2017年11月21日
大和朝廷の謎(4)卑弥呼 その2
さて、問題は、魏志倭人伝の東夷伝倭人条の中に
示される場所の問題。
作者の「陳寿」は、嘘を平気で書くような人物で
はなく、その記述は正確で正しいものという前提
でお話しを進めなければなりません。
先程、「卑弥呼」の宮殿は、奈良田原本町あたり、
現在の唐古鍵遺跡あたりにあったと述べましたが、
いわゆる別宮が、福岡市博多湾の近くにあった
ようです(あるいは佐賀の吉野ヶ里だったのかも
しれません)。
政治の中心は奈良、経済・外交の中心は九州とい
う使い分けがされていたのかもしれません。
この頃の大和朝廷は、まだまだ不安定で、外国か
らの侵略も警戒する必要があったので、九州の南
の果てに都があったと嘘をつき、その情報を鵜呑
みにした陳寿に偽りの記載をさせたとも考えられ
ます。
敵が、山が多い九州を南下して来れば、その殲滅
作戦も容易だったことでしょう。
実際、ずっと時代が下りますが、元寇の時も元軍
は、博多、松浦湾辺りに侵攻して来ましたが、
京都に近い敦賀や加賀辺りに上陸するそぶりも
見せていません。
もしかしたら、遠い東の海上にある島国の事など
その程度にしか理解していなかったのかもしれま
せんね。
示される場所の問題。
作者の「陳寿」は、嘘を平気で書くような人物で
はなく、その記述は正確で正しいものという前提
でお話しを進めなければなりません。
先程、「卑弥呼」の宮殿は、奈良田原本町あたり、
現在の唐古鍵遺跡あたりにあったと述べましたが、
いわゆる別宮が、福岡市博多湾の近くにあった
ようです(あるいは佐賀の吉野ヶ里だったのかも
しれません)。
政治の中心は奈良、経済・外交の中心は九州とい
う使い分けがされていたのかもしれません。
この頃の大和朝廷は、まだまだ不安定で、外国か
らの侵略も警戒する必要があったので、九州の南
の果てに都があったと嘘をつき、その情報を鵜呑
みにした陳寿に偽りの記載をさせたとも考えられ
ます。
敵が、山が多い九州を南下して来れば、その殲滅
作戦も容易だったことでしょう。
実際、ずっと時代が下りますが、元寇の時も元軍
は、博多、松浦湾辺りに侵攻して来ましたが、
京都に近い敦賀や加賀辺りに上陸するそぶりも
見せていません。
もしかしたら、遠い東の海上にある島国の事など
その程度にしか理解していなかったのかもしれま
せんね。
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