2018年03月14日
雨の巻 第2帖
天の大神様は慈悲深くてどんな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におえん、見当取れん、そこでΘΘ様をこの世から追い出して悪Θの言うこと聞く人民ばかりとなりていたのであるぞ。七五三(しめ)はΘΘ様をシメ込んで出さぬためのものと申してあること、これでわかるであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、キリストの十字架も同様ぞ、キリストを十字架に釘付けしたのは、そなたたちであるぞ、懺悔せよ。
〇とは外国のことぞ、ΘがΘ国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤っているぞ。大き心持てよ、鏡掃除ぞよ、上中下三段に分けてある違う血筋をだんだんに現わすぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次は十であるぞよ。何事も裏腹と申してあろうが、他人が他人がと思っていたこと、我のことでありたであろうがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞いせんならんぞ、日本が日本がと思うていたこと、外国でありたこともあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、わかりたか。
餓鬼までも救わなならんのであるが、餓鬼は食べ物やれば救われるが、悪と善と取り違えしている人民、守護神、神々様救うのはなかなかであるぞ、悪を善と取り違え、天を地と、地を天と信じている臣民人民なかなかに改心難しいぞ。我と改心出来ねば今度は止むを得んこと出来るぞ、我ほど偉い者ないと天狗になっているから気をつけるほど悪う取りているが、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれんことになったぞ。
十月の十四日、ひつ九のか三しるす。
「天の大神様は慈悲深くてどんな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におえん、見当取れん、そこでΘΘ様をこの世から追い出して悪Θの言うこと聞く人民ばかりとなりていたのであるぞ。七五三(しめ)はΘΘ様をシメ込んで出さぬためのものと申してあること、これでわかるであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ」
鳥居は奈良時代頃から出来たといわれるので、その頃のことかと思われます。「鳥居」の名前は「鳥が居る」または「通り入る」などが由来と思われますが、一説には、「天の岩戸」の「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の止まり木が起源とも言われています。そうであれば、「間違った岩戸開き」の象徴とも言えます。「悪Θ」とは「天照大御神」のことなのでしょうか。「大日孁貴」は「御三体の大神様」の一柱であることは明らかです。そうすると、「天照大御神」がどうのこうのというより、持統天皇の時代に作り上げられた「天照大御神」の虚像のことを指しているように思われます。即ち、日本の最高神として「天照大御神」をまつりあげ、それまでの「大神」を次々に消し去り、葬り去ったことなのでしょう。「悪Θ」は「持統天皇」を始めとする当時の藤原一族(政権)のことだとも言えます。ただ、その平安時代が日本史において最も平和な時代の一つであったことは皮肉ですが。
「キリストの十字架も同様ぞ、キリストを十字架に釘付けしたのは、そなたたちであるぞ、懺悔せよ」
本当ですね、私も以前から、どうして「十字架に釘付けされたキリスト」や「十字架」が信仰の対象になるのか不思議に思っていました。「十」の形そのものは天地水平であり、神を示すものとは思いますが、キリストはその「十字架」によって、自由を奪われ、死に至ったわけです。本来は「忌むべき」ものではないかと。祈るのであれば「私たちが悪うございました。決して過ちは繰り返しません」でしょう。何か広島の慰霊碑の文言のようになってしまいますが。
「上中下三段に分けてある違う血筋をだんだんに現わすぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次は十であるぞよ。」
上中下三段は「違う血筋」なんですね。「始めから居た者」「後から来た者」「これから来る者」でしょうか。簡単に言うと「縄文人」「弥生人」「帰化人」のことだと思います(上中下がどれであるかは分かりません)。確かに、遺伝子の研究が進み、段々明らかになりつつあります。「八苦」の次は「十」充、足りです。十中八九間違いないでしょう。(笑)
「何事も裏腹と申してあろうが、他人が他人がと思っていたこと、我のことでありたであろうがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞いせんならんぞ、日本が日本がと思うていたこと、外国でありたこともあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、わかりたか。」
戦争中は日本が外国=幽界でした。戦後は、日本人の心が外国=幽界になっています。上下ひっくり返ります。
「餓鬼までも救わなならんのであるが、餓鬼は食べ物やれば救われるが、悪と善と取り違えしている人民、守護神、神々様救うのはなかなかであるぞ、悪を善と取り違え、天を地と、地を天と信じている臣民人民なかなかに改心難しいぞ。」
私たちの信じる「善悪」、「天地」、「正神」、もう一度見直して見る必要がありそうです。
「我と改心出来ねば今度は止むを得んこと出来るぞ、我ほど偉い者ないと天狗になっているから気をつけるほど悪う取りているが、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれんことになったぞ。」
〇とは外国のことぞ、ΘがΘ国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤っているぞ。大き心持てよ、鏡掃除ぞよ、上中下三段に分けてある違う血筋をだんだんに現わすぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次は十であるぞよ。何事も裏腹と申してあろうが、他人が他人がと思っていたこと、我のことでありたであろうがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞いせんならんぞ、日本が日本がと思うていたこと、外国でありたこともあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、わかりたか。
餓鬼までも救わなならんのであるが、餓鬼は食べ物やれば救われるが、悪と善と取り違えしている人民、守護神、神々様救うのはなかなかであるぞ、悪を善と取り違え、天を地と、地を天と信じている臣民人民なかなかに改心難しいぞ。我と改心出来ねば今度は止むを得んこと出来るぞ、我ほど偉い者ないと天狗になっているから気をつけるほど悪う取りているが、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれんことになったぞ。
十月の十四日、ひつ九のか三しるす。
「天の大神様は慈悲深くてどんな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におえん、見当取れん、そこでΘΘ様をこの世から追い出して悪Θの言うこと聞く人民ばかりとなりていたのであるぞ。七五三(しめ)はΘΘ様をシメ込んで出さぬためのものと申してあること、これでわかるであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ」
鳥居は奈良時代頃から出来たといわれるので、その頃のことかと思われます。「鳥居」の名前は「鳥が居る」または「通り入る」などが由来と思われますが、一説には、「天の岩戸」の「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の止まり木が起源とも言われています。そうであれば、「間違った岩戸開き」の象徴とも言えます。「悪Θ」とは「天照大御神」のことなのでしょうか。「大日孁貴」は「御三体の大神様」の一柱であることは明らかです。そうすると、「天照大御神」がどうのこうのというより、持統天皇の時代に作り上げられた「天照大御神」の虚像のことを指しているように思われます。即ち、日本の最高神として「天照大御神」をまつりあげ、それまでの「大神」を次々に消し去り、葬り去ったことなのでしょう。「悪Θ」は「持統天皇」を始めとする当時の藤原一族(政権)のことだとも言えます。ただ、その平安時代が日本史において最も平和な時代の一つであったことは皮肉ですが。
「キリストの十字架も同様ぞ、キリストを十字架に釘付けしたのは、そなたたちであるぞ、懺悔せよ」
本当ですね、私も以前から、どうして「十字架に釘付けされたキリスト」や「十字架」が信仰の対象になるのか不思議に思っていました。「十」の形そのものは天地水平であり、神を示すものとは思いますが、キリストはその「十字架」によって、自由を奪われ、死に至ったわけです。本来は「忌むべき」ものではないかと。祈るのであれば「私たちが悪うございました。決して過ちは繰り返しません」でしょう。何か広島の慰霊碑の文言のようになってしまいますが。
「上中下三段に分けてある違う血筋をだんだんに現わすぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次は十であるぞよ。」
上中下三段は「違う血筋」なんですね。「始めから居た者」「後から来た者」「これから来る者」でしょうか。簡単に言うと「縄文人」「弥生人」「帰化人」のことだと思います(上中下がどれであるかは分かりません)。確かに、遺伝子の研究が進み、段々明らかになりつつあります。「八苦」の次は「十」充、足りです。十中八九間違いないでしょう。(笑)
「何事も裏腹と申してあろうが、他人が他人がと思っていたこと、我のことでありたであろうがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞いせんならんぞ、日本が日本がと思うていたこと、外国でありたこともあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、わかりたか。」
戦争中は日本が外国=幽界でした。戦後は、日本人の心が外国=幽界になっています。上下ひっくり返ります。
「餓鬼までも救わなならんのであるが、餓鬼は食べ物やれば救われるが、悪と善と取り違えしている人民、守護神、神々様救うのはなかなかであるぞ、悪を善と取り違え、天を地と、地を天と信じている臣民人民なかなかに改心難しいぞ。」
私たちの信じる「善悪」、「天地」、「正神」、もう一度見直して見る必要がありそうです。
「我と改心出来ねば今度は止むを得んこと出来るぞ、我ほど偉い者ないと天狗になっているから気をつけるほど悪う取りているが、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれんことになったぞ。」
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