<魚津城址碑>
当時の越後上杉にとって重要な拠点であった城跡です。今では城址碑しかないと知りつつ、いつか訪れたいとずっと思っていました。最前線で敵の大軍に包囲され、絶望の中で敵に立ち向かった城兵のことを思うと、胸が熱くなります。
攻め手の織田軍は、柴田勝家・前田利家・佐々成政といった錚々たる武将に率いられた大軍で、約4万ともいわれています。一方で、魚津城に立て籠もる上杉勢は4千人弱でした。
<説明板>
史跡魚津城跡が紹介されています。
<説明板絵図>
説明板の一部を拡大させて頂きました。この絵図だと、本丸の四方を取り囲むように造られた二の丸を、織田軍が占領しています。残すは本丸のみ。越後宛て書状では、昼夜を問わず銃撃が繰り返されると記されていたようです。
魚津城救援のため上杉景勝は兵を率いて天神山(魚津市内/魚津城の東側)に布陣しました。しかし織田方の軍勢が信濃と上野から越後へ進攻したため、春日山城へ戻ることになりました。援軍は来ないと分かってからも、魚津城は決死の応戦を続けました。しかし兵糧も弾薬も尽き、最後の決断をしました。
■魚津在城十二将■
中条景泰・竹俣慶綱・吉江信景
寺嶋長資・蓼沼泰重・藤丸勝俊
亀田長乗・若林家吉・石口広宗
安部政吉・吉江宗信・山本寺景長
以上が春日山城に送られた魚津在城衆十二名連署状に記された名です。同時期に戦死した吉江景資を加えて、十三将とする場合もあります。吉江景資は、連署状に名のある吉江宗信の子であり、寺嶋長資・中条景泰の実父です。各々が自分の耳に穴を開け、その名を記した木札を結んで自刃したという逸話が残ります。
魚津城落城の前日、本能寺にて織田信長は亡くなっています。その知らせを受けた織田軍は魚津から撤退となりました。
<現地説明板>
地図や縄張り図とともに魚津在城衆十二名連署状も掲載されていました。
上杉にとっては悲劇の城跡です。勇ましく散った守将たちとともに、立てこもった兵のほとんどが亡くなってしまいました。義の将である上杉景勝が、魚津城を平気で見殺しにしたはずがありません。その苦しい思いは、城を守った者たちに伝わっていたと思いたいですね。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:魚津城跡
[富山県魚津市本町]1丁目
■参考及び出典
・現地説明板
(魚津市教育委員会)
・Wikipedia:2023/6/22
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