2017年11月21日
大和朝廷の謎(3)卑弥呼 その1
いよいよ、古代最大の謎、卑弥呼です。
魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の
「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。
西晋の陳寿により3世紀末に書かれました。
この頃には、既に、奴国は倭国と認識され
ていたのでしょう。
倭人とは、大和国の大を取って「和」国。
和の蔑称として、小さい人々を表す「倭」の
語をあてたのだと思います。
邪馬台国も「大和国」の蔑称としてのあて字
だと思います。
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭
国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(倭国
大乱)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を
女王に共立することによってようやく混乱を鎮
めた。
と、あります。
昨日、第6代孝安天皇のお話しをしました。
ちょうどその頃、倭国は大乱の中にいたので
しょう。
だから、金印「漢委奴国王」をお墨付きとして
拝領したが、王宮で保管されることなく、志賀
島の浜辺近くで巨石の下に隠されていたのだと
思われます。
第7代孝靈天皇の娘に「倭迹迹日百襲姫」
(ヤマトトトビモモソヒメ)という人がいます。
この人こそ、「卑弥呼」だと思われます。
卑弥呼という記述も、日巫女(ヒノミコ)また
は姫御子(ヒメミコ)の蔑称としてあて字した
のだと考えられます。
「女王」というのは、第7代孝靈天皇以降、
第10代崇神天皇あたりまでの間、
@摂政的な役割を果たしたか、または、
A祭祀者としての政治(祭りごと)を行っていて、
天皇と実務的な国務を分担していた
と、思われます。
巫女は神様のご意思を代弁する存在なので、
最高権力者の天皇でさえ、ひれ伏して、ご託宣
を聞く様子を見たものは「女王」と思うことで
しょう。
この頃の宮殿は、奈良田原本町あたり、現在の
唐古鍵遺跡あたりにあったと考えられます。
墓はすぐ東の箸墓古墳と比定されています。
魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の
「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。
西晋の陳寿により3世紀末に書かれました。
この頃には、既に、奴国は倭国と認識され
ていたのでしょう。
倭人とは、大和国の大を取って「和」国。
和の蔑称として、小さい人々を表す「倭」の
語をあてたのだと思います。
邪馬台国も「大和国」の蔑称としてのあて字
だと思います。
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭
国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(倭国
大乱)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を
女王に共立することによってようやく混乱を鎮
めた。
と、あります。
昨日、第6代孝安天皇のお話しをしました。
ちょうどその頃、倭国は大乱の中にいたので
しょう。
だから、金印「漢委奴国王」をお墨付きとして
拝領したが、王宮で保管されることなく、志賀
島の浜辺近くで巨石の下に隠されていたのだと
思われます。
第7代孝靈天皇の娘に「倭迹迹日百襲姫」
(ヤマトトトビモモソヒメ)という人がいます。
この人こそ、「卑弥呼」だと思われます。
卑弥呼という記述も、日巫女(ヒノミコ)また
は姫御子(ヒメミコ)の蔑称としてあて字した
のだと考えられます。
「女王」というのは、第7代孝靈天皇以降、
第10代崇神天皇あたりまでの間、
@摂政的な役割を果たしたか、または、
A祭祀者としての政治(祭りごと)を行っていて、
天皇と実務的な国務を分担していた
と、思われます。
巫女は神様のご意思を代弁する存在なので、
最高権力者の天皇でさえ、ひれ伏して、ご託宣
を聞く様子を見たものは「女王」と思うことで
しょう。
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