アフィリエイト広告を利用しています

さらばミスタードラゴンズ

このお休み中に、中日ドラゴンズの重鎮
高木守道さんが死去されました。

俊足巧打、好守の三拍子揃った名選手で、
生え抜きとして初の名球会入り選手でした。

2度監督に就任し、特に名高いのは
1994年の10.8決戦でしょう。

残念ながら負けてしまいましたが、
球史に残る名ゲームを采配した
2人の監督のうちの一人です
(なお、もう一人は長嶋さん)。


私は名古屋出身で親父が熱心な
ドラゴンズファンだったので、
1980年まで現役だった高木選手を
見て育った世代です。

最初にファンになったのが
当時の1番バッター田尾さんでしたが、
高木さんは続く2番を売ち、背番号は1。

田尾さんが背番号2だったので、
子供心に反対だったら
覚えやすいのに、って思ってました。

名曲『燃えよドラゴンズ!』にも
歌われる名コンビだったと
思いますが、正直そんなに
覚えていなかったり…
主体的に野球を見ようとしていない
時期だったのでお許しください。


あと、覚えているのが、
小学生高学年で子供会のソフトボールに
参加していたのですが、
グラウンドまで行く道の途中に
高木さんのご自宅がありました。

当時の名古屋ではバリバリの
新興住宅地でしたが、
周囲の一軒家とは一線を画す
大豪邸だったと記憶しています。

親父に教えてもらって、
すごく興奮した覚えがあります。

練習は日曜日の早朝にしていましたが、
一度ランニングしている高木さんに
声をかけてもらった覚えもあります。

まぁ、個人じゃなくてチーム全員に、
だったんですけど、それでも
嬉しくて浮かれて帰った気がしますね。



小さな頃から、高木さんの守備を
見て育ったおかげで、とにかく
二塁手は堅守が当たり前、みたいな
少々偏った意識を持つようになりました。

自分でライオンズが好きになったのは
当時球界で1、2を争う守備の名手
辻さん(現西武監督)がいたからですが、
高木さんの影響も色濃いと思います。


名古屋ローカルの眼鏡店の
CMキャラクターを務めていたことも
印象に残っています。

選手時代のイメージが強すぎて、
老眼鏡とかけ離れた存在だと
思い込んでいたので、
ちょっとビックリしたんですよね。

今、自分が老眼になってきたので
あのときの自分に説教したい
気持ちですけども。


また、昭和の名選手がこの世を
去ってしまいました。

故人のご冥福をお祈りいたします。

この記事へのコメント

   
プロフィール

ウェイ・ティエン
リンク集



Powered by ファンブログ
<< 2024年11月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
カテゴリアーカイブ
RSS取得
QRコード