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第54回 西村陽吉 [2016/03/29 11:10]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十二月、『青鞜』新年号の編集作業が佳境になったころ、野枝は一日おきくらいにらいてうの円窓の部屋に通っていた。
しばらく、野枝は紅吉とは遭遇しなかった。
行くたびに哥津ちゃんと会った。
野枝は少しずつ青鞜社の仲間に交じっても、落ちついて対応できる余裕を持てるようになってきた。
野枝にとってそれまで自分の周りには見出すことができなかった、自由で束縛のないその人たちの生活..
第53回 玉名館 [2016/03/28 21:09]
文●ツルシカズヒコ
「失敬失敬、上がりたまえ」
取り次ぎに出た年増の女中の後から、紅吉は指の間に巻煙草をはさんで、セルの袴姿でニコニコしながら出て来て、紅吉一流の弾け出るような声で野枝を引っ張り上げた。
野枝が案内された部屋には綺麗な格好のいい丸髷姿の岩野清子と、この家のあるじの荒木郁子がいた。
野枝はふたりに会うのは初めてだった。
郁子は黒くて多い髪の毛を一束ねにして、無造作にグルグル巻きにしていた。
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第52回 阿部次郎 [2016/03/28 17:24]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十一月の末。
その日は夕方から、青鞜社の事務所がある本郷区駒込蓬萊町万年山(まんねんざん)勝林寺で、阿部次郎がダンテの『神曲』の講義をする研究会のある日だった。
毎月一日発行の『青鞜』の校了は前月の二十五日前後のようだが、この日は『青鞜』十二月号の校了後であろう。
『青鞜』十二月号(二巻十二号)には野枝の「日記より」が掲載された。
野枝が寺の内玄関の正面にかかった大きな郵便受けか..
第51回 伊香保 [2016/03/28 15:43]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p397)によれば、一九一二(大正元)年十月十七日、『青鞜』一周年記念会が鴬谷の「伊香保」で開かれた。
「伊香保」は当時、文人墨客がよく利用する会席料理屋として知られ、常連だった尾竹竹坡の紹介で会場が「伊香保」に決まった。
らいてう、瀬沼夏葉、生田花世、紅吉、神近市子などが出席した。
らいてうはこの席で女子英学塾三年に在学中の神近市子と初めて会っ..
第50回 若い燕(二) [2016/03/25 12:29]
文●ツルシカズヒコ
紅吉は奥村から届いた「絶交状」への返信を書いた。
私はけさ、広岡の家であなたの最後の手紙をみた。
それから今家に帰ってあなたからの同じ手紙を見た。
私はああした感情に走り切るあさはかな女でした。
私は是非あなたに逢いたい。
そしてこの間からの話を聞いてもらい度い。
私は広岡によって生きていました。
けれど今度のああした事柄は私をどんなに苦しめ、またどれだけ女..
第49回 若い燕(一) [2016/03/24 21:22]
文●ツルシカズヒコ
らいてうが奥村から受け取った手紙の文面は、こんなふうだった。
それは夕日の光たゆたっている国のことでした。
その国の、とある海辺の沼に二羽の可愛い鴛鴦(おしどり)が住んで居りました。
それはそれは大そう睦まじく……いつもいつも一緒でないことはありませんでした。
そして姉の鴛鴦は口癖のように《私の子供》と言っては妹鳥のことを話す程でした。
とある夏の日のことでした。
若い燕に..
第48回 新妻莞 [2016/03/24 20:01]
文●ツルシカズヒコ
奥村は藤沢の実家から転送されて来た、紅吉からの二通めの手紙を受け取った。
簡単な絶交状だったが、奥村はともかくらいてうに知らせておこうと思い、さっそく手紙を書いた。
手紙と《青鞜》ありがとう。
雑誌は待ち切れず、三崎郵便局まで取りに行きました。
きょうしげりからこんな手紙を貰いました(別に二通の写しが添えてある)が、何んにも知らないわたしは これに対していったいどうしたら好いでしょう?..
第47回 モンスター [2016/03/24 18:24]
文●ツルシカズヒコ
奥村は画家の視点で、らいてうをヴァン・ダイクが描いた『オランジュ公と許嫁』のプリンセス・マリイのようで、さらにボッティチェッリやラファエロが描くマドンナが「この人の内にある」と思った。
中世の貴族を思わす端正な顔、小柄ながらバランスの良くとれた体躯、充実して生きいきとした小麦色の皮膚、聡明さをあらわす額、それにかかるどこやらいたずらっけの交じった渦巻く煉絹のように柔かい癖毛。
いつも中心を動かぬ、山の..
第46回 ロゼッチの女 [2016/03/24 17:22]
文●ツルシカズヒコ
伊藤野枝「雑音」(『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)に、らいてうと奥村が一夜をともにした件について、紅吉が野枝に語って聞かせる場面がある。
「雑音(十六)」によれば、らいてうと奥村が一夜をともにしたのは、らいてうが一時帰京するはずだった日の夜だという。
その日、奥村が南湖院に来たので、紅吉の病室でらいてう、保持、奥村、紅吉の四人で遅くまで話をして、結局、奥村は保持が寝泊まりし..
第45回 雷鳴 [2016/03/24 14:37]
文●ツルシカズヒコ
西村と奥村が南湖院を訪れてから二、三日すると、写生の帰りだといって画材を持った奥村が突然、らいてうの宿を訪ねて来た。
描き上がったばかりの「南郷」という松林のスケッチを見せてもらったらいてうは、ふと『青鞜』一周年記念号の表紙を奥村に描いてもらいたいと思い、さっそく依頼した。
それから二、三日した日の夕方、奥村が表紙絵の図案を持って来た。
その夜、らいてう、奥村、保持、紅吉は馬入川(ばにゅうがわ)の..
第44回 運命序曲 [2016/03/24 10:23]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p381)と奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(p31~32)によれば、一九一二(大正元)年八月の半ばを過ぎた日のことである。
この日の午前中、奥村博は実家から一キロの距離にある東海道線・藤沢駅に出かけた。
父親の知り合いから荷物を受け取るためである。
骨太で長身、真っ黒な長髪を真ん中からわけた面長の奥村が、一、二等待合室で上り列車が入ってくるの..
第43回 南郷の朝 [2016/03/23 18:59]
文●ツルシカズヒコ
青鞜社内からも非難され追いつめられた紅吉は、らいてうの短刀で自分の腕を傷つけた。
いったいどういう激情に動かされたものか、自分を責めようとする激動の発作からか、紅吉は自分の左腕に刃物をあてたのでした。
厚く巻いた繃帯をほどいて、その傷を眺めたとき、それはわたくしに対して示された、紅吉のいじらしい愛の証しを語るもののようでありました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下..