つわものどもが夢の跡
関東郡代として関八州の幕領を管轄し、治水や新田開発で幕府を支えた伊奈氏。三代目の伊奈忠治が築いた城跡(屋敷跡)を訪問しました。
<赤山城址石碑>
場所は現在の埼玉県川口市。かつての本丸・二の丸付近が公園として整備され、本丸虎口付近には石碑が建てられているほか、土塁や堀跡が確認できます。
■城?陣屋?屋敷?■
城址と呼ばれたり陣屋跡・屋敷跡とも呼ばれています。個人的な感覚としては、時代まで考慮すると「陣屋」でいいような気もしますが、城郭に相応しい構造で、更に家臣団の屋敷スペースも含めるとかなりの広さだったようなので、とりあえずここでは「城」で通します。
■訪 問■
高台の雑木林がそのまま城跡となっています。駅から大きな道をひたすら歩いてきましたが、目印を見つけて狭い道へ。本当にこの先に城跡があるのかな?などと思っていたら、突然ひっそりと目の前に現れました。とても静かな場所です。
<日枝神社>
江戸城鎮護の日枝神社から分社された赤山城の守護(「日枝」というのは明治以降の号)。この盛り土は空堀を掘ったときの廃土によって築かれました。
<堀跡>
普通に堀と思えば良いのでしょうが、ここが治水事業の功労者である伊奈氏の城跡だと思うと、妙に意味深く感じてしまいます。現状の堀はやや浅いですが、当時はもっと深かったのでしょう。まぁ周辺の低湿地を実質外堀として活かしていることを考えると、内堀はこの程度でも良いのかもしれませんが…。それにしても良く整備してもらっています。遺構の管理に感謝です。
■ 縄張り ■
縄張りは本丸と二の丸を基本として、周囲に曲輪を配置したシンプルな構造となっています。平城(ひらじろ)に分類できますが、周辺の低地との高低差を利用した城で、当時の推定図の多くには、二の丸や北側の曲輪に堀の役割を果たす湿地帯が描かれています。現地で確認する限り、西にも南にも明らかな谷(かつての低湿地)があり、地形の険しさにしっかりと守られた場所という印象です。
<二の丸>
城跡が良く整備されていることには感謝しますが、実はこの「凝ってない」景色が一番気に入りました。曲輪の向うは斜面になっています。
<北側の谷(堀)>
現地では高低差が実感できます。この竹林は伊奈氏のお姫様と龍の伝説が伝わる場所(立入禁止)。
■伊奈氏拠点として約160年■
三代目忠治以降も、伊奈氏は新田開発や治水事業で業績を残し、更に飢饉の際の貧民の救済や百姓一揆鎮圧など、長年にわたって世のため人のためとなる役割を担いました。ただ12代目の時に諸々の不祥事で関東郡代を罷免され、所領は没収となります。私個人は伊奈氏側にすべての原因があるとは思っていませんが、世間的には不祥事ということになります。
@忠次⇒A忠政※⇒B忠治
※二代目は忠次の長男・忠治の兄
⇒C忠克⇒……⇒J忠敬K忠尊(改易)
<つわものどもが夢の跡>
163年間伊奈氏の拠点だったここ赤山城も廃城。城の役割も終わりました。
--------■ 赤山城 ■--------
別 名:赤山陣屋
築城年:1629年(寛永6)
築城者:伊奈忠治
屋敷主:伊奈氏歴代
(3代〜12代)
廃城年:1792年(寛政4)
[ 埼玉県川口市赤山 ]
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----------■ 追 記 ■----------
探索を終えた帰り道、城跡南側の低地でこんな光景を目にしました。
<城跡南側の低地>
ここはかつて外敵の侵入を拒んだ低湿地です。いまでは広々としたグラウンド、そして緊急時には水を受け入れる場所として整備されています。金網状の通り道は水路。伊奈忠治も感心するような現代の治水です。
2017年07月24日
2017年07月22日
伊奈一族の拠点(伊奈町)伊奈氏屋敷跡
<伊奈氏屋敷跡>
関東の治水で名を馳せた伊奈氏。その屋敷跡を訪ねました。場所は地名にその名が残る埼玉県伊奈町です。
■ 現 地 ■
場所は原市沼川の北岸微高地。規模は東西約350m南北約750m。土塁や堀の跡を見ることができます。一般に伊奈氏屋敷跡と呼ばれていますが、屋敷というより、ちょっとした城郭です。個人的には、まぁ館跡というくらいの表現がしっくりきます(よって以下は館跡ということで)。
<空堀>
こういった遺構もいわば伊奈氏の思惑のなごり。ここは虎口(出入口)付近の堀跡です。
<案内板>
説明によれば、調査の結果「障子堀」※も確認されたようです。こういう調査の時に見物できたら、相当楽しいでしょうね。
※説明はこちら→「城用語 障子堀」
<曲がり道>
一見ただの道ですね。これは意識して見通しを悪くした道。昔の屋敷絵図と一致します。遺構とは言えませんが、これも館だったなごりです。
この道は判断が難しいですが、やはり昔の屋敷の図から推定して、空堀とか堀切りのような場所だったような気がします。確証はないのですが、私はそう思って楽しみました。
■ 伊奈氏の関東進出 ■
伊奈氏はもともと信州伊那の出。地名から「伊奈」を名乗ったといわれています。伊奈忠基(ただもと)の代に松平広忠に仕え、三河国の小島城(おじまじょう)の城主となりました。松平広忠はすなわち徳川家康の父です。その家康が関東へ入国したとき、忠基の孫にあたる忠次(ただつぐ)が旧領に加えて武蔵国小室(現在の埼玉県伊奈町小室)・鴻巣領を与えられました。今回訪問の館跡は、伊奈忠次が築いたものです。
■ 幕府の基盤を造った一族 ■
伊奈一族は、関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献しました。利根川と荒川の改修は、たくさんの成果の中でも最大級の事業と言えます。戦や政治の舞台ではないのでやや地味な存在ですが、幕府の下支えをした功労者ということですね。訪問した館跡は伊奈氏の足跡のほんの一部に過ぎません。関東には、伊奈氏が整備した水路や、名を関する神社などが数多く残されています。そして何より、かつては北から南下して江戸湾に注いでいた利根川が、東へ流れて太平洋へ注いでいます。
■ 波乱万丈伝 ■忠次 (1550―1610)
伊奈備前守忠次。「ちゅうじ」ではなく「ただつぐ」です。通称は熊蔵(これも信州の地名由来のようです)。この方、関東へ移るまでは山あり谷ありの道のりでした。
三河国においては、父とともに一向一揆に加担して国を追われています。もっと分かり安く言うと、反家康に加担し、立場がなくなって出奔しています。のちに「長篠の戦い」へ自主的に参加して活躍。これが認められ、父とともに徳川家康の長男である信康の家臣となりました。ところが、諸々の言い掛かりで信康が切腹させられると、再び徳川家から出奔。ここはかなり複雑な事情がありそうなのですが、いろんな説があり、こんな拙ブログではなんとも説明ができず…。そもそも、徳川信康や母である築山殿に関することは諸説が多すぎで、私個人も整理できていません。まぁ今回は伊奈氏の話ですので、とにかく出て行かざるを得ない状況となり、また流浪の生活となりました。
普通ならもうチャンスは無さそうですが、本能寺の変の直後、家康が自国へ向かって決死の脱出をはかったいわゆる「伊賀越え」で、また貢献(家康のそばにいたということでしょうか?疑問多すぎす…)。この功により、また帰参が許されました。
服部半蔵もそうですが、この家康最大の危機で貢献できたことは大きいですよね。そののち、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、大軍をサポートする兵粮運搬や街道整備などを担い、更に信用を得ました。
■ 開花する伊奈氏 ■忠治 (1592―1653)
忠次の息子、伊奈忠治。「ちゅうじ」ではなく「ただはる」です。通称は半十郎。伊奈氏の地位を不動にしたのは忠治とまで言われています。次男でしたが、忠次の後を引き継いだ兄が34歳で亡くなってしまい、事業は忠治が引き継ぎました※。この時すでに本家から独立していたので、忠治の活動拠点は今回訪問の館ではなく、足立郡赤山(現在の埼玉県川口市)になります(赤山城址★として整備されています)。伊奈一族の大仕事として有名な利根川の事業は、忠治の力によるところが大きいと考えられています。
※忠治の兄・忠政は病弱とかではなく、例えば大坂冬の陣では外堀を埋め立てる時の普請奉行を務めたり、更に夏の陣では戦そのものにも参加し、伊奈家二代目として充分に活躍していました。忠政亡きあと、関東代官の役割は弟の忠治が引き継ぎ、伊奈家本家の家督(今回訪問の屋敷含む)は、まだ幼い兄の子が継ぐことになりました。
★訪問記はこちら→「伊奈一族の城跡」
<微高地の森>伊奈氏屋敷跡
緑で覆われた部分が館跡。周辺よりは微高地になっています。7月の炎天下、駅から日陰もなく、やや厳しい訪問となりました。
■つわものどもが夢の跡■
当ブログでは城跡や館跡を指して「つわものどもが夢の跡」と呼んでいますが、伊奈一族の場合、拠点とした場所より、関与した水路などを指す方が相応しいかもしれませんね。それらの多くは、今でも現役で頑張っています。
[例] 備前堀川
埼玉県久喜市付近の堀川。名前は備前守(びぜんのかみ=伊奈氏)が開削したことに由来します。この画像は稲穂が頭を垂れ始める頃に撮影したもの。実りの秋に、水路まで黄金に輝いているように映ります。
-------■ 伊奈氏屋敷 ■-------
別 名:伊奈陣屋・伊奈城
築城年:1590年(天正18)
築城者:伊奈忠次 (初代)
屋敷主:伊奈忠次・忠政
廃城年:(不明)
[ 埼玉県伊奈町大字小室 ]
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関東の治水で名を馳せた伊奈氏。その屋敷跡を訪ねました。場所は地名にその名が残る埼玉県伊奈町です。
■ 現 地 ■
場所は原市沼川の北岸微高地。規模は東西約350m南北約750m。土塁や堀の跡を見ることができます。一般に伊奈氏屋敷跡と呼ばれていますが、屋敷というより、ちょっとした城郭です。個人的には、まぁ館跡というくらいの表現がしっくりきます(よって以下は館跡ということで)。
<空堀>
こういった遺構もいわば伊奈氏の思惑のなごり。ここは虎口(出入口)付近の堀跡です。
<案内板>
説明によれば、調査の結果「障子堀」※も確認されたようです。こういう調査の時に見物できたら、相当楽しいでしょうね。
※説明はこちら→「城用語 障子堀」
<曲がり道>
一見ただの道ですね。これは意識して見通しを悪くした道。昔の屋敷絵図と一致します。遺構とは言えませんが、これも館だったなごりです。
この道は判断が難しいですが、やはり昔の屋敷の図から推定して、空堀とか堀切りのような場所だったような気がします。確証はないのですが、私はそう思って楽しみました。
■ 伊奈氏の関東進出 ■
伊奈氏はもともと信州伊那の出。地名から「伊奈」を名乗ったといわれています。伊奈忠基(ただもと)の代に松平広忠に仕え、三河国の小島城(おじまじょう)の城主となりました。松平広忠はすなわち徳川家康の父です。その家康が関東へ入国したとき、忠基の孫にあたる忠次(ただつぐ)が旧領に加えて武蔵国小室(現在の埼玉県伊奈町小室)・鴻巣領を与えられました。今回訪問の館跡は、伊奈忠次が築いたものです。
■ 幕府の基盤を造った一族 ■
伊奈一族は、関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献しました。利根川と荒川の改修は、たくさんの成果の中でも最大級の事業と言えます。戦や政治の舞台ではないのでやや地味な存在ですが、幕府の下支えをした功労者ということですね。訪問した館跡は伊奈氏の足跡のほんの一部に過ぎません。関東には、伊奈氏が整備した水路や、名を関する神社などが数多く残されています。そして何より、かつては北から南下して江戸湾に注いでいた利根川が、東へ流れて太平洋へ注いでいます。
■ 波乱万丈伝 ■忠次 (1550―1610)
伊奈備前守忠次。「ちゅうじ」ではなく「ただつぐ」です。通称は熊蔵(これも信州の地名由来のようです)。この方、関東へ移るまでは山あり谷ありの道のりでした。
三河国においては、父とともに一向一揆に加担して国を追われています。もっと分かり安く言うと、反家康に加担し、立場がなくなって出奔しています。のちに「長篠の戦い」へ自主的に参加して活躍。これが認められ、父とともに徳川家康の長男である信康の家臣となりました。ところが、諸々の言い掛かりで信康が切腹させられると、再び徳川家から出奔。ここはかなり複雑な事情がありそうなのですが、いろんな説があり、こんな拙ブログではなんとも説明ができず…。そもそも、徳川信康や母である築山殿に関することは諸説が多すぎで、私個人も整理できていません。まぁ今回は伊奈氏の話ですので、とにかく出て行かざるを得ない状況となり、また流浪の生活となりました。
普通ならもうチャンスは無さそうですが、本能寺の変の直後、家康が自国へ向かって決死の脱出をはかったいわゆる「伊賀越え」で、また貢献(家康のそばにいたということでしょうか?疑問多すぎす…)。この功により、また帰参が許されました。
服部半蔵もそうですが、この家康最大の危機で貢献できたことは大きいですよね。そののち、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、大軍をサポートする兵粮運搬や街道整備などを担い、更に信用を得ました。
■ 開花する伊奈氏 ■忠治 (1592―1653)
忠次の息子、伊奈忠治。「ちゅうじ」ではなく「ただはる」です。通称は半十郎。伊奈氏の地位を不動にしたのは忠治とまで言われています。次男でしたが、忠次の後を引き継いだ兄が34歳で亡くなってしまい、事業は忠治が引き継ぎました※。この時すでに本家から独立していたので、忠治の活動拠点は今回訪問の館ではなく、足立郡赤山(現在の埼玉県川口市)になります(赤山城址★として整備されています)。伊奈一族の大仕事として有名な利根川の事業は、忠治の力によるところが大きいと考えられています。
※忠治の兄・忠政は病弱とかではなく、例えば大坂冬の陣では外堀を埋め立てる時の普請奉行を務めたり、更に夏の陣では戦そのものにも参加し、伊奈家二代目として充分に活躍していました。忠政亡きあと、関東代官の役割は弟の忠治が引き継ぎ、伊奈家本家の家督(今回訪問の屋敷含む)は、まだ幼い兄の子が継ぐことになりました。
★訪問記はこちら→「伊奈一族の城跡」
<微高地の森>伊奈氏屋敷跡
緑で覆われた部分が館跡。周辺よりは微高地になっています。7月の炎天下、駅から日陰もなく、やや厳しい訪問となりました。
■つわものどもが夢の跡■
当ブログでは城跡や館跡を指して「つわものどもが夢の跡」と呼んでいますが、伊奈一族の場合、拠点とした場所より、関与した水路などを指す方が相応しいかもしれませんね。それらの多くは、今でも現役で頑張っています。
[例] 備前堀川
埼玉県久喜市付近の堀川。名前は備前守(びぜんのかみ=伊奈氏)が開削したことに由来します。この画像は稲穂が頭を垂れ始める頃に撮影したもの。実りの秋に、水路まで黄金に輝いているように映ります。
-------■ 伊奈氏屋敷 ■-------
別 名:伊奈陣屋・伊奈城
築城年:1590年(天正18)
築城者:伊奈忠次 (初代)
屋敷主:伊奈忠次・忠政
廃城年:(不明)
[ 埼玉県伊奈町大字小室 ]
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2017年07月17日
ひなたの丘城(さいたま市)真鳥城
坂東武士の鑑と称された鎌倉時代の武将・畠山重忠。埼京線沿線に、その家臣の城跡と伝わる場所があると聞き、炎天下のなか訪問しました。
■ 真鳥城 ■ まとりじょう
畠山重忠がこの付近を領した頃、家臣の真鳥日向守が統治のための拠点としたようです。城跡は南北に長い丘の上にあります。
<石碑>
[日向不動尊]桜区西堀10丁目
立派な石碑です。真鳥日向守城址。そのあとに「西堀氷川神社宮司 真取正二書」と刻まれています。つまりこの真鳥さんは、日向守の末裔の方ということですね。
この石碑付近に、城の遺構らしきものは見当たりません。ただ現地に行けば、そこが微高台地になっていることは実感できます。
<水路>
石碑のあった台地を東側へ下ってみました。これは真鳥城の堀跡?ではなく、純粋な水路です。ただ、昨日今日の水路ではありませんよ。
真鳥城は丘の上の城。その丘の東側は、かつて巨大な沼でした。鴻沼(または高沼)といいます。新田開発のため、この沼の水を抜くための排水路が造られました。これが現在の鴻沼川。同時に造られたのが、目の前の水路。沼の西側のヘリに沿って造られました。
<鴻沼川>
<現地説明文>
開拓事業を行った井沢弥惣兵衛(やそべえ)に関する説明。子供用なので私にも良く理解できました。
さてさて、これは江戸時代のお話です。真鳥日向守がこの地を治めたのは、平安時代末期から鎌倉時代初期と思われますで、その当時は沼。つまり、真鳥城は、西を巨大な沼(東西の幅で100〜500 m・長さは南北4 km)に守られた天然の要害だったわけですね。
<とある坂>
先ほどの水路は台地の東側。今度は台地の西側を見てみましょう。かなり急な坂道です。真夏にこんな心配をするのもヘンですが、雪でも降ったらそうとう難儀ですね。坂を下るとしばらく平地が続き、そのまたずっと先には荒川が流れています。つまりこの台地は東が先程の巨大沼、西は荒川低地。そういう場所です。
<村の鎮守>
[西堀氷川神社] 桜区西堀8丁目
石碑に記載のあった神社です。村の鎮守として、古くから地元の人たちに親しまれている神社です。
<説明文>
ここにも、真鳥城に関する説明があります。この説明だと、そうとう大きな城。大昔の「城」ですからね。もしかしたら、丘そのものが真鳥氏の砦のような感じだったのかもしれません。
<ひかわ幼稚園>
神社に隣接する幼稚園。西堀氷川神社もこの幼稚園も、真鳥さんと関わりがありそうです。近くで「真鳥さん」宅を見かけましたが、こちらは明らかに個人宅でしたので撮影は致しませんでした。
■ 日 向 ■
冒頭の石碑ですが、下の方に以下のような説明がありました。
『この地は真鳥日向守の城址と伝えられているが、時昭和63年8月の新住居表示制度施行に伴い、日向の地が消滅。この石碑はこれを惜しむ有志によって建立』
とのこと。『』内は抜粋してます。
地図を確認。石碑のあった場所も神社も、そして丘の西側の平地も「西堀」となっています。その東側は「鈴谷」、そして「中島」。「日向」という地名は確かにありません。昔の地図だと「日向」という地名があったということですね。ただ、地名ではありませんが、丘の上の交差点付近に「日向」の文字を見つけました。
<日向坂>
日向坂。そしてこの坂を登った交差点にも「日向」の文字がありました。
地名が消えてなお残る日向の文字。住居表示上は消えてしまいましたが、地元の人たちにはこの名で通じるのでしょう。つまり、消えてなんていません。
ところでこの「日向」の文字。普通は「ひゅうが」と読みますよね。まして真鳥日向守との関係を知ってしまった以上なおさらです。でもすべて「ひなた」と読んで良いようです。
ひなた坂 ひなたの交差点
経緯はわかりませんが、日向守に由来する「日向」が、いつしか「ひなた」と呼ばれるようになったのでしょう。
<ひなたのバス停>
城の遺構とは出会えませんでしたが、日向守のなごりを感じました。
ひなた
いい響きですね。
-----------■ 真鳥城 ■-----------
別 名:真鳥山城
築城者:真鳥日向守
(畠山重忠家臣)
築城年:鎌倉時代
城 主:真鳥日向守
廃 城:不明
[埼玉県さいたま市桜区西堀]
最寄駅は南与野駅。Googleマップで検索する場合は「日向不動尊」を目印にすると良いと思います。西堀氷川神社や日向の交差点は中浦和駅からの方が近いです。
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■ 真鳥城 ■ まとりじょう
畠山重忠がこの付近を領した頃、家臣の真鳥日向守が統治のための拠点としたようです。城跡は南北に長い丘の上にあります。
<石碑>
[日向不動尊]桜区西堀10丁目
立派な石碑です。真鳥日向守城址。そのあとに「西堀氷川神社宮司 真取正二書」と刻まれています。つまりこの真鳥さんは、日向守の末裔の方ということですね。
この石碑付近に、城の遺構らしきものは見当たりません。ただ現地に行けば、そこが微高台地になっていることは実感できます。
<水路>
石碑のあった台地を東側へ下ってみました。これは真鳥城の堀跡?ではなく、純粋な水路です。ただ、昨日今日の水路ではありませんよ。
真鳥城は丘の上の城。その丘の東側は、かつて巨大な沼でした。鴻沼(または高沼)といいます。新田開発のため、この沼の水を抜くための排水路が造られました。これが現在の鴻沼川。同時に造られたのが、目の前の水路。沼の西側のヘリに沿って造られました。
<鴻沼川>
<現地説明文>
開拓事業を行った井沢弥惣兵衛(やそべえ)に関する説明。子供用なので私にも良く理解できました。
さてさて、これは江戸時代のお話です。真鳥日向守がこの地を治めたのは、平安時代末期から鎌倉時代初期と思われますで、その当時は沼。つまり、真鳥城は、西を巨大な沼(東西の幅で100〜500 m・長さは南北4 km)に守られた天然の要害だったわけですね。
<とある坂>
先ほどの水路は台地の東側。今度は台地の西側を見てみましょう。かなり急な坂道です。真夏にこんな心配をするのもヘンですが、雪でも降ったらそうとう難儀ですね。坂を下るとしばらく平地が続き、そのまたずっと先には荒川が流れています。つまりこの台地は東が先程の巨大沼、西は荒川低地。そういう場所です。
<村の鎮守>
[西堀氷川神社] 桜区西堀8丁目
石碑に記載のあった神社です。村の鎮守として、古くから地元の人たちに親しまれている神社です。
<説明文>
ここにも、真鳥城に関する説明があります。この説明だと、そうとう大きな城。大昔の「城」ですからね。もしかしたら、丘そのものが真鳥氏の砦のような感じだったのかもしれません。
<ひかわ幼稚園>
神社に隣接する幼稚園。西堀氷川神社もこの幼稚園も、真鳥さんと関わりがありそうです。近くで「真鳥さん」宅を見かけましたが、こちらは明らかに個人宅でしたので撮影は致しませんでした。
■ 日 向 ■
冒頭の石碑ですが、下の方に以下のような説明がありました。
『この地は真鳥日向守の城址と伝えられているが、時昭和63年8月の新住居表示制度施行に伴い、日向の地が消滅。この石碑はこれを惜しむ有志によって建立』
とのこと。『』内は抜粋してます。
地図を確認。石碑のあった場所も神社も、そして丘の西側の平地も「西堀」となっています。その東側は「鈴谷」、そして「中島」。「日向」という地名は確かにありません。昔の地図だと「日向」という地名があったということですね。ただ、地名ではありませんが、丘の上の交差点付近に「日向」の文字を見つけました。
<日向坂>
日向坂。そしてこの坂を登った交差点にも「日向」の文字がありました。
地名が消えてなお残る日向の文字。住居表示上は消えてしまいましたが、地元の人たちにはこの名で通じるのでしょう。つまり、消えてなんていません。
ところでこの「日向」の文字。普通は「ひゅうが」と読みますよね。まして真鳥日向守との関係を知ってしまった以上なおさらです。でもすべて「ひなた」と読んで良いようです。
ひなた坂 ひなたの交差点
経緯はわかりませんが、日向守に由来する「日向」が、いつしか「ひなた」と呼ばれるようになったのでしょう。
<ひなたのバス停>
城の遺構とは出会えませんでしたが、日向守のなごりを感じました。
ひなた
いい響きですね。
-----------■ 真鳥城 ■-----------
別 名:真鳥山城
築城者:真鳥日向守
(畠山重忠家臣)
築城年:鎌倉時代
城 主:真鳥日向守
廃 城:不明
[埼玉県さいたま市桜区西堀]
最寄駅は南与野駅。Googleマップで検索する場合は「日向不動尊」を目印にすると良いと思います。西堀氷川神社や日向の交差点は中浦和駅からの方が近いです。
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タグ:埼玉
浦和白幡沼と山城(さいたま市)白幡本宿遺跡
<白幡沼>
[さいたま市南区白幡]1丁目
旧浦和市の白幡沼です。この沼の東側の丘から、戦国時代の堀や建物跡が発掘されました。詳細不明ながら、城跡であったと推定されています。場所はJR埼京線の武蔵浦和駅から徒歩圏内。その周辺を散策してみました。
■探索開始■
<丘の上>
城跡と推定されている丘の頂上は、現在公立中学校(白幡中学校)となっています。当時の主郭と思って良いのでしょうか。発掘調査はこの学校の敷地内とのこと。関係者ではないので、これ以上は進めませんが、特に石碑とかがあるわけでもなさそうです。
地形は舌状台地、つまり台地が部分的に突き出た状態。そして麓には沼。中世の山城で良くみかける環境ですね。
<麓探索>
水路になった堀の跡?普通に水路と思ったほうが良さそうですね。残念。
山城は西側には冒頭でご紹介した白幡沼、東側は谷となっています。現在は宅地化されて分りにくいですが、周辺の低地は湿地帯だったと推定できます。何も発見できませんが、地形から天然の要害の要件を満たしていることは実感できました。
■地名の由来■
平将門討伐途中の藤原秀郷がこの地に宿陣し、八幡を歓請し戦勝を祈ったという言い伝えがあります。このとき陣中に白旗を立てたことから、この付近は「白幡村」と呼ばれるようになりました(現在:さいたま市南区白幡)。藤原秀郷との関係を疑問視する声もありますが、異説でも地名が「白い旗を立てた」ことに由来する点は否定していません。
<麓探索2>
医王寺(いおうじ)の大きな鐘楼門。門の二階部分に鐘を吊るす堂があるのですね。あまり見ないような気がします。
境内には庚申塔や石仏が多数。歴史を感じます。ただ「城」と関わるものはなさそうですね。
<沼付近>
宅地化されなければ、周辺はこんな雰囲気だったのかも知れません。かつて湿地の多かった浦和らしい光景です。
■結論はありませんが・・■
白幡の名が藤原秀郷に由来するのなら、城跡も関係あるのではないかと思ってしまいますが、どうも結びつける根拠がないようです。この地から北へ少し行ったところには畠山重忠の家臣だった真鳥氏の城跡があり、東へ数百メートルのところには、岩槻太田氏家臣の宇田川氏の館跡があります。それらの勢力と、この地にあった城の関係はどうなんでしょうかね。素人の勝手な想像だけが膨らみます。
白幡本宿遺跡、専門家の皆さんの新たな発見が楽しみです。
■訪問:白幡中学校付近
[埼玉県さいたま市南区白幡]
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[さいたま市南区白幡]1丁目
旧浦和市の白幡沼です。この沼の東側の丘から、戦国時代の堀や建物跡が発掘されました。詳細不明ながら、城跡であったと推定されています。場所はJR埼京線の武蔵浦和駅から徒歩圏内。その周辺を散策してみました。
■探索開始■
<丘の上>
城跡と推定されている丘の頂上は、現在公立中学校(白幡中学校)となっています。当時の主郭と思って良いのでしょうか。発掘調査はこの学校の敷地内とのこと。関係者ではないので、これ以上は進めませんが、特に石碑とかがあるわけでもなさそうです。
地形は舌状台地、つまり台地が部分的に突き出た状態。そして麓には沼。中世の山城で良くみかける環境ですね。
<麓探索>
水路になった堀の跡?普通に水路と思ったほうが良さそうですね。残念。
山城は西側には冒頭でご紹介した白幡沼、東側は谷となっています。現在は宅地化されて分りにくいですが、周辺の低地は湿地帯だったと推定できます。何も発見できませんが、地形から天然の要害の要件を満たしていることは実感できました。
■地名の由来■
平将門討伐途中の藤原秀郷がこの地に宿陣し、八幡を歓請し戦勝を祈ったという言い伝えがあります。このとき陣中に白旗を立てたことから、この付近は「白幡村」と呼ばれるようになりました(現在:さいたま市南区白幡)。藤原秀郷との関係を疑問視する声もありますが、異説でも地名が「白い旗を立てた」ことに由来する点は否定していません。
<麓探索2>
医王寺(いおうじ)の大きな鐘楼門。門の二階部分に鐘を吊るす堂があるのですね。あまり見ないような気がします。
境内には庚申塔や石仏が多数。歴史を感じます。ただ「城」と関わるものはなさそうですね。
<沼付近>
宅地化されなければ、周辺はこんな雰囲気だったのかも知れません。かつて湿地の多かった浦和らしい光景です。
■結論はありませんが・・■
白幡の名が藤原秀郷に由来するのなら、城跡も関係あるのではないかと思ってしまいますが、どうも結びつける根拠がないようです。この地から北へ少し行ったところには畠山重忠の家臣だった真鳥氏の城跡があり、東へ数百メートルのところには、岩槻太田氏家臣の宇田川氏の館跡があります。それらの勢力と、この地にあった城の関係はどうなんでしょうかね。素人の勝手な想像だけが膨らみます。
白幡本宿遺跡、専門家の皆さんの新たな発見が楽しみです。
■訪問:白幡中学校付近
[埼玉県さいたま市南区白幡]
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浦和白幡の宇田川氏館(さいたま市)弾正屋敷跡
岩槻城の太田氏に仕えていた宇田川弾正の館跡と伝わる場所を訪ねました。最寄駅はJR武蔵浦和駅。国道17号沿いの白幡観音堂です。
<弾正屋敷跡>
ここ白幡観音堂は足立坂東三十三ヶ所霊場の一つ。歴史のある場所です。
ただ残念ですが、館跡としての遺構はありませんね。画像手前は沿暗渠化された水路となっていますが、堀だったかどうかは不明。というか、たぶん違うと思いますね。この付近、今ではその面影はありませんが、昔は湿地帯でした。館跡は僅かながら周辺より高い位置にありました。
<湿地のなごり>
館跡から少し北へ行ったところに沼があります。湿地帯のなごり。白幡沼です。古くからある沼で、巨人伝説によりかつては「拳ヶ池」又は「こぶし沼」と呼ばれていました。「雨で足を滑らせた巨人が、拳をついてできた池」だそうです。
館跡の遺構は確認できませんでしたが、いい雰囲気の場所と出会えました。
■訪問:宇田川氏館
( 白幡観音堂 )
[埼玉県さいたま市南区白幡]
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<弾正屋敷跡>
ここ白幡観音堂は足立坂東三十三ヶ所霊場の一つ。歴史のある場所です。
ただ残念ですが、館跡としての遺構はありませんね。画像手前は沿暗渠化された水路となっていますが、堀だったかどうかは不明。というか、たぶん違うと思いますね。この付近、今ではその面影はありませんが、昔は湿地帯でした。館跡は僅かながら周辺より高い位置にありました。
<湿地のなごり>
館跡から少し北へ行ったところに沼があります。湿地帯のなごり。白幡沼です。古くからある沼で、巨人伝説によりかつては「拳ヶ池」又は「こぶし沼」と呼ばれていました。「雨で足を滑らせた巨人が、拳をついてできた池」だそうです。
館跡の遺構は確認できませんでしたが、いい雰囲気の場所と出会えました。
■訪問:宇田川氏館
( 白幡観音堂 )
[埼玉県さいたま市南区白幡]
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タグ:埼玉
2017年07月09日
二代目古河公方 夢破れし館跡(足利政氏館跡)
足利政氏によって築かれたと伝わる館跡を訪ねました。現在は甘棠院(かんとういん)という寺院の境内となっています。
<空堀の跡>
スケールも雰囲気もにいい感じです。市街地化された場所で、こういう遺構と出会う(そして一人でニヤっと笑う)。城跡巡りの基本に戻ったような気分でした。やはり大きな城とは別の魅力がありますね。
■足利政氏館■あしかがまさうじ
県指定史跡。別名「久喜の館」。詳細は明らかではないものの、足利政氏によって築かれたと伝えられています。足利政氏は足利成氏の嫡男。そして二代目古河公方です。室町幕府第8代将軍の足利義政より偏諱を賜り「政氏」と名乗りました。
■埼玉県久喜市■なんで古河市じゃないの
古河公方、つまり関東の足利氏。武家の棟梁ですね。その歴史は、五代目鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が、関東管領山内上杉氏と抗争ののち、本拠地を鎌倉から古河(現在の茨城県古河市)に移して初代古河公方となったことに始まります。政氏はその嫡子。1489年に父・成氏から家督を譲られました。
立派な地位のお方。では、そのやんごとなきお方のお住まいがなぜこの場所なのでしょう・・・
■経緯■ちょっとラフですが
太田道灌亡きあとの関東では、勢力バランスが崩れて混迷の時期が続きました。二代目足利政氏は古河公方の権威の維持に努めますが、ご本人の身内ですらまとめられず、息子と対立した結果、引退を余儀なくされました。ただの親子喧嘩ならまぁいいですが、双方に支持者がいたわけですから、それはそれは壮大な親子喧嘩。要するに、親子以外の人達の思惑が混じり合った権力争いです。あげくの果てに、二代目古河公方は息子に敗れました。関東における古河公方の権威どころか、親の権威も維持できなかったことになります。
こんなことをしている間に、関東地方では小田原の北条氏が着々と勢力を拡大していきます。後の関東覇者ですね。小田原北条氏は関東で権威のあった古河公方に接近し、血縁関係を含めてその内部にまで入り込み、やがて体制を崩壊させました。古河公方は結果としては130年続きましたが、第五代目で絶えました。
(成氏⇒政氏⇒高基⇒晴氏⇒義氏)
<甘棠院の惣門>
入口です。甘棠院は鎌倉にある臨済宗円覚寺派の寺院。風格が漂います。
<山門>
更に奥の門。この先に更に遺構があるらしいのですが、入れませんでした。しばらく塀の隙間から中の様子をうかがっていましたが、非常に厳格な雰囲気のある場所のため、撮影は遠慮しました。
<空堀>
空堀です。ただ久喜市内も、大昔は今では想像できないような湿地帯だったと思われますので、周辺の豊富な水を引き込んでいても何ら不思議ではありません。まぁそういうのを勝手に想像するのも城跡巡りの楽しみです。境内を囲むように、東側を除く三方に堀跡があります。
■夢破れて隠居■
ここ甘棠院は、二代目古河公方の政氏が、晩年を過ごした場所ということになります。現地の説明文にも記載がありましたが、政氏は古河城を出て下野国(栃木県)の小山氏を頼り、小山城に滞在していた期間があったようです。つまり、落ち延びながらも諦めず、反撃の機会を待っていたのでしょう。しかし小山氏も息子の高基を支持するようになり、結局は隠居を余儀なくされ、この「久喜の館」へ移りました。館は政氏が築かせたという説のほかに、もともとあった豪族の館を政氏が寺院に変えたという説もあります。いずれにせよ、二代目古河公方はこの地で生涯を閉じ、墓もこの地に残ります。
つわものどもが夢の跡
名門足利氏の家紋が刻まれていました
■訪問:足利政氏館跡
[埼玉県久喜市本町]7丁目
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<空堀の跡>
スケールも雰囲気もにいい感じです。市街地化された場所で、こういう遺構と出会う(そして一人でニヤっと笑う)。城跡巡りの基本に戻ったような気分でした。やはり大きな城とは別の魅力がありますね。
■足利政氏館■あしかがまさうじ
県指定史跡。別名「久喜の館」。詳細は明らかではないものの、足利政氏によって築かれたと伝えられています。足利政氏は足利成氏の嫡男。そして二代目古河公方です。室町幕府第8代将軍の足利義政より偏諱を賜り「政氏」と名乗りました。
■埼玉県久喜市■なんで古河市じゃないの
古河公方、つまり関東の足利氏。武家の棟梁ですね。その歴史は、五代目鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が、関東管領山内上杉氏と抗争ののち、本拠地を鎌倉から古河(現在の茨城県古河市)に移して初代古河公方となったことに始まります。政氏はその嫡子。1489年に父・成氏から家督を譲られました。
立派な地位のお方。では、そのやんごとなきお方のお住まいがなぜこの場所なのでしょう・・・
■経緯■ちょっとラフですが
太田道灌亡きあとの関東では、勢力バランスが崩れて混迷の時期が続きました。二代目足利政氏は古河公方の権威の維持に努めますが、ご本人の身内ですらまとめられず、息子と対立した結果、引退を余儀なくされました。ただの親子喧嘩ならまぁいいですが、双方に支持者がいたわけですから、それはそれは壮大な親子喧嘩。要するに、親子以外の人達の思惑が混じり合った権力争いです。あげくの果てに、二代目古河公方は息子に敗れました。関東における古河公方の権威どころか、親の権威も維持できなかったことになります。
こんなことをしている間に、関東地方では小田原の北条氏が着々と勢力を拡大していきます。後の関東覇者ですね。小田原北条氏は関東で権威のあった古河公方に接近し、血縁関係を含めてその内部にまで入り込み、やがて体制を崩壊させました。古河公方は結果としては130年続きましたが、第五代目で絶えました。
(成氏⇒政氏⇒高基⇒晴氏⇒義氏)
<甘棠院の惣門>
入口です。甘棠院は鎌倉にある臨済宗円覚寺派の寺院。風格が漂います。
<山門>
更に奥の門。この先に更に遺構があるらしいのですが、入れませんでした。しばらく塀の隙間から中の様子をうかがっていましたが、非常に厳格な雰囲気のある場所のため、撮影は遠慮しました。
<空堀>
空堀です。ただ久喜市内も、大昔は今では想像できないような湿地帯だったと思われますので、周辺の豊富な水を引き込んでいても何ら不思議ではありません。まぁそういうのを勝手に想像するのも城跡巡りの楽しみです。境内を囲むように、東側を除く三方に堀跡があります。
■夢破れて隠居■
ここ甘棠院は、二代目古河公方の政氏が、晩年を過ごした場所ということになります。現地の説明文にも記載がありましたが、政氏は古河城を出て下野国(栃木県)の小山氏を頼り、小山城に滞在していた期間があったようです。つまり、落ち延びながらも諦めず、反撃の機会を待っていたのでしょう。しかし小山氏も息子の高基を支持するようになり、結局は隠居を余儀なくされ、この「久喜の館」へ移りました。館は政氏が築かせたという説のほかに、もともとあった豪族の館を政氏が寺院に変えたという説もあります。いずれにせよ、二代目古河公方はこの地で生涯を閉じ、墓もこの地に残ります。
つわものどもが夢の跡
名門足利氏の家紋が刻まれていました
■訪問:足利政氏館跡
[埼玉県久喜市本町]7丁目
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タグ:埼玉
2017年05月18日
中世の城を実感できる公園(寄居町)鉢形城公園
戦国時代の関東の名城としては、かなり遺構が良好な寄居町の鉢形城跡。維持・管理に感謝したくなる城址公園です。
<鉢形城公園>はちがたじょう
公園内の休憩所にて。私の訪問した日は平日だったこともありほぼ貸切状態でした。駐車場、トイレ、そして歴史館等、施設も充実しています。かといって、過剰な復元などはない自然な感じがいいですね。
■ 城へのアクセス ■
駅から徒歩で25分前後。寄居駅からバス利用の場合は和紙の里行き「鉢形城歴史館前」下車、そこから徒歩約10分程度。車利用の場合は関越自動車・花園ICより約20分。公園は無料駐車場あり(9時〜17時まで)。
<公園内>
広い敷地に沢山の曲輪があり、それぞれに堀や土塁が良好な状態で残っています。芝生が張られ良く整備されており、門や石積み、井戸といった復元も丁寧で、公園内の説明も丁寧です。
城の完成品を眺めるというより
昔あった城を感じる
そんな感じの美しい城址公園です
■ 鉢形城とは ■
鉢形城は戦国時代の代表的な城郭であり、城跡は日本100名城にも選ばれています。小田原北条氏の重要な拠点であったため、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、前田利家や上杉景勝が率いる3万5千の軍勢に包囲されます。約1ケ月の籠城後に開城し、その後廃城となりました。
<城内>
同行した友人には「牧場?」に見えたようです。遺構が気になる城マニアにはそう見えませんが、そう見える方が普通かもしれませんね。
<深沢川>
城内の渓谷を散歩するだけでも有意義です。
鉢形城は北条氏邦の時代に拡張されました。氏邦は、この大きな城を拠点として、秩父地方の支城の整備にも力を入れました。秩父にはもともと関東管領上杉氏が支配するころから多数の城があり、北条氏邦はその再整備に力を入れたと推定されています。ちなみに、秩父名産の「秩父絹」は、北条氏邦が養蚕を奨励したことが始まりと言われています。戦だけでなく、その後の産業にも影響を与えたのですね。
名将が居城とした戦国時代の城跡です。そのなごりを存分に感じられる城址公園です。
-------------■ 鉢形城公園 ■-------------
所在地:埼玉県大里郡寄居町
遺 構:土塁・空堀・石垣
備 考:国指定史跡・日本100名城
公 園:駐車場・休憩所・トイレ
施 設:歴史館(ここだけ有料)
交 通:寄居駅 徒歩25分
(車=花園ICより車20分)
------------------------------------------------
<周辺画像>
公園の敷地ギリギリのところを電車が通過します。
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<鉢形城公園>はちがたじょう
公園内の休憩所にて。私の訪問した日は平日だったこともありほぼ貸切状態でした。駐車場、トイレ、そして歴史館等、施設も充実しています。かといって、過剰な復元などはない自然な感じがいいですね。
■ 城へのアクセス ■
駅から徒歩で25分前後。寄居駅からバス利用の場合は和紙の里行き「鉢形城歴史館前」下車、そこから徒歩約10分程度。車利用の場合は関越自動車・花園ICより約20分。公園は無料駐車場あり(9時〜17時まで)。
<公園内>
広い敷地に沢山の曲輪があり、それぞれに堀や土塁が良好な状態で残っています。芝生が張られ良く整備されており、門や石積み、井戸といった復元も丁寧で、公園内の説明も丁寧です。
城の完成品を眺めるというより
昔あった城を感じる
そんな感じの美しい城址公園です
■ 鉢形城とは ■
鉢形城は戦国時代の代表的な城郭であり、城跡は日本100名城にも選ばれています。小田原北条氏の重要な拠点であったため、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、前田利家や上杉景勝が率いる3万5千の軍勢に包囲されます。約1ケ月の籠城後に開城し、その後廃城となりました。
<城内>
同行した友人には「牧場?」に見えたようです。遺構が気になる城マニアにはそう見えませんが、そう見える方が普通かもしれませんね。
<深沢川>
城内の渓谷を散歩するだけでも有意義です。
鉢形城は北条氏邦の時代に拡張されました。氏邦は、この大きな城を拠点として、秩父地方の支城の整備にも力を入れました。秩父にはもともと関東管領上杉氏が支配するころから多数の城があり、北条氏邦はその再整備に力を入れたと推定されています。ちなみに、秩父名産の「秩父絹」は、北条氏邦が養蚕を奨励したことが始まりと言われています。戦だけでなく、その後の産業にも影響を与えたのですね。
名将が居城とした戦国時代の城跡です。そのなごりを存分に感じられる城址公園です。
-------------■ 鉢形城公園 ■-------------
所在地:埼玉県大里郡寄居町
遺 構:土塁・空堀・石垣
備 考:国指定史跡・日本100名城
公 園:駐車場・休憩所・トイレ
施 設:歴史館(ここだけ有料)
交 通:寄居駅 徒歩25分
(車=花園ICより車20分)
------------------------------------------------
<周辺画像>
公園の敷地ギリギリのところを電車が通過します。
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2017年05月16日
北条氏の城と庭園( 鉢形城)秩父曲輪
北条氏邦の居城・鉢形城
今回はちょっと戦闘とは直接関係ない部分を。大手から城内へ入ると、左手(西側)が三の丸(三の曲輪)。そしてその奥には、復元された立派な門が見えます。
<四脚門と土塀>
しっかりとした発掘調査の結果(柱穴など)から、想定して復元されています。向かって左手の土塁とセットの構造ですね。地道な調査と研究の成果。ありがたいことです。
次に門の中を
<四阿>あずまや
門の中は秩父曲輪と呼ばれるまったく別の区画。ここにはかつて庭園が造られました。画像は建物跡に復元された四阿です。
<石積>
石積みも復元されています。全長約100m、高さは4mくらい。
<土塁>
石積は土塁の斜面。土塁の向う側は深い堀となっています。庭園ですがあくまで城の曲輪です。
<調査の様子>
現地で発掘調査中の写真を見ることができました。調査の結果、石積内側には河原石を3〜4段の階段状に積み上げていることが分っています。技巧などの側面から評価して、いわゆる「石垣」とは別のものです。
<池跡>
枯山水庭園ではなく、ホントに池を造ったんですね。勿論、当時はもっとしっかり水がはってあったことでしょう。この池を囲むように建物が配置されていたようです。優雅ですね。現地の説明にもありますが、どうやら凄く大掛かりな庭園だったようです。
こういう「戦闘」とは直接関係しない空間を城内に造る。当時の関東において、北条氏の文化は最先端だったのかも知れません。ここからは茶道具なども出土しています。
小田原北条氏の城で、城内に池をもつ庭園が発見される例は他にもあります。まずは本拠の小田原城。江戸時代には幕府直轄の米蔵が並んでいた区画から、北条氏時代の庭園跡が発見されました。支城だと、ここ鉢形城同様に重要拠点だった八王子城。やはり庭園を備えており、池跡も確認されています。
城内に防衛とは無関係の施設を設けるのは、何も北条氏に限ったことではありません。ただ、もともと城は防衛施設。戦の時だけ立て籠もる中世初期の城においては、こんな光景はあり得なかったのではないでしょうか。
時代とともに城の形が変化するように、そのあり方も変わります。
難攻不落と呼ばれた小田原城を筆頭に、有力な支城も急な傾斜地に築城されるなど、北条氏の城には高い技術の裏付けを感じます。財力だけでなく、具体的な建築・土木の技術、そして庭園に代表されるような文化のレベル。時代の流れと言ってしまえばそれまてでですが、それを関東でいち早く導入していた小田原北条氏。その城跡に、いかにも関東の覇者だったなこりを感じます。
<つわものどもが夢の跡>
これは石組排水溝の復元です。城内の水路整備も完璧。表の華やかさだけでなく、こういう地味なところもしっかりとやる。水路を見ると、具体的な人の営みを感じます。
■訪問:鉢形城 秩父曲輪
[埼玉県大里郡寄居町大字鉢形]
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今回はちょっと戦闘とは直接関係ない部分を。大手から城内へ入ると、左手(西側)が三の丸(三の曲輪)。そしてその奥には、復元された立派な門が見えます。
<四脚門と土塀>
しっかりとした発掘調査の結果(柱穴など)から、想定して復元されています。向かって左手の土塁とセットの構造ですね。地道な調査と研究の成果。ありがたいことです。
次に門の中を
<四阿>あずまや
門の中は秩父曲輪と呼ばれるまったく別の区画。ここにはかつて庭園が造られました。画像は建物跡に復元された四阿です。
<石積>
石積みも復元されています。全長約100m、高さは4mくらい。
<土塁>
石積は土塁の斜面。土塁の向う側は深い堀となっています。庭園ですがあくまで城の曲輪です。
<調査の様子>
現地で発掘調査中の写真を見ることができました。調査の結果、石積内側には河原石を3〜4段の階段状に積み上げていることが分っています。技巧などの側面から評価して、いわゆる「石垣」とは別のものです。
<池跡>
枯山水庭園ではなく、ホントに池を造ったんですね。勿論、当時はもっとしっかり水がはってあったことでしょう。この池を囲むように建物が配置されていたようです。優雅ですね。現地の説明にもありますが、どうやら凄く大掛かりな庭園だったようです。
こういう「戦闘」とは直接関係しない空間を城内に造る。当時の関東において、北条氏の文化は最先端だったのかも知れません。ここからは茶道具なども出土しています。
小田原北条氏の城で、城内に池をもつ庭園が発見される例は他にもあります。まずは本拠の小田原城。江戸時代には幕府直轄の米蔵が並んでいた区画から、北条氏時代の庭園跡が発見されました。支城だと、ここ鉢形城同様に重要拠点だった八王子城。やはり庭園を備えており、池跡も確認されています。
城内に防衛とは無関係の施設を設けるのは、何も北条氏に限ったことではありません。ただ、もともと城は防衛施設。戦の時だけ立て籠もる中世初期の城においては、こんな光景はあり得なかったのではないでしょうか。
時代とともに城の形が変化するように、そのあり方も変わります。
難攻不落と呼ばれた小田原城を筆頭に、有力な支城も急な傾斜地に築城されるなど、北条氏の城には高い技術の裏付けを感じます。財力だけでなく、具体的な建築・土木の技術、そして庭園に代表されるような文化のレベル。時代の流れと言ってしまえばそれまてでですが、それを関東でいち早く導入していた小田原北条氏。その城跡に、いかにも関東の覇者だったなこりを感じます。
<つわものどもが夢の跡>
これは石組排水溝の復元です。城内の水路整備も完璧。表の華やかさだけでなく、こういう地味なところもしっかりとやる。水路を見ると、具体的な人の営みを感じます。
■訪問:鉢形城 秩父曲輪
[埼玉県大里郡寄居町大字鉢形]
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