2018年03月15日
雨の巻 第3帖
草木は実を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生まれると申してあろがな。人の身、神に捧げるのざぞ、神の御身となること嬉しいであろがな、惟神(かんながら)の御身とはそのことぞ、神示よく読めばわかるのざぞ。この道は先に行くほど広く豊かに光り輝き、嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、どんなことでも人に教えてやれるように知らしてあるのざぞ。
いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三が元ぞ、天からミロク様は水の御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、このこと魂までよくしみておらぬと御恩わからんのざぞ。悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろうがな、Θの国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国もΘの目からは無いのざと申してあろうが、Θの国あるのみざぞ、わかりたか。改心すれば✓の入れ替え致してその場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしているなら自由になるのであるぞ。我の自由にならんのは、させられているからざぞ、このくらいのことわからんで神国の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。この先は神示に出したこと用いんと、我の考えでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出している臣民ばかりであるぞ。従うところには従わなならんぞ、従えばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れるようにと申して知らしてあろうがな。
十月の十五日、ひつ九のか三。
「草木は実を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生まれると申してあろがな。人の身、神に捧げるのざぞ、神の御身となること嬉しいであろがな、惟神(かんながら)の御身とはそのことぞ、神示よく読めばわかるのざぞ。」
我れ無しで神に身をゆだねることが「惟神の道」だそうです。
「この道は先に行くほど広く豊かに光り輝き、嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、どんなことでも人に教えてやれるように知らしてあるのざぞ。」
惟神の道は、先に行くほど広く豊かに光り輝く、嬉し嬉しの誠の道だそうです。
「いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三が元ぞ、天からミロク様は水の御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、このこと魂までよくしみておらぬと御恩わからんのざぞ。」
初めて「ミロク様」という言葉が出て来たようです。この文章から、「ミロク様」は水の神=月の神であることが分かります。おそらく「瀬織津姫」のことでしょう。そして、「木之花咲耶姫」にバトンタッチされるのでしょう。
「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろうがな、Θの国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国もΘの目からは無いのざと申してあろうが、Θの国あるのみざぞ、わかりたか。」
世界中の国・人が「我よし」の考え方を捨てて「善に立ち返りて御用」する世が来れば、本当に素晴らしい未来が待っているのですが。
「改心すれば✓の入れ替え致してその場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしているなら自由になるのであるぞ。我の自由にならんのは、させられているからざぞ、このくらいのことわからんで神国の臣民と申されんぞ」
民主主義の基本原則は「自由」と「平等」ですが、それぞれが行き過ぎると、せっかくの「理想」も「悪の仕組」となってしまいます。「自由」と「平等」は本質的に相反するもので、「自由」が行き過ぎると「平等」が無くなり、「平等」が行き過ぎると「自由」が無くなります。それぞれが、抑制的になされることが「自由」と「平等」を両立させる唯一の方法となります。その「抑制」は「惟神の良心」によってなされる必要があります。「悪」の✓が入っていると、「させられている」自由となるのでしょう。
「国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。この先は神示に出したこと用いんと、我の考えでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出している臣民ばかりであるぞ。従うところには従わなならんぞ、従えばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れるようにと申して知らしてあろうがな。」
鳥居はダメですが、宮柱は良いようです。諏訪神社の御柱が有名ですね。「高い所から水流れるように」流れのままに自然に、神のご意思に従うことが重要だということです。
いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三が元ぞ、天からミロク様は水の御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、このこと魂までよくしみておらぬと御恩わからんのざぞ。悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろうがな、Θの国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国もΘの目からは無いのざと申してあろうが、Θの国あるのみざぞ、わかりたか。改心すれば✓の入れ替え致してその場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしているなら自由になるのであるぞ。我の自由にならんのは、させられているからざぞ、このくらいのことわからんで神国の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。この先は神示に出したこと用いんと、我の考えでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出している臣民ばかりであるぞ。従うところには従わなならんぞ、従えばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れるようにと申して知らしてあろうがな。
十月の十五日、ひつ九のか三。
「草木は実を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生まれると申してあろがな。人の身、神に捧げるのざぞ、神の御身となること嬉しいであろがな、惟神(かんながら)の御身とはそのことぞ、神示よく読めばわかるのざぞ。」
我れ無しで神に身をゆだねることが「惟神の道」だそうです。
「この道は先に行くほど広く豊かに光り輝き、嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、どんなことでも人に教えてやれるように知らしてあるのざぞ。」
惟神の道は、先に行くほど広く豊かに光り輝く、嬉し嬉しの誠の道だそうです。
「いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三が元ぞ、天からミロク様は水の御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、このこと魂までよくしみておらぬと御恩わからんのざぞ。」
初めて「ミロク様」という言葉が出て来たようです。この文章から、「ミロク様」は水の神=月の神であることが分かります。おそらく「瀬織津姫」のことでしょう。そして、「木之花咲耶姫」にバトンタッチされるのでしょう。
「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろうがな、Θの国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国もΘの目からは無いのざと申してあろうが、Θの国あるのみざぞ、わかりたか。」
世界中の国・人が「我よし」の考え方を捨てて「善に立ち返りて御用」する世が来れば、本当に素晴らしい未来が待っているのですが。
「改心すれば✓の入れ替え致してその場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしているなら自由になるのであるぞ。我の自由にならんのは、させられているからざぞ、このくらいのことわからんで神国の臣民と申されんぞ」
民主主義の基本原則は「自由」と「平等」ですが、それぞれが行き過ぎると、せっかくの「理想」も「悪の仕組」となってしまいます。「自由」と「平等」は本質的に相反するもので、「自由」が行き過ぎると「平等」が無くなり、「平等」が行き過ぎると「自由」が無くなります。それぞれが、抑制的になされることが「自由」と「平等」を両立させる唯一の方法となります。その「抑制」は「惟神の良心」によってなされる必要があります。「悪」の✓が入っていると、「させられている」自由となるのでしょう。
「国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。この先は神示に出したこと用いんと、我の考えでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出している臣民ばかりであるぞ。従うところには従わなならんぞ、従えばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れるようにと申して知らしてあろうがな。」
鳥居はダメですが、宮柱は良いようです。諏訪神社の御柱が有名ですね。「高い所から水流れるように」流れのままに自然に、神のご意思に従うことが重要だということです。
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