猪苗代湖の北に位置する山城を訪問しました。
<堀切>
別名は亀ヶ城。中世から近代に至るまで、長きにわたって城とし機能した場所です。
■ 猪苗代氏400年 ■それ以上長い歴史の城跡
築城の詳細については不明ですが、鎌倉時代初期(頃?)から長らくこの地を治めた猪苗代氏の拠点です。場所は猪苗代湖の北岸。構造としては典型的、というかやや古典的な山城。山上の本丸から麓までの間に、一定の間隔をおいて平らな区画を設ける縄張りです。凄く凝っているというところは見られませんでしたが、探索するのに丁度いい大きさ(比高で約30m)。全体をイメージしやすいので、歩いていて楽しい山城です。現在は「亀ヶ城公園」として整備されています。
城跡を管理する猪苗代町のホームページによりますと「猪苗代経連(いなわしろつねつら)が建久2年(1191年)、本格的な築城法によって築いた日本最古の平山城」とあります。相当古いのですね。しかも戊辰戦争で「建物が全焼」したということは、とんでもなく長いあいだ城として機能していたことになります。平山城(ひらやまじろ)とは、周辺が平野になっている山城のことです。一般的な城用語ですが、このブログでは山城に分類しています。
整備し過ぎではないのがいいですね。
■ 猪苗代氏 ■蘆名氏と同族
猪苗代氏は三浦氏を祖とする一族。三浦氏といえば相模国(神奈川県)ですよね?むかしむかし、三浦氏の一族(佐原氏)が源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍し、その功績により会津に領地を得て、猪苗代氏を名の名のりました。これが猪苗代氏の始まり。同じ経緯で、やがて会津覇者となる蘆名氏と同族ということになります。ただ、猪苗代氏はいつも蘆名氏に服従しているわけではなく、一定の独立性を保っていました。
やがて伊達氏に寝返り、蘆名氏滅亡に関与しました。深くて長い歴史のなかで、私が猪苗代城と猪苗代氏を強く意識するのはこの瞬間ですね。
■ 伊達軍が猪苗代城に集結 ■ 摺上原の戦い
摺上原の戦い(すりあげはら)は、戦国時代の1589年7月17日、猪苗代において伊達軍と蘆名軍が激突した戦いです。この時、猪苗代城は伊達軍の拠点となりました。
話の前提として、 会津覇者の蘆名氏は既に絶頂期を過ぎ、身内の問題から衰退期にさしかかっていました。当時米沢を拠点としていた伊達政宗は、この機を狙って出兵。蘆名氏配下の城を次々と攻略し、更には蘆名氏の重臣であった猪苗代盛国を内応させ、その居城・猪苗代城へ入りました。
米沢の伊達氏にとって、猪苗代は会津攻略の足掛かりとして都合の良い場所ですね(方角的に中間に位置するため)。政宗に続き、伊達成実や片倉小十郎(景綱)らも猪苗代城に入城。万全の体制で蘆名氏との決戦に備えました。 一方、黒川城(のちの会津若松城)を出た蘆名軍は猪苗代湖の北側に本陣を敷きます。猪苗代城の目と鼻の先ですね。蘆名軍は湖畔の民家に放火して挑発(一般人迷惑。ただ、こういう挑発はこの時代は多いですね)。これに反応し、伊達政宗は兵を率いて猪苗代城から出撃。両軍が激突しました。
戦いに有利な城を出て、野戦を選んだ伊達軍。単純に挑発に乗ったとは思えませんね。「勝てる」という思い、あるいは長年厄介な存在だった蘆名氏を「いま潰す」という決意でしょうか。蘆名軍16,000に対し、政宗は領内の兵をかき集めて23,000の軍を編成しました。単純比較で伊達軍の方が多いですが、圧倒的というほどでもありません。数の差以上に、蘆名軍の連携の悪さが際立つ戦となりました。この時の蘆名軍は諸氏の寄せ集め。かつての蘆名盛氏(もりうじ)のような、統率力のあるリーダーもいません。戦況不利と見るや、戦線から離れる隊が続出し、軍は総崩れとなりました。蘆名家はこの敗北で事実上壊滅します。
この戦い、よく「猪苗代氏の裏切りにより」という文言をみかけます。まぁ形としてはそうなりますが、実は猪苗代氏内部にも父子の対立という構図があり、伊達と蘆名に分かれて戦っています。この戦、よりによって両軍の先鋒が猪苗代氏。戦況不利を見て戦わずして逃げ出す蘆名軍の諸氏と比較すると、むしろ一戦交える前から態度が明らかな猪苗代氏は筋が通っているのではないでしょうか。勝手ながらそう受け止めています(「摺上原の戦い」には、ここに書ききれないほどの複雑な事情、人間ドラマがあります。戦国武将好きの方は別途検索することをお勧めします)。
<城内>
何となく中世の雰囲気が漂います。
江戸時代はあくまで会津若松城の支城ですから、中世の時のまま利用したエリアもけっこう多いのではないでしょうか・・・。こういう景色、とても好きですね。ぼっとしてると蚊に襲われますが・・・
このヘンは近世城郭のなごりでしょうか(すべて私個人の感覚です)。
■ その後の猪苗代氏 ■
ついに蘆名を倒した伊達政宗でしたが、豊臣秀吉に会津を取り上げられてしまいます。この時、伊達氏に下っていた12代当主猪苗代盛国は先祖代々の土地に別れを告げ、伊達氏に従って陸奥国へ移ります。盛国(もりくに)には、五千石が与えられました。子孫も仙台伊達藩に仕えます。
蘆名軍として戦った猪苗代盛胤(もりたね)。盛国の息子にして、猪苗代氏13代目の当主でした。摺上原の戦いでは、城を父に乗っ取られた上に、奮闘むなしく破れました。激闘でしたが命は落とさず、落ちのびる蘆名氏と行動をともにします。しかし最終的には蘆名氏とも別れ、再び故郷へ。猪苗代で没しました。
■ その後の猪苗代城 ■戦国で終わらない
猪苗代城ですが、秀吉の命により会津にやってきた蒲生氏郷によって改修されました。蒲生氏郷の次の会津領主は上杉景勝。徳川を敵に回した会津上杉120万石ですね。この時、城代として猪苗代城を任されたのは家臣の水原親憲(すいばらちかのり)でした(ここ飛ばしても良いところですが、水原さん、好きな戦国武将の一人なので)。
江戸時代、幕府の方針の原則は一国一城。しかし猪苗代城は例外としてとして扱われました(会津若松の支城として機能)。これにより、幕末の戊辰戦争(1868)で建物が焼失するまでの間、戦あるいは統治のための城であり続けました。
■ つわものどもが夢の跡 ■
<本丸へ向かう石段>
訪問にあたり、強く意識していたのは戦国期です。しかしこの城にとって、それも歴史の一部に過ぎないようです。時代を越えた沢山の武士たちの思いが込められている城跡です。
---------■ 猪苗代城 ■---------
別 名:亀ヶ城
築城者:猪苗代経連(つねつら)
築城年:1191年頃 (推定)
城 主:猪苗代氏・蒲生氏ほか
廃城年:1868年
[福島県耶麻郡猪苗代町古城町]
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