[さいたま市南区白幡]1丁目
旧浦和市の白幡沼です。この沼の東側の丘から、戦国時代の堀や建物跡が発掘されました。詳細不明ながら、城跡であったと推定されています。場所はJR埼京線の武蔵浦和駅から徒歩圏内。その周辺を散策してみました。
■探索開始■
<丘の上>
城跡と推定されている丘の頂上は、現在公立中学校(白幡中学校)となっています。当時の主郭と思って良いのでしょうか。発掘調査はこの学校の敷地内とのこと。関係者ではないので、これ以上は進めませんが、特に石碑とかがあるわけでもなさそうです。
地形は舌状台地、つまり台地が部分的に突き出た状態。そして麓には沼。中世の山城で良くみかける環境ですね。
<麓探索>
水路になった堀の跡?普通に水路と思ったほうが良さそうですね。残念。
山城は西側には冒頭でご紹介した白幡沼、東側は谷となっています。現在は宅地化されて分りにくいですが、周辺の低地は湿地帯だったと推定できます。何も発見できませんが、地形から天然の要害の要件を満たしていることは実感できました。
■地名の由来■
平将門討伐途中の藤原秀郷がこの地に宿陣し、八幡を歓請し戦勝を祈ったという言い伝えがあります。このとき陣中に白旗を立てたことから、この付近は「白幡村」と呼ばれるようになりました(現在:さいたま市南区白幡)。藤原秀郷との関係を疑問視する声もありますが、異説でも地名が「白い旗を立てた」ことに由来する点は否定していません。
<麓探索2>
医王寺(いおうじ)の大きな鐘楼門。門の二階部分に鐘を吊るす堂があるのですね。あまり見ないような気がします。
境内には庚申塔や石仏が多数。歴史を感じます。ただ「城」と関わるものはなさそうですね。
<沼付近>
宅地化されなければ、周辺はこんな雰囲気だったのかも知れません。かつて湿地の多かった浦和らしい光景です。
■結論はありませんが・・■
白幡の名が藤原秀郷に由来するのなら、城跡も関係あるのではないかと思ってしまいますが、どうも結びつける根拠がないようです。この地から北へ少し行ったところには畠山重忠の家臣だった真鳥氏の城跡があり、東へ数百メートルのところには、岩槻太田氏家臣の宇田川氏の館跡があります。それらの勢力と、この地にあった城の関係はどうなんでしょうかね。素人の勝手な想像だけが膨らみます。
白幡本宿遺跡、専門家の皆さんの新たな発見が楽しみです。
■訪問:白幡中学校付近
[埼玉県さいたま市南区白幡]
お城巡りランキング
タグ:埼玉
拙ブログに訪問頂きありがとうございます。まさに遺跡調査の時に在学されていたのですね。普通は経験できない事で、素敵な事だと思います。
白幡沼と白幡中の位置関係から、ここに城(館など含む)が築かれるのは自然であろう。そんな思いでブログにまとめてみました。城好き会社員に過ぎませんので、学術的に至らない点はご容赦下さい。ただ、同じ丘もそんな思いで見上げれば違った景色に映る。そこが共有できれば嬉しいです。
白幡沼の地権者を探していてここにたどり着きました
上にある白中は母校であり、在学中に遺跡調査が行われて手伝いをした記憶があります。その時に建物の四隅の柱の下の部分に古銭が一つ置かれていたのが当時は珍しいと話題になりました。何かの願掛けか厄除けでしょうか?
今では新校舎の下になってしまいましたが土器の破片を良く拾いましたし
崖下で人骨一体分が出土して警察沙汰になった事もありました。
その時にその人骨がかなり古いものだったと言う話も聞きました。
遺跡調査は確か1976年頃だったと思います。
Twitterでいろんな方から情報を頂き、白幡沼に愛着まででてきました。今後とも宜しくお願いします。