<新正寺曲輪跡>
岩槻城の歴史は長いですが、今回訪問の新正寺曲輪が注目されるのは戦国時代末期。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の時です。秀吉は小田原城を大軍で包囲するとともに、別働隊で関東に点在する北条配下の城を落としていきました。当時北条配下だった岩槻城は、その別働隊によって攻め落とされます。
「別働隊」といっても小隊ではなく、約2万の大軍です。いくら堅固な城といっても、2万の攻め手に対し、守る側は2千です。更に、城主・太田(北条)氏房と主力は小田原城へ移っていたため、兵力の差は明らか。城を任された家老・伊達房実を中心に岩槻城は奮闘しますが、城兵約1千の死傷者を出して、降伏となりました。
岩槻城を攻め落としたのは浅野長政率いる豊臣軍ということになりますが、本多忠勝や鳥居元忠といった徳川勢も加勢しています。守りの固かった当時の岩槻城に対し、豊臣軍は北側からの攻撃を選びました。秀吉からの催促もあり、持久戦にはしませんでした。
<新正寺曲輪石柱>
こちらは岩槻区宮町の久伊豆神社前の新正寺曲輪の石柱です。新正寺曲輪は岩槻城本丸から巨大な沼を隔てた北側に設けられた防衛施設。石柱を設置してもらったお陰で、かつての城跡にいることが実感できます。
<石柱の説明文>
側面に岩槻市教育委員会による説明が記されています。平成元年のものですね。この10年後、岩槻市はさいたま市岩槻区となっています。内容を以下に転記させて頂きます。
『元荒川沿いに広がり、沼を隔てて本丸を南に望む。西は新正寺口より田中町に続き、東は明戸口より岩槻城主郭に連なる。曲輪内には岩槻城総鎮守・久伊豆神社がある。』
説明文に登場する新正寺は、久伊豆神社の別当・光明院の寺号で、曲輪の名の由来でもありますが現在は存在しません。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらは別の日に岩槻城址公園で撮影した説明板です。ご覧の通り、岩槻城は沼地を利用した平城です。近くに元荒川が流れる台地上に、城の中核がありました。岩槻城は江戸時代を通して存続しましたが、城の中核と地形は戦国末期も同じです。
大きくカーブしている元荒川の内側に、新正寺曲輪があります。川と沼にはさまれた微高地だったのでしょう。ここをあえて曲輪とする理由は、まずは天然の堀である元荒川を敵が渡ろうとするのを妨害するため。そして、川を越えられてしまった場合は、敵が久伊豆神社の境内を含む広々とした微高地を足場にしかねないため、予め城に内包して守りを強化しておく必要があった。そんな感じでしょうか(他にもいろんな評価があるかと思います)。
そんな守る側の心配が的中したのでしょうか。豊臣軍はこの新正寺曲輪から攻め込んだと伝わります。結果は先述の通りです。多大な犠牲者を出しながらの抵抗は3日で終了しました。
ちょっと殺伐とした内容で終わってしまうので、簡単ではありますが、かつての新正寺曲輪に現在も鎮座する久伊豆神社をご紹介しておきます。
<久伊豆神社参道>ひさいずじんじゃ
岩槻城を築城した太田道灌が、城の鎮守としたと伝わります。
<鳥居>
久伊豆神社は元荒川沿いに多く、埼玉県では有名な神社です。創建はかなり古く6世紀頃とされています。
<拝殿>
この日も多くの人で賑わっていました。人を避けての撮影は無理だったので、ちょっと画像を加工させて頂きました。
<本殿>
ここが本社と勘違いするほど立派な神社です(本社は加須市)。岩槻の総鎮守として地元民に親しまれています。
■訪問:新正寺曲輪石柱
(久伊豆神社鳥居前)
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]2
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■参考及び出典
・新正寺曲輪石柱説明文
・岩槻城址公園説明板
・Wikipedia:2024/1/20
・MY神社HP 埼玉の神社一覧
「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社」
https://myjinja.com/jinja/detail/id/15
・久伊豆神社HP
【説話】岩槻城落城伝説と久伊豆神社
https://www.hisaizu.jp/infomation03/269/
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