今回は江戸の消防団として活躍した「め組」の話です。
<供養碑>
増上寺境内に設けられている町火消「め組」の供養碑です。徳川家の菩提寺として知られる寺の境内に、町人の供養碑があることが意外でした。
■町火消■まちびけし
火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。
武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのでしょうね。
■め組■
町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。
吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です。
■め組の喧嘩■1805年3月
これは江戸時代に実際に起きた町火消しと力士の乱闘事件です。芝神明宮境内で開催中の相撲の入場を巡ってトラブルになり、これを発端に双方が徐々にエスカレートして、最後は大乱闘に至ったというものです。屈強な鳶職が多いといっても、よりによって力士と戦わなくてもと思いますが、その辺りが気質を現わしているのかも知れませんね。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言ったりしますが、め組はその両方を地でいった男達なのかもしれませんね。
<め組のけんか>
芝大門の近くで撮影
で、この喧嘩に対する町奉行のお裁きや如何に?これには相撲興行を取り仕切る寺社奉行、更には勘定奉行まで加わって協議がなされたそうです。結果はめ組に厳しいものとなりました。そもそも喧嘩の原因は、入場無料の「め組」の二人が、知人まで境内に連れ込もうとした事。更に、緊急時しか使用が認められていない火の見櫓の早鐘を、喧嘩で鳴らしており、これらの事実を元に、裁きが言い渡されたようです。め組は二人が江戸追放で他は罰金。比較的軽い罰で済んだようです。力士は江戸払いが一人、他はお咎めはなしでした。ちょっと変わった裁きが、この時に鳴らされた小型の鐘が遠島となっています。
<芝神明宮のいま>
現在の芝神明宮。増上寺のすぐそばです。伊勢宮の分霊を祀っていることから、「関東のお伊勢さま」として親しまれてきました。明治以降は芝大神宮と呼ばれています。
<拝殿>
<め組>
この界隈はめ組の管轄でした。左右の狛犬の足元、台座にしっかりと『め組』の名が刻まれています。
<境内の力石>
力石は力競べのための重い石のことですね。境内のこの力石は、芝大神宮で行われた興行で、力士・藤吉が片手で持ち上げたものとされています。五拾貫余?50貫は約190キロになります。それを片手で!凄いですね。
め組の喧嘩を意識し過ぎて、江戸時代の力士?と思い込んでしまいましたが、後で調べたら藤吉(通称は「金杉の藤吉」)は明治時代の力士とのことです。ただ、神社と相撲と庶民が、いまよりずっと近い距離だったような雰囲気は味わえました。
<芝大神宮>
[東京都港区芝大門]
■つわものどもが夢の跡■
<供養碑>
増上寺の境内は史跡が多く、見どころ満載。その中にあって、この供養碑はちょっと地味です。ただ、当ブログがきっかけで立ち止まってくる人がいたら嬉しいです。江戸の町を悩まし続けた火事。これに命掛けで立ち向った者達の供養碑です。
<増上寺>
[東京都港区芝公園]
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