΘ嬉しきぞと申してあろうが、草木も喜ばしてやれよ、神示よく読めば、どうしたら草木動物喜ぶかということも知らしてあるのざぞ、今までの心大河に流してしまえば何もかもよくわかって嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなって、言うに言われんことになって来るのざから、表面(うわつら)ばかり見ているとわからんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ。
元のキのΘの子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と、三つ揃ってしまわねばならんのぞ、アとヤとワと申してあろうが、だんだんにわかりて来るのざぞ。実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、人民はお手伝いぞ、雨風さえどうにもならんであろうが、生き物何で息しているか、それさえわからいでいて何でもわかっていると思っているが、鼻高ざぞと申すのぞ、今のうちに改心すれば、名は現わさずに許して善き方に廻わしてやるぞ、早う心改めよ。
十月十六日、ひつ九のか三。
「世界の臣民、皆手引き合って行く時来たくらい、申さいでもわかっているであろが、それでもまだ一苦労二苦労あるぞ、頭でわかっても肚でわからねば、発根(ほっこん)の改心出来ねばまだまだ辛い目に遭うのざぞ、人民自分で首くくるようなことになるのざぞ、わかりたであろ。」
良く分りました。一苦労は「東西冷戦=米ソ対立」、二苦労は「第2次東西冷戦=米中ソ対立(北朝鮮、中近東、テロ含む)」でしょうか。「世界が皆手引き合って行く時来た」のを分かっているのにそうならないのは、「発根の改心」が出来ていないからでしょう。いかに「教育のあり方」が重要か如実に物語っていると思われます。物質から精神へ、もう待ったなしです。NHKの最近の報道はひどいですが、「教育テレビ」が日本人に与えてきた「情緒・協調」の影響はとても素晴らしいものがあると思います。世界中の子供たちが、そうした環境で育てば、きっと問題の多くは消滅するのでしょうけど。
「天の御三体の大神様と地の御土の先祖様でないと、今度の根本の大立て替え出来んのざぞ、わかりてもなかなかわからんであろうがな。洗濯足らんのであるぞ。」
天の御三体の大神様は「天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神」、地の御土の先祖様は、地の御三体の大神様「邪那岐神、伊邪那美神、撞賢木向津媛神」、「五柱・十柱」を始めとする神々様のことです。
「今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、Θは改めてあるが、Θから改めさすのでは人民可哀想なから、めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけお蔭あるのざぞ。」
めんめとは、「各々」という意味です。京都、高松、四日市の方言としてその痕跡が残っています。
「今度の岩戸開いたら末代のことざぞ、天地の違いに何事も違うのざぞ。信者引っ張りに行ってくれるな、皆Θが引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばして帰してやれと申してあろうが」
今度の岩戸が開いたら、これまでとは全く別の世の中になり、永遠に続くという意味です。
「人民喜べばΘ嬉しきぞと申してあろうが、草木も喜ばしてやれよ、神示よく読めば、どうしたら草木動物喜ぶかということも知らしてあるのざぞ、今までの心大河に流してしまえば何もかもよくわかって嬉し嬉しとなるのざぞ」
草は動物に食べられることを喜び、動物は人に食べられることを喜び(四つ足以外)、人は神に身を捧げることを喜ぶ、但し、いずれも「種」だけは残してやるということのようです。
「まだまだ世界は日に日にせわしくなって、言うに言われんことになって来るのざから、表面(うわつら)ばかり見ているとわからんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ。」
次第に世界はせわしくなって来ました。「世界の民として世界の深層に目を届ける」ことが必要なようです。
「元のキのΘの子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と、三つ揃ってしまわねばならんのぞ、アとヤとワと申してあろうが、だんだんにわかりて来るのざぞ。」
縄文、弥生、帰化人が、ア、ヤ、ワだそうです。神様としては「国常立、須佐鳴、瀬織津姫」でしょう。瀬織津姫の父親は三島の溝杙またの名を陶津耳命と申されます。出自については高皇産霊神の後裔とも言われていますが、水田の灌漑技術を持たれていたらしいことから、大陸からの帰化人ではないかと思っています。瀬織津姫もその娘の伊須気余理姫(木之花咲耶姫)も随分な美人だったということですから、もしかしたら青い目、金髪の方だったかもしれません。陶津耳命は、「八咫烏」とも言われています。
「実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝いぞ、雨風さえどうにもならんであろうが、生き物何で息しているか、それさえわからいでいて何でもわかっていると思っているが、鼻高ざぞと申すのぞ、今のうちに改心すれば、名は現わさずに許して善き方に廻わしてやるぞ、早う心改めよ。」
「生き物何で息しているか、それさえわからいでいて」というのは、単にヘモグロビンを酸化させて体中に酸素を届けるというような物質的なことではなく、「気」とか精神的な何かなのでしょう。
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