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2017年11月21日

大和朝廷の謎(6)卑弥呼 その4

第10代崇神天皇の時に、もう一つの大きな事件
が起こっています。

古事記では、崇神天皇の夢枕に「大物主神」が現れ、
「子孫である「意富多多泥古」(オオタタネコ)に
祀らせろ」ということで、大物主神を三輪山に祀ら
せたとあります。

一方、日本書紀では、それまで宮殿の中に祀っていた
天照大神と倭大国魂神を殿内で祀るのをやめ、天照大
神を檜原神社に移したとあります。

檜原神社は三輪山の麓にある神社で豊鍬入姫ゆかりの
神社です。

ここでも、「大物主神」が実は「天照大神」であるこ
とを示しています。

また、「倭大国魂神」は「須佐之男命」であり、この
両神が、宮廷内でも尊崇されていたことは明らかです。

因みに、「意富多多泥古」(オオタタネコ)は、神武
天皇とイスケヨリヒメとの間の第2子「八井耳命」の
子孫「多」氏ですが、「大物主神」が自分の子孫だと
言っています。ここでも、古事記の作者は自白(ゲロ)
してしまいました。

本当は、何とかして真実を伝えたくて、必死に謎を隠
しておいたのでしょう。ニギハヤヒの子孫の太安万侶
さんですもの。

この神様のお引っ越しについて、
考察するに、これは、日向系の天津神(アマツカミ)
と奴国系の国津神(クニツカミ)を信奉する者たち
の間での軋轢、葛藤があったのではないかと思われ
ます。

大和朝廷は、合併によって誕生しましたが、日向系
と奴国系の争いが継続していたのではないかと思わ
れます。

崇神天皇が四道将軍を派遣した国を見てください。
全て、奴国系の国々です。吉備(岡山)、旦波(丹波)、
高志(越の国、越前・越中・越後)、会津、東海道。

これが、その後の「天照大神」の位置づけに大いに
関与したものと思われます。


posted by mydears at 13:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 大和朝廷
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