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2017年11月30日

大和朝廷の謎(33)持統天皇 その2

天武天皇がご存命中、鸕野讚良(うののさらら、後の持統
天皇)、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、施基
皇子と共に吉野へ行幸されました。そこで、後継者争いを
しないように皆に誓いを立てさせました(吉野の盟約)。

この時には、大津皇子の母親である大田皇女(おおたのひ
めみこ)は亡くなっていましたから、既に大津皇子の立場
は微妙であったと思われます。

天武天皇家系.png
第1皇子は高市皇子でしたが、母親の血筋が天智
天皇である大津皇子と草壁皇子(鸕野讚良の息
子)が実質的な後継者候補であったと推察されま
す。

特に、大津皇子は壬申の乱でも功績があり、これ
を推す人は多かったものと思われます。

さて、天武天皇が亡くなると、鸕野讚良はいよい
よ本領を発揮します。天智天皇譲りの権謀術数が
炸裂します。

まず、称制として、自分は天皇の地位につかず、皇后のま
ま実権を握り、目の上のたんこぶであった大津皇子を策謀
により、死刑にします。

大津皇子の妃、山辺皇女ははだしで走り出て来て殉死を選
びました。

鸕野讚良は、子の草壁皇子が病弱であったため、そのまま
称制を続けます。

しかし、西暦689年肝心の草壁皇子が亡くなってしまい
ます。

草壁皇子の息子、軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)は
まだ小さかったので、鸕野讚良は、ついに第41代持統天
皇として即位します。

posted by mydears at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷
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