(赤羽の城跡のつづきです)
太田道灌が江戸城と岩槻城を繋ぐ拠点として築いたと推定されている稲付城。赤羽駅からすぐの高台にあります。
前の記事と重複しますが、ここ赤羽は地形的に大変興味深い街です。駅の東側と北側に向かって低地が広がり、逆側(駅の西側)は高台。赤羽は大きな台地と大きな川の間に位置し、気が遠くなるような長い年月をかけて自然が造り出した地形に、人が後から無理矢理、というか苦労して街を築いてきた。そんな感じですかね。
稲付城跡はそういう「街の中の城跡」です。
城だった丘
川だった道
上が稲付城跡/下が稲付川の暗渠
「暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなります。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。」
このブログでは「暗渠と城跡」と題して、そんな楽しみ方を何度か紹介させてもらっています。
(例)
■奥沢城と九品仏川■ 【世田谷区】
<城跡の九品仏浄真寺>
<九品仏川の暗渠>くほんぶつ
■記事:2017年02月23日
暗渠と城跡1(奥沢城)
■志村城と出井川■ 【板橋区】
<城跡の志村城山公園>
<出井川の暗渠>でいがわ
■記事:2017年03月03日
暗渠と城跡4(志村城)
■ 稲付城と稲付川 ■
稲付城跡から見て南側の谷に、稲付川の暗渠があります(別名:北耕地川)。
漠然とですが、私にとって稲付川と稲付城はセットでした。つまり奥沢城にとっての九品仏川、志村城にとっての出日川と同じで、稲付川も稲付城の天然堀の役割を果たしていたと、長らく信じていました。ちょうどそういう位置関係なので。
ところが・・・もっと深く知ろうと、ある日この川の歴史を調べてみたら、なんと稲付川は徳川家綱の時代に開削されたとのこと・・・
「えっ?」
稲付城は既にその時には廃城になっています。勿論、太田道灌もこの世にいません。宿敵だった豊島一族が石神井川沿いに城を築いたのに対し、その石神井川とも繋がっている稲付川に太田道灌は敢えて城を築いた。なんて、どこを調べてもないような勝手な推定をして楽しんでいたのですが、事実を知ってしまってガックリです。城跡と周辺の川をセットで考える癖が裏目に出ました。
知ることは楽しみでもありますが、知り過ぎるとシラケることもあるのですね。ただまぁ私は学者ではないし、勘違いしている間はワクワク感があったので、趣味としては合格とします。
■低湿地のなごり■
<亀ヶ池弁財天>
[北区赤羽西]
かつて赤羽駅の西側にあったとされる亀ヶ池。稲付城の天然堀的な存在だったと推測されています。今はその姿はありませんが、住宅に囲まれたこの小さな弁財天の池は、そのなごりではないかと考えられています。
こんなふうに、城跡そのものだけではなく、周辺を調べることも楽しみの一つです。
稲付川の件は大ハズレでした。しかし城の周辺が沼やら池の点在する湿地だったということは間違いなさそうだし、現地を探索した時の感覚は残っています。それさえあれば、正しく整理し直すこともまた楽しみ。実感が伴う知識を、のんびりと積み上げていきたいと思います。
<亀ヶ池の亀>
のんびりと
お城巡りランキング
2017年04月01日
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