石田三成が忍城の前に攻略しようとしたのが館林城。忍城は浮城とも呼ばれますが、館林城も沼に守られ水城と呼ばれています。そのなごりを感じるべく訪問してみました。
<館林城跡>
復元された土橋門。手前が内側、門の向う側が正面です。かつては門の前に堀があり、土橋が架けられていたことから土橋門と呼ばれていました。
■初期の館林城■
鎌倉時代からこの地を治めていた赤井氏により城が築かれたのが始まりと推定されています。諸説ありますが、最初の築城者は赤井照康(1556年)ではないかと考えられています。
その後、越後の上杉謙信が関東に進出すると、赤井氏は争うことなく開城しました。これにもまた諸説あり、攻め落とされたという話もあります。その話の流れとしては、築城者・照康の後を継いだ照景が、まだ若くてわがままであったことから、家臣の進言も聞き入れず、小田原北条氏との関係や古河公方の権威をちらつかせて上杉謙信に従うことを拒み、結果として上杉軍が館林城を攻略するに至った。まぁこんな感じでしょうか。補足すると、まだ若かった照景は助命されています。
さて、上杉謙信の勢力下となった館林城は、足利城の足利長尾氏が城主を勤め、上杉軍の関東出陣の時の拠点のひとつとして機能するようになります。
謙信亡きあとは諸々の攻防の末に(ちょっと省略します)小田原北条氏配下の城となりました。
奪い奪われ・・・
これは当時の激戦区の定めですね。
■秀吉の小田原征伐■
この天下の大戦の時には、北条氏規の城代・南条因幡守が館林城の守りを固めていました。そこへ秀吉から館林城と忍城攻撃を命じられた石田三成・大谷吉継・長束正家らの天下軍が到着します。
しかし三方を沼に囲まれた館林城はそう簡単には攻略できません。苦戦が続き、三成は城沼に大木を投げ入れて道を造る策を思いつきます。この大掛かりな策は実行に移されますが、沼の道は一晩のうちに沼へ沈んでしまいました。つまり作戦失敗です。
結局、既に天下軍に下っていた北条氏勝の説得により、和議開城となります。氏勝は伊豆の山中城で天下軍と戦った武将。戦いに敗れ、この時点では天下軍の案内役をしていました。
さて、このあと三成の軍勢は忍城へ向かいます。そして後世に語り継がれる「水攻め」を実施。しかしこの策もまた失敗するため、一般的に石田三成は戦下手と言われています。
<城沼>じょうぬま
この城沼が館林城最大の防衛施設と言っても過言ではありません。今でも大きな沼ですが、昔はもっと水量があり、城の三方を囲んでいたそうです。土塁跡の位置からして、きっとそうだったのでしょう。館林城跡は都市化により遺構はわずかですが、土塁が確認できます。
■戦国時代以降■
戦国末期に小田原北条氏が滅ぶと、徳川家康が関東へ入ります。ここ館林城へは、徳川四天王に名を連ねる榊原康政が10万石で入ります。このあたりからも、いかに重要な城か伝わってきますね。城主となった康政の改修により、館林城は近世城郭へと生まれ変わりました。
館林城の歴代城主には、後に五代将軍となる徳川綱吉(館林藩25万石の藩主として)も名を連ねます。諸事情で一旦は廃城となりますが、ほぼ江戸時代を通して存続しました。明治になり、その役割を終えました。
<城内の水路>
水城の名に相応しい城跡でした。
■訪問:館林城
[群馬県館林市城町]
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