壮絶な籠城戦があった城跡を訪ねました。
<魚津城跡>うおづじょう
本丸跡の城址碑です
■支城から重要拠点に■
魚津城は千葉氏の流れを汲む椎名氏が築いた城です。椎名氏は、富山城を拠点とする神保氏と越中国の覇権争いをした一族で、松倉城(現在の魚津市郊外)を居城としていました。魚津城の築城時期ははっきりしませんが、室町時代には松倉城の支城として機能していたと考えられています。
椎名氏は越後上杉を、ライバルの神保氏は甲斐武田を後ろ盾として争い、他に強力な一向一揆の勢力も存在しましたので、越中の勢力争いは、かなり複雑な状況だったようですね。
やがて戦国時代になると、上杉謙信が越中を平定。以降、魚津城は上杉配下の城となりました。謙信に重用された武将・河田長親がながらく城代を務めました。
<上杉謙信の歌碑>
本丸跡の上杉謙信の歌碑です。越中平定途上の謙信が、魚津城の近くで武具をつけたまま野宿した時に詠んだと推定される歌が刻まれています。
<盛り土>
歌碑の近くで撮影しました。ここは小学校の敷地でしたが、統合により廃校となり、私の訪問時は誰もいませんでした。校庭隅のこの盛り土を、私は土塁跡と受け止めましたが、現地にそのような説明はなく、その後調べても確証がありませんでした。
<旧大町小学校説明板>
小学校跡の説明板です。冒頭を抜粋させて頂くと『市南部の角川河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城である。築城年代は明らかではないが、室町時代には松倉城の重要な支城であった。』とのこと。つづいて、上杉方の越中における重要拠点となったこと、織田方の攻撃を受けたことなども記されています。
本城だった松倉城が難攻不落と賞される山奥の城だったのに対し、魚津城は平野に築かれた城です。たくさんある松倉城の支城のひとつに過ぎなかった魚津城は、越中と越後の行き来を重視する越後上杉にとって、重要な出先機関となりました。
■上杉と織田の争奪戦■
上杉謙信亡きあと、織田信長は越後上杉が強い影響力を持っていた北陸を支配することを視野にいれていました。一方で、越後では謙信の後継者争い(御館の乱)が約2年も続いたため、景勝が当主となった時には、謙信時代と比べると勢力は明らかに衰えている状態でした。
甲斐武田が滅ぶと、織田軍の動きは活発になり、信長配下の柴田勝家・佐々成政らの軍勢が魚津城まで迫ります。織田軍としても、交通の要衝である魚津は、北陸での拠点として重要な意味を持っていたのでしょう。ただ、この時上杉勢に呼応した小島職鎮が富山城を手中に収めたため、織田軍は魚津城攻めを一旦とりやめ、富山城奪還に向かいます。富山城開城後、織田軍は勢いもそのままに、約4万ともいわれる大軍となって再び魚津城に迫りました。
■魚津城の戦い■
織田軍4万に包囲された上杉軍の城兵は4千弱と伝わります。双方の兵の数には諸説ありますが、概ね魚津城の兵力は攻め手の10分の1程度。城を守る大将格の中条景泰は、越後の上杉景勝の側近・直江兼続宛てに援軍を要請します。
しかし、越後の隣国である信濃や上野には、武田を滅ぼしたばかりの織田軍がまだ残っている状態です。更に、越後の新発田氏が上杉領内に侵攻しようとしていました。つまり、本領が危機にさらされている状態でした。
難しい局面のなか、上杉景勝は自ら軍勢を率いて春日山城を出ますが、織田軍が魚津城の一部を占拠したため救援できず、更に越後を取り巻く環境がますます厳しくなったことから、撤退を余儀なくされました。
<案内板>
詳細が記されています
<案内板地図拡大>
左手(南西)から迫る織田軍と右手(北東)から救援に向かう上杉軍の様子がよくわかりますね。上杉景勝は天神山城(魚津市内/魚津城の東側)に布陣しましたが、引き返さざるを得ませんでした。
援軍が去ったあとも、魚津城は決死の応戦を続けましたが、兵糧も弾薬も尽き、最後の決断をする時がきました。1582年6月22日(天正10年6月3日)中条景泰・竹俣慶綱など、守将12人が自刃して果て、魚津城は落城となりました。くしくも、本能寺の変の翌日の出来事でした。
■一国一城令で廃城■
信長の訃報が届いたことで織田軍は魚津城から撤退しますが、翌春には佐々成政が再び手中に収めます。佐々成政は富山城主となり、越中の覇者となりますが、豊臣秀吉に屈して富山城は開城。成政は肥後へ移封され、越中は前田氏が治めることとなります。その後、江戸幕府の一国一城令(1615年)に従って魚津城は廃城。跡地は加賀藩の蔵(古城御蔵屋敷)として使用されました。
<案内板地図拡大>
案内板の地図を拡大させてもらいました。左が現在の地図。右は江戸時代(1785年)のもので、既に城としての役割は終わっていますが、加賀藩の蔵として使用されていた様子が分かります。本丸の四方を囲んでいたはずの二の丸が一部で変形している以外は、戦国時代の魚津城の形を留めているように思えます。明治初期ごろまでは、堀や土塁が残されていたそうです。
<本丸跡>
旧大町小学校の敷地付近がかつての本丸です
<二の丸跡>
二の丸は本丸の四方を囲むように築かれました。本丸跡のすぐ南側の裁判所も、かつての二の丸跡ということになります。
<鴨川>
魚津城下で堀の役割も担った鴨川
<富山湾>
魚津城は北と南に川、西側に海という立地でした
<北陸街道>
魚津は街道が通り、港もある交通の要衝でした
■つわものどもが夢の跡■
戦国時代の名だたる武将ゆかりの城跡です。さまざまな思惑が交錯した城かと思いますが、やはり籠城のあげく、全員で自害した魚津在城十二将のことが忘れられません。遺構はほぼ失われていますが、来れて良かったと思える城跡でした。
---------■ 魚津城 ■---------
別 名:小津城 小戸城
築城年:不明(室町初期)
築城者:椎名氏
城 主:椎名氏
河田長親 須田満親
廃城年:1615年頃
[富山県魚津市本町]1丁目
■参考及び出典
・現地説明板
(魚津市教育委員会)
・Wikipedia:2023/6/18
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