川越城争奪戦の際に、陣所になったと伝わる場所を訪ねました。
<陣所跡>
砂久保陣場跡(=陣所跡)とされる砂久保稲荷神社です。
<説明板>
周辺も含めて、何ら地の利の無い平坦な場所です。本当にここで良いのか?という不安は、立派な説明板で払拭されました。
<説明書き>
そうとう詳しいです。多少は予習をしてきましたが、ここでじっくり読めば充分です。
<分布図>
これは有難いです。城の配置を見るだけで、大まかな勢力分布が分かります。専門の方は別として、ごく普通の歴史ファンは、まず実感が湧くことが大切ですよね。
説明書きはちょっと長いので、抜粋させて頂きながら私なりに説明させて頂きます。『』内は原文の抜粋です。
まずこの陣所についてですが『戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに陣が張られた場所』ということになります。続いて当時の関東の勢力分布についてですが、北条早雲まで遡って説明されていますので、ちょっと省略してここ川越での戦いに絞って抜粋させて頂きますと、『北条方の河越城では、北条綱成(氏康の義弟)と、同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開』し、その救援に駆け付けた北条氏康が『砂窪(砂久保)に着陣』したということです。やがて『上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかり』ますが『氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面から北条方は勝利』ということに。この結果として『上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅び』ることになりました。
[原文:川越市教育委員会]
世にも有名な「河越夜戦」の話ですね。北条氏康が、自軍の10倍近い8万の連合軍に勝利した戦いです。この説明書きで興味深いのは、氏康は大軍に対して奇襲で勝利したというのが一般的な説であるのに対し、『実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです』としている点ですかね。
<社殿>
<社務所>
河越夜戦の頃、この地はまだ原野のような状態だったそうです。のちに村が形成され、鎮守として祀られたのがこの神社の始まりとされています。
■二つの説■どちらの陣所?
実は私が事前に得ていた情報では、ここを陣所としたのは川越城を攻めている最中の上杉憲政の方で、そこへ北条氏康が襲い掛かったというものでした。つまり逆というわけですね。まぁ川越城争奪戦には不明な点も多いとされていますので、あまりそこに拘りません。二つ説があったとしても、その両方が興味深いというのが正直なところです。
場所は川越城の南方約4キロ
城を大軍で方位する連合軍のうち、南側から睨みをきかす上杉憲政がこの地に待機していた。そこへ小田原から駆け付けた北条氏康が襲い掛かった。これはこれで納得できます。
小田原から駆け付けた北条氏康が、取り囲まれている川越城から距離をとってこの地で一旦待機した。そこへ川越城の南側に陣取っていた上杉憲政が襲い掛かった。これも納得できます。
どちらにしても、この付近が見渡す限り平坦で、もし湿地などがあったとしても地の利に乏しく、仰々しく陣城を築くような場所ではないということが興味深いですね。つまり腰を据えて構えるような場所とは思えないということです。よって状況は極めて流動的で、その結果として戦闘が始まった。そんな風に受けとめました(あくまで素人の想像です)。
■ つわものどもが夢の跡 ■
いろんな想像ができてしまいますが、説明書きにあった通り、北条氏康の勝利が奇襲によるものではなく迎撃した結果であるなら、事前の交渉も含め、全てが敵を誘い込む罠だったのではないかと感じました。弱気をちらつかせて敵を油断させ、このように見晴らしの良い場所に布陣し、安易に近寄らせて一気に片を付ける。
やってきた敵を攻撃するのですから形としては迎撃となりますが、意表を突くという意味ではやはり奇襲なのかもしれない。などなど。いろいろと考えさせられながら最寄り駅へと向かいました。
以上です。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:砂久保陣場跡
(砂久保稲荷神社)
[埼玉県川越市砂久保]
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