<丸墓山古墳>まるはかやま
円墳としては日本最大規模です。直径は105m。
[背景]
秀吉は小田原征伐の一環として、本隊とは別の部隊によって関東に点在する北条方の城を次々と攻略していきました。三成が率いた二万の軍勢もその一つ。三成はそれ以前に大きな武功はありませんので、身分なども考えると大抜擢。まず館林城に向かいこれを降伏させると、南下してこの地へ向かいました。
<忍城>おしじょう
小田原北条配下の成田氏の城です。城の周囲は沼地・低湿地。三成は大軍を率いて押し寄せますが、城攻めは難航します。
[水攻めを決意]
苦戦する石田三成は、近くの古墳(これが一番上の画像です)に登って周囲の地形を確認し、秀吉の備中高松城攻めに習って水攻めにすることを思いつきました。
<埼玉古墳群>
この付近には古墳が数多く残されています。三成が登った丸墓山古墳はこの古墳群のなかの一基。この付近で一番見晴らしの良い場所です。三成はこの円墳に陣を構えました。
[つわものどもが夢の跡]
石田三成の思惑は、痕跡とてしっかりと残っています。
<石田堤>いしだつつみ
石田三成が忍城を水攻めにした時に築いたとされています。総延長28km。今考えても壮大なスケールの工事です。ただ、流石の天下軍。資金は豊富です。周辺から人夫をかき集め、水攻めの堤を造り始めました。
三成はどちらかというと無駄な出費を嫌う倹約家。そもそもこの忍城水攻め、三成の本意ではなく、秀吉の命令という説もあります。不本意でも従ったという解釈も、それはそれでいかにも石田三成らしいですね。
<横から見た石田堤>
この土塁はそのなごり。陣を構える古墳と直結するように造られています。
<石田堤の上>
訪問が4月下旬になってしまいましたが、石田堤のこの道は桜の名所でもあります。
新緑がまぶしい
[攻防戦]
「関八州古戦録」や「成田記」によれば、堤防の効果で忍城の周りには水がたまり始めますが、突然の大雨で堤が決壊。濁流が逆に三成率いる天下軍に襲いかかり、多数の死者がでたそうです。水攻めそのものは失敗しました。
三成側の苦戦が続き、浅野長政や真田昌幸らの援軍が到着しますが、それでも忍城は落ちません。やがて本城である小田原城が落城となり、戦は終わりました。
これにより忍城は
小田原征伐で唯一落ちなかった城
となりました。
伝わる話に対しては、異論や史料の信憑性の問題などいろいろ議論の余地がありそうです。ただ、私がこの地を訪問する気になったのは、上述のような歴史に魅力があってのこと。それと、それを背景に描かれた「のぼうの城」という物語。私としては、土日は家でゴロゴロの自分を動かしてくれたお話を大切にしたいと思います。
気持ちの良い散策となりました。
■訪問:石田堤
(丸墓山古墳付近)
[埼玉県行田市埼玉]
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