■ 真鳥城 ■ まとりじょう
畠山重忠がこの付近を領した頃、家臣の真鳥日向守が統治のための拠点としたようです。城跡は南北に長い丘の上にあります。
<石碑>
[日向不動尊]桜区西堀10丁目
立派な石碑です。真鳥日向守城址。そのあとに「西堀氷川神社宮司 真取正二書」と刻まれています。つまりこの真鳥さんは、日向守の末裔の方ということですね。
この石碑付近に、城の遺構らしきものは見当たりません。ただ現地に行けば、そこが微高台地になっていることは実感できます。
<水路>
石碑のあった台地を東側へ下ってみました。これは真鳥城の堀跡?ではなく、純粋な水路です。ただ、昨日今日の水路ではありませんよ。
真鳥城は丘の上の城。その丘の東側は、かつて巨大な沼でした。鴻沼(または高沼)といいます。新田開発のため、この沼の水を抜くための排水路が造られました。これが現在の鴻沼川。同時に造られたのが、目の前の水路。沼の西側のヘリに沿って造られました。
<鴻沼川>
<現地説明文>
開拓事業を行った井沢弥惣兵衛(やそべえ)に関する説明。子供用なので私にも良く理解できました。
さてさて、これは江戸時代のお話です。真鳥日向守がこの地を治めたのは、平安時代末期から鎌倉時代初期と思われますで、その当時は沼。つまり、真鳥城は、西を巨大な沼(東西の幅で100〜500 m・長さは南北4 km)に守られた天然の要害だったわけですね。
<とある坂>
先ほどの水路は台地の東側。今度は台地の西側を見てみましょう。かなり急な坂道です。真夏にこんな心配をするのもヘンですが、雪でも降ったらそうとう難儀ですね。坂を下るとしばらく平地が続き、そのまたずっと先には荒川が流れています。つまりこの台地は東が先程の巨大沼、西は荒川低地。そういう場所です。
<村の鎮守>
[西堀氷川神社] 桜区西堀8丁目
石碑に記載のあった神社です。村の鎮守として、古くから地元の人たちに親しまれている神社です。
<説明文>
ここにも、真鳥城に関する説明があります。この説明だと、そうとう大きな城。大昔の「城」ですからね。もしかしたら、丘そのものが真鳥氏の砦のような感じだったのかもしれません。
<ひかわ幼稚園>
神社に隣接する幼稚園。西堀氷川神社もこの幼稚園も、真鳥さんと関わりがありそうです。近くで「真鳥さん」宅を見かけましたが、こちらは明らかに個人宅でしたので撮影は致しませんでした。
■ 日 向 ■
冒頭の石碑ですが、下の方に以下のような説明がありました。
『この地は真鳥日向守の城址と伝えられているが、時昭和63年8月の新住居表示制度施行に伴い、日向の地が消滅。この石碑はこれを惜しむ有志によって建立』
とのこと。『』内は抜粋してます。
地図を確認。石碑のあった場所も神社も、そして丘の西側の平地も「西堀」となっています。その東側は「鈴谷」、そして「中島」。「日向」という地名は確かにありません。昔の地図だと「日向」という地名があったということですね。ただ、地名ではありませんが、丘の上の交差点付近に「日向」の文字を見つけました。
<日向坂>
日向坂。そしてこの坂を登った交差点にも「日向」の文字がありました。
地名が消えてなお残る日向の文字。住居表示上は消えてしまいましたが、地元の人たちにはこの名で通じるのでしょう。つまり、消えてなんていません。
ところでこの「日向」の文字。普通は「ひゅうが」と読みますよね。まして真鳥日向守との関係を知ってしまった以上なおさらです。でもすべて「ひなた」と読んで良いようです。
ひなた坂 ひなたの交差点
経緯はわかりませんが、日向守に由来する「日向」が、いつしか「ひなた」と呼ばれるようになったのでしょう。
<ひなたのバス停>
城の遺構とは出会えませんでしたが、日向守のなごりを感じました。
ひなた
いい響きですね。
-----------■ 真鳥城 ■-----------
別 名:真鳥山城
築城者:真鳥日向守
(畠山重忠家臣)
築城年:鎌倉時代
城 主:真鳥日向守
廃 城:不明
[埼玉県さいたま市桜区西堀]
最寄駅は南与野駅。Googleマップで検索する場合は「日向不動尊」を目印にすると良いと思います。西堀氷川神社や日向の交差点は中浦和駅からの方が近いです。
お城巡りランキング
タグ:埼玉