
関東の治水で名を馳せた伊奈氏。その屋敷跡を訪ねました。場所は地名にその名が残る埼玉県伊奈町です。
■現地■
場所は原市沼川の北岸微高地。規模は東西約350m南北約750m。土塁や堀の跡を見ることができます。一般に伊奈氏屋敷跡と呼ばれていますが、屋敷というより、ちょっとした城郭です。個人的には、まぁ館跡というくらいの表現がしっくりきます(よって以下は館跡ということで)。
<空堀>

こういった遺構もいわば伊奈氏の思惑のなごり。ここは虎口(出入口)付近の堀跡です。
<案内板>

説明によれば、調査の結果「障子堀」※も確認されたようです。こういう調査の時に見物できたら、相当楽しいでしょうね。
※説明はこちら→「城用語 障子堀」
<曲がり道>

一見ただの道ですね。これは意識して見通しを悪くした道。昔の屋敷絵図と一致します。遺構とは言えませんが、これも館だったなごりです。

この道は判断が難しいですが、やはり昔の屋敷の図から推定して、空堀とか堀切りのような場所だったような気がします。確証はないのですが、私はそう思って楽しみました。
■伊奈氏の関東進出■
伊奈氏はもともと信州伊那の出。地名から「伊奈」を名乗ったといわれています。字が若干違いますが発音重視で読み流してください。伊奈忠基(ただもと)の代に松平広忠に仕え、三河国の小島城(おじまじょう)の城主となりました。松平広忠はすなわち徳川家康の父です。その家康が関東へ入国したとき、忠基の孫にあたる忠次(ただつぐ)が旧領に加えて武蔵国小室(現在の埼玉県伊奈町小室)・鴻巣領を与えられました。今回訪問の館跡は、伊奈忠次が築いたものです。
■幕府の基盤を造った一族■
伊奈一族は、関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献しました。利根川と荒川の改修は、たくさんの成果の中でも最大級の事業と言えます。戦や政治の舞台ではないのでやや地味な存在ですが、幕府の下支えをした功労者ということですね。訪問した館跡は伊奈氏の足跡のほんの一部に過ぎません。関東には、伊奈氏が整備した水路や、名を関する神社などが数多く残されています。そして何より、かつては北から南下して江戸湾に注いでいた利根川が、東へ流れて太平洋へ注いでいます。
■波乱万丈伝■忠次 (1550―1610)
伊奈備前守忠次。「ちゅうじ」ではなく「ただつぐ」です。通称は熊蔵(これも信州の地名由来のようです)。この方、関東へ移るまでは山あり谷ありの道のりでした。
三河国においては、父とともに一向一揆に加担して国を追われています。もっと分かり安く言うと、反家康に加担し、立場がなくなって出奔しています。のちに「長篠の戦い」へ自主的に参加して活躍。これが認められ、父とともに徳川家康の長男である信康の家臣となりました。ところが、諸々の言い掛かりで信康が切腹させられると、再び徳川家から出奔。ここはかなり複雑な事情がありそうなのですが、いろんな説があり、こんな拙ブログではなんとも説明ができず…。そもそも、徳川信康や母である築山殿に関することは諸説が多すぎで、私個人も整理できていません。まぁ今回は伊奈氏の話ですので、とにかく出て行かざるを得ない状況となり、また流浪の生活となりました。
普通ならもうチャンスは無さそうですが、本能寺の変の直後、家康が自国へ向かって決死の脱出をはかったいわゆる「伊賀越え」で、また貢献(家康のそばにいたということでしょうか?疑問多すぎす…)。この功により、また帰参が許されました。
服部半蔵もそうですが、この家康最大の危機で貢献できたことは大きいですよね。そののち、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、大軍をサポートする兵粮運搬や街道整備などを担い、更に信用を得ました。
■開花する伊奈氏■忠治 (1592―1653)
忠次の息子、伊奈忠治。「ちゅうじ」ではなく「ただはる」です。通称は半十郎。伊奈氏の地位を不動にしたのは忠治とまで言われています。次男でしたが、忠次の後を引き継いだ兄が34歳で亡くなってしまい、事業は忠治が引き継ぎました※。この時すでに本家から独立していたので、忠治の活動拠点は今回訪問の館ではなく、足立郡赤山(現在の埼玉県川口市)になります(赤山城址★として整備されています)。伊奈一族の大仕事として有名な利根川の事業は、忠治の力によるところが大きいと考えられています。
※忠治の兄・忠政は病弱とかではなく、例えば大坂冬の陣では外堀を埋め立てる時の普請奉行を務めたり、更に夏の陣では戦そのものにも参加し、伊奈家二代目として充分に活躍していました。忠政亡きあと、関東代官の役割は弟の忠治が引き継ぎ、伊奈家本家の家督(今回訪問の屋敷含む)は、まだ幼い兄の子が継ぐことになりました。
★訪問記はこちら→「伊奈一族の城跡」
<微高地の森>伊奈氏屋敷跡

緑で覆われた部分が館跡。周辺よりは微高地になっています。7月の炎天下、駅から日陰もなく、やや厳しい訪問となりました。
■つわものどもが夢の跡■
当ブログでは城跡や館跡を指して「つわものどもが夢の跡」と呼んでいますが、伊奈一族の場合、拠点とした場所より、関与した水路などを指す方が相応しいかもしれませんね。それらの多くは、今でも現役で頑張っています。
[例] 備前堀川

埼玉県久喜市付近の堀川。名前は備前守(びぜんのかみ=伊奈氏)が開削したことに由来します。この画像は稲穂が頭を垂れ始める頃に撮影したもの。実りの秋に、水路まで黄金に輝いているように映ります。
-----■伊奈氏屋敷■-----
別 名:伊奈陣屋・伊奈城
築城年:1590年(天正18)
築城者:伊奈忠次(初代)
屋敷主:伊奈忠次・忠政
廃城年:(不明)
最寄駅:丸山駅(ニューシャトル)
[埼玉県伊奈町大字小室]字丸山

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