<深大寺城跡>
深大寺城は河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原北条氏(氏綱)に対抗するために改修した城です。この地にはもともと「ふるき郭」があったとされています。つまりもともと城跡でした。ただ誰の城だったかは分かっていません。武蔵七党の狛江氏という説もあります。
■ 激闘はなし ■ 1537年
北条氏綱は深大寺城をけん制しながらも攻撃せず、迂回して河越城を直接狙いにいきました。これは城を整備した扇谷上杉側にとっては、戦略上の大誤算ですね。前線基地の意味が無くなった訳ですから。
この戦は北条側の大勝利。河越城を攻略した北条氏綱は、関東覇者への道を着実に進んで行きます。深大寺城はそんな時代に改修された城跡。その後使われた様子が無いことから、当時の姿をいまに残す貴重な城跡と言えます。
※余談ですが、同じく小田原北条氏の戦で有名な「河越夜戦」は1546年のこと。つまり更に後の話です。北条氏綱の息子・氏康が奇襲で大勝利しましたね。
■ この頃の北条氏 ■ 二代目氏綱の成熟期
北条早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱。相模から関東全体への勢力拡大を目指し、着実にその基盤を構築してゆきます。よく二代目は駄目というケースは多いですが、氏綱はまったく違っていました。その息子・三代目氏康もこれまた凄かったので、代替わりを成功させる秘訣でもあったのでしょうか?まぁそれはまた別途研究するとして、この二代目氏綱、深大寺城が再整備されたこの頃には既に51歳でした。翌年には、国府台城で里見氏・足利義明の連合軍に勝利。勢いだけでなく、経験に経験を積んだ大将だった訳ですね。前線基地として整備したここ深大寺城があっさりと迂回されてしまい、扇谷上杉側は相当焦ったことでしょう。
それにしても、東京・埼玉で戦って、次に千葉で戦って、関東を制するのは大変な道程ですね。その途上、氏綱は55歳で生涯を閉じました。
■ この頃の扇谷上杉家 ■ 若年当主
当主は家督を継いだばかりの上杉朝定(ともさだ)。1525年生まれとあるので、えっとまだ12歳?ということですか。北条氏綱は当主が若年であることをチャンスと考えたとも言われています。まぁ実際には側近たちがいろいろと判断していたのでしょうが、こういう歴史の長い名門組織では、まとまり難いことも多々あります。もう英雄・太田道灌(1486年没)のような絶対的な家臣もいません。まぁいずれにせよ結果は敗北。陰りの見える扇谷上杉家は、すでに江戸から川越へ追いやられていたわけですが、この戦いで更に北(松山城=埼玉県吉見町=川越より更に北方面)へ逃れることとなりました。道灌が亡くなってから約50年。扇谷上杉家の運気は落ちる一方ですね。朝定は何とか生き延びますが、先述の河越夜戦で北条氏に討たれます。実質最後の当主でした。
<湿地帯>
城跡は深大寺に隣接する「水生植物園」にあります。美しい。当時も湿地帯でした。右手の山、ただの雑木林ではありません。深大寺城跡です。
<曲輪>くるわ
最初に二の丸(第二郭)。広いですね。石が建物跡の目印
<曲輪を囲む土塁>どるい
いいですね。すごくいい。いかにも中世の城郭。
<虎口>こぐち
曲輪への出入り口でしょうか
<二重土塁>にじゅうどるい
これ堀ではなく土塁が連続した構造になっています。当然ですが、築城時はもっとシャープだったことでしょう。ここは昔の城の一部ですが、見応えがあります。復元も含まれると聞いていますが、遺構に満足できる城跡です。
■ つわものどもが夢の跡 ■
北条氏に落とされた関東の城は、その後北条氏の手によって改修されている場合が多いですが、ここはそのまま。その当時のままです。天然の要害ですが、北条氏の戦略上は拠点とする魅力が無かったようです。その北条氏の進攻を何とかくいとめたい。何百年も前のその思いが、形となって残っている場所です。
---------■ 深大寺城 ■---------
築城者:不明(狛江氏?)
築城年:不明
改修者:難波田広宗
(扇谷上杉家臣)
城 主:難波田広宗
廃城年:1537年(天文6)
[東京都調布市深大寺元町]
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