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2017年11月21日

大和朝廷の謎(5)卑弥呼 その3

大和朝廷が、「陳寿」に対して虚偽の情報を
与えていたのだろうとは思いますが、気になる
のは、

南に水行10日と陸行1月で女王の都のある
邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、
弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、
奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

という、実際に「陳寿」がその地に至った
ような記述があることです。

もしかしたら、昼の晴れた日は南に向かい
曇りや雨の日は東に向かい、月や星の見える
夜は酒や肴で饗応漬けにするなど、涙ぐましい
努力があったのかもしれません。
その場合の航路は、豊後水道を南に下り、四国
を回り込む形で東に向かったのでしょう。

弥馬獲支(みまかくき)という名前も、
第10代崇神天皇の本名が「御間城入彦五十瓊殖尊」
(ミマキ イリヒコイニエノミコト)ですから、
何となく似ていますね。

さて、この崇神天皇の時代、大きな内乱がありました。
魏志倭人伝の東夷伝倭人条には、

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、
100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々は
これに服さず内乱となり1000余人が死んだ。
そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女の
壹與が王に立てられ国は治まった。

とあります。

実際に、第10代崇神天皇の時代に、四道将軍の派遣が
あり、吉備(岡山)、旦波(丹波)、高志(越の国、
越前・越中・越後)、会津、東海道とかなり広範囲に
戦闘が及んでいることから、これが、その時のことを
記述しているのではないかと思われます。

吉備国に派遣された吉備津彦命は、桃太郎伝説のモモタ
ロウのモデルだと言われています。

「13歳の少女の壹與」は、崇神天皇の娘、「豊鍬入姫命」
(トヨスキイリヒメ)と思われます。

posted by mydears at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷
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