<手児奈霊神堂>
手児奈の霊が祀られています
■手児奈の伝説■てこな
手児奈とは女性の名前です。姫様?ではなく里の娘です。身なりは粗末でありながら清く美しく、その噂は里にとどまらず国府の役人にまで響き渡っていました。当然のごとく言い寄る者が多かったものの、手児奈がこれに応じることはなく、思い患うものや、男同士の争いの種もなりました。このことに悩んでいだ手児奈は、自分さえいなければ、争い事もなくなると思い、真間の入り江に身を投げて亡くなりました。浜にうちあげられた手児奈のなきがらは、不憫に思った里の人たちにより手厚く葬られました。
もっと素敵な言い回しで語り継がれているお話ですが、大まかに説明するとそんな感じです。
<現地説明板>
[市川市教育委員会]
こちらの説明文によれば、手児奈は万葉集にも登場するようですね。山部赤人の歌が紹介されています。ちょっと和歌にも歌人にも詳しくないので解説しませんが、山部赤人といえば小倉百人一首の「田子の浦にうちいでてみれば」の歌人。真間の手児奈の言い伝えは、著名な歌人の心をもふるわせるお話ということですね。
説明文にもありますが、手児奈の伝説はいろいろと形を変えながら伝わったため、設定が異なるさまざまなものがあるようです。以下はそのうちの一つです。
手児奈は地方官職の娘で、近隣の国へ嫁いだものの国同士が争いとなり、仕方なく真間へ戻ることになった。手児奈は実家に戻れぬまま、我が子を育てながら静かに暮らしたが、再び手児奈を巡る争いが起きてしまう。これを憂いて、手児奈は真間の入り江に身を投げてしまった。
美貌ゆえの気苦労と、優しさ故に真間の入江に身を沈めてしまうことは共通していますね。
<真間山弘法寺>ぐほうじ
こちらは市川市真間の弘法寺です。奈良時代に真間に立ち寄った行基が手児奈の話を聞き、その心情を哀れい、霊を慰めるために求法寺というお寺を建てたことに始まります(のちに弘法大師の尽力で真間山弘法寺となる)。
<真間山弘法寺の石段>
弘法寺は高台にあります。この石段を降りた先がかつての真間の里。手児奈はそこに祀られています。
<手児奈霊神堂境内>
手児奈霊神堂は安産・子育に霊験があるとされ、多くの人が訪れるそうです
ということで
真間の手児奈のお話でした。
コレ城跡ブログじゃないの?
そうでない時もございます
<真間川>ままがわ
こちらは江戸川から分かれて東京湾に注ぐ真間川です。かつての入り江の跡とされています。そう、手児奈が身を沈めた真間の入り江です。いまではその面影はありませんが、低地と高台の高低差は昔も今も変わりません。地形とともに、昔の景色やそこで暮らした人たちに思いを馳せてみる。それってちょっと城跡の楽しみ方と似てませんかね?そんな感覚を共有できれば幸いです。
<真間山と真間の里>
[出典:弘法寺説明板]
■訪問:
真間山弘法寺
手児奈霊~堂
[千葉県市川市真間]4丁目
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/2/27
・現地説明板
(市川市教育委員会)
タグ:千葉
それにしても、あらすじを読む限りにおいては、この勝四郎という男はもっとしっかり生きなくてはいけませんね!そうなってしまう経緯をちゃんと読めば、仕方がなかったと受け止められるのかもしれませんが(笑)
コメントありがとうございます。
市川真間のあたりは雨月物語にも登場したような。そうそう「浅茅が宿」という題名でした。