2017年11月27日
大和朝廷の謎(23)大化の改新(乙巳の変)
近年の研究で、蘇我氏は開明的で、世間の評判とは逆に良い
政治を行っていたのではないかとの意見が出されています。
天皇家をないがしろにしたということも、よくよく考えて
みれば、蘇我氏は武内宿禰の子孫であり、同じ流れを汲む
(応神天皇の出生の秘密を知っていたとすれば)天皇家は
同族、むしろ自分達の方が本流であるという自負心さえ
あったかもしれません。
これに反発したのが、中大兄皇子や中臣鎌足です。
ついに蘇我入鹿を誅殺し、父の蝦夷も自殺し、ついに
乙巳の変を実現したことになっています。
ここでも、あえて疑問を呈したいと思います。
蘇我の馬子とか蝦夷とか入鹿とか、名前が変ではありませ
んか?馬(ウマ)と蝦(エビ)と入鹿(イルカ)ですよ。
その他の蘇我氏関係者は、倉麻呂、倉山田石川麻呂など
普通の名前にもかかわらずです。
蝦夷に至っては、異民族に対する(多分当時は差別的な)
呼び名であったと思われます。
これは、そもそもこのような人物自体が存在しなかったか、
あるいは、名前を変えられて蔑称を付けられたと考えるの
が自然ではないでしょうか。
歴史は勝者によって、いかようにも塗り替えられますから。
もし、これらの人物自体が存在しなかったと仮定するなら、
殺されたのは「蘇我善徳」=聖徳太子ではないでしょうか。
奈良の「飛鳥寺」の裏に「蘇我入鹿首塚」があります。
飛鳥寺は、日本書紀が、「馬子の子の善徳が寺司となり、
恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始め
た」とする、まさに、その寺です。
この時代の天皇家家系図です。
推古天皇の後、舒明天皇以降のゴタゴタが推察されます。
また、表中第35代皇極天皇の時に、乙巳の変があり
ました。
皇極天皇が手引して、蘇我入鹿(蘇我善徳?)を討たせた
可能性さえ見えてきます。
皇極天皇がこのあたりの最重要人物のように思えます。
政治を行っていたのではないかとの意見が出されています。
天皇家をないがしろにしたということも、よくよく考えて
みれば、蘇我氏は武内宿禰の子孫であり、同じ流れを汲む
(応神天皇の出生の秘密を知っていたとすれば)天皇家は
同族、むしろ自分達の方が本流であるという自負心さえ
あったかもしれません。
これに反発したのが、中大兄皇子や中臣鎌足です。
ついに蘇我入鹿を誅殺し、父の蝦夷も自殺し、ついに
乙巳の変を実現したことになっています。
ここでも、あえて疑問を呈したいと思います。
蘇我の馬子とか蝦夷とか入鹿とか、名前が変ではありませ
んか?馬(ウマ)と蝦(エビ)と入鹿(イルカ)ですよ。
その他の蘇我氏関係者は、倉麻呂、倉山田石川麻呂など
普通の名前にもかかわらずです。
蝦夷に至っては、異民族に対する(多分当時は差別的な)
呼び名であったと思われます。
これは、そもそもこのような人物自体が存在しなかったか、
あるいは、名前を変えられて蔑称を付けられたと考えるの
が自然ではないでしょうか。
歴史は勝者によって、いかようにも塗り替えられますから。
もし、これらの人物自体が存在しなかったと仮定するなら、
殺されたのは「蘇我善徳」=聖徳太子ではないでしょうか。
奈良の「飛鳥寺」の裏に「蘇我入鹿首塚」があります。
飛鳥寺は、日本書紀が、「馬子の子の善徳が寺司となり、
恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始め
た」とする、まさに、その寺です。
この時代の天皇家家系図です。
推古天皇の後、舒明天皇以降のゴタゴタが推察されます。
また、表中第35代皇極天皇の時に、乙巳の変があり
ました。
皇極天皇が手引して、蘇我入鹿(蘇我善徳?)を討たせた
可能性さえ見えてきます。
皇極天皇がこのあたりの最重要人物のように思えます。
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