2017年12月05日
日本人のルーツを探る(11)
「三皇五帝」の五帝についてです。
「史記」では、黄帝・顓頊(せんぎよく)・帝嚳(てい
こく)・唐尭(とうぎよう)・虞舜(ぐしゆん)、
「帝王世紀」では小昊(しようこう)・顓頊・帝嚳・唐
尭・虞舜となっています。
顓頊・帝嚳・唐尭・虞舜は共通ですが、黄帝を三皇に含
めるか否かで若干の違いがあるようです。
実は、他にも禹(う)と湯(とう)を含めるかとか色々
あるようですが、「史記」の黄帝・顓頊・帝嚳・唐尭・
虞舜を採用します。
とはいえ、尭・舜も有名ですが、本稿の趣旨に鑑み、
ここでは黄帝(こうてい)のみについて言及します。
黄帝以降の4帝と、夏、殷、周、秦を初め数多くの諸侯
が黄帝の子孫であり、多くの漢民族は黄帝の後裔だと
思っています。
黄帝は、蚩尤(しゅう)を討って諸侯の人望を集め、
神農氏に代わって帝となり、従わない者を次々に討ち、
道を開いて行ったとあります。
この記述では、「蚩尤を討って」と「神農氏に代わっ
て帝となり」が気になるところです。
まず「蚩尤」とは誰か?。『路史』では「姓は羌で炎
帝神農氏の子孫であるとされる」とあります。
ほらね、やっぱり、一族争いをしてる。
神農が、「断腸の思い」になるはずですよ。神農は黄
帝に「阪泉の戦い」(はんせんのたたかい)で一足先
に敗れています。
下手したら、神農は内臓を食われていたのかもしれま
せんね。お正月の「雑煮」ってあるでしょう?
あれは、そういう意味だって聞いたことがあります。
「豆まき」も、「煎り豆から芽が出るまでは出て来る
な」という意味らしいですから。
この結果、神農の子孫は四散して行ったのでしょうね。
「史記」では、黄帝・顓頊(せんぎよく)・帝嚳(てい
こく)・唐尭(とうぎよう)・虞舜(ぐしゆん)、
「帝王世紀」では小昊(しようこう)・顓頊・帝嚳・唐
尭・虞舜となっています。
顓頊・帝嚳・唐尭・虞舜は共通ですが、黄帝を三皇に含
めるか否かで若干の違いがあるようです。
実は、他にも禹(う)と湯(とう)を含めるかとか色々
あるようですが、「史記」の黄帝・顓頊・帝嚳・唐尭・
虞舜を採用します。
とはいえ、尭・舜も有名ですが、本稿の趣旨に鑑み、
ここでは黄帝(こうてい)のみについて言及します。
黄帝以降の4帝と、夏、殷、周、秦を初め数多くの諸侯
が黄帝の子孫であり、多くの漢民族は黄帝の後裔だと
思っています。
黄帝は、蚩尤(しゅう)を討って諸侯の人望を集め、
神農氏に代わって帝となり、従わない者を次々に討ち、
道を開いて行ったとあります。
この記述では、「蚩尤を討って」と「神農氏に代わっ
て帝となり」が気になるところです。
まず「蚩尤」とは誰か?。『路史』では「姓は羌で炎
帝神農氏の子孫であるとされる」とあります。
ほらね、やっぱり、一族争いをしてる。
神農が、「断腸の思い」になるはずですよ。神農は黄
帝に「阪泉の戦い」(はんせんのたたかい)で一足先
に敗れています。
下手したら、神農は内臓を食われていたのかもしれま
せんね。お正月の「雑煮」ってあるでしょう?
あれは、そういう意味だって聞いたことがあります。
「豆まき」も、「煎り豆から芽が出るまでは出て来る
な」という意味らしいですから。
この結果、神農の子孫は四散して行ったのでしょうね。
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