■真間山■ままさん
<真間山弘法寺>ぐほうじ
こちらは真間山の石段です。この階段を登った先の弘法寺周辺が、市河城だったのではないかと考えられています。かつてはすぐ近くにまで入江が迫っていたといいますから、ほぼ海に面した高台だったのでしょう。
<仁王門>
階段を登りきると仁王門が待っています。立派さに圧倒されました。弘法寺は長い歴史の刻まれた寺院。由緒ある古刹に相応しい堂々の佇まいです。
<祖師堂>
<枝垂れ桜>
樹齢4百年といわれる桜。伏姫桜と呼ばれています。南総里見八犬伝の伏姫に由来する名前です。見事な花を咲かせるそうですが、私の訪問は2月。ちょっと早すぎました。
<説明板>
弘法寺に関する詳細が記されています。
ちょっと長いので、市川市教育委員会さんの文を一部引用させて頂きながら説明させて頂きます。ここ弘法寺は『奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまり』とのこと。手児奈(てこな)とは女性の名前です。美貌が故の悲話が、この地の伝説として語り継がれています。『その後平安時代弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後天台宗に転じた』とのこと。歴史ある寺だということが伝わってきますね。更に、かつて国府が置かれた下総国の中心地であったことや、『本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある』といった説明がなされています。文はまだ続きますが、ここで一旦終わりにします。『』内は説明板の抜粋です。市川市教育委員会さん、ありがとうございました。
さて
境内の見どころは沢山ありますが、今回はここが城だったかもしれないということがテーマなので、先ほどの説明板の左下にある絵図に注目したいと思います。
<説明板の絵図>
中央が真間山弘法寺です。冒頭の石段の急こう配を含め、周辺の地形が良くわかりますね。麓は平地になっていますが、更に手前は水辺のようです。説明文にも登場した『真間の手児奈』は、自分さえいなければ人の争いが収まると考えて海に身を投げてしまいます。伝説からも、水辺が近かったことが伝わってきますね。また、地名の真間は「崖地」を意味しています。険しい地形がそのまま地名となっているわけですね。
環境を見る限り
何らかの砦が築かれても不思議ではない
そんな感じです
では国府台城とは別といわれるこの真間山の城は、誰の城として機能したのでしょうか?
諸説ありますが、千葉氏の内紛において、宗家(武蔵国へ逃れたため武蔵千葉氏とも呼ばれる)が下総千葉氏に対抗すべく籠城したのが『市河城』、つまり国府台城ではなく真間山の城だったと言われています。
<盛り土>
そういう目線で見ると、門の隣の盛り土が城の土塁に見えなくもない?
事前に知っていればもうちょっとしつこく見て回ったのですが、この程度の画像でしか準備できず残念です。山頂は広く平らに造成されていますので、比較的規模の大きな拠点が築かれてもおかしくありません。山の斜面にはそれらしい痕跡もなさそうなので、あくまで単郭式の砦のような防衛施設だったのかもしれません。あるいは、既にあった寺院の境内を補強して砦としたのかも?(すべて個人的な想像、というより妄想です)。
<石段>
また行ける日はくるのかな
繰り返しになりますが、国府台城と市河城が別の城というのは諸説あるなかのひとつです。素人会社員にこれ以上のことは言えませんが、そうだったかも知れないという丘に偶然足を運び、高低差などを体感できていたことに、いまさらながら満足しております。
ということで
城跡かもしれない真間山と弘法寺のご紹介でした。拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
■訪問:真間山弘法寺
[千葉県市川市真間]4-9-1
■参考及び抜粋
・現地説明板
(市川市教育委員会)
・Wikipedia:2021/2/23
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