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2024年11月05日

諏訪の大木(行田市)忍城諏訪曲輪のなごり

<諏訪神社>
Sacred-Tree-Suwa-Shrine.JPG
ここは忍城跡のお隣の諏訪神社境内。諏訪曲輪と呼ばれたかつての忍城の一郭です。神域に足を踏み入れると、ひときわ杉の木が目にとびこんできます。

<大木>
Sacredtree-Suwashrine.JPG
天を衝く大木…

<説明板>
Suwanotaboku-Setsumei.JPG
杉の木に関する説明板が設置されています。廃城となる忍城の話も含め詳細が記されていますが、少し長いので、要約してご紹介させて頂きます。

まず、忍城は江戸に近く徳川家と親しい関係を保っていたこともあり、新政府から徹底した取り壊しが命じられたようです。ただ、城内の建物を取り壊すにも費用が足りず、入札という形式で払い下げ、費用に充てました。旧忍城の物件であることを名乗る門や蔵が存在するのは、そういう背景があったからとのこと。そして、建物のみならず、樹木までも伐採されることになり、大木も並木もほとんど切りとられてしまいました

諏訪曲輪の木も次々と切りとられ、伐採は諏訪神社の拝殿近くに及びましたが、ここで止まりました。以下は原文をそのまま転記させて頂きます(『』内は原文)。
『突然に杉の木から、生血のような赤いものが流れだした。「ご神木から生血が流れた、切る人にバチがあたる」と、人夫だれひとり手をだす者がなくなってしまった。そのために諏訪の森だけは、ご神木ということで、現在まで残ったのである。』

このお話をどのように受け止めるかは、その人しだいです。ただ、神の領域で人が触れてはならないものを察する気持ちは、現代人でも想像が及ぶ範囲ではないでしょうか。

<忍諏訪神社鳥居>おしすわじんじゃ
Gyoda-Suwa-Shrine-Gate.JPG
この地を支配した忍一族が創建したことに始まる神社です。

<忍諏訪神社拝殿>
Gyoda-Suwa-Shrine.JPG
成田氏が築いた忍城よりも古い神社です。

<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
Oshijo-Chyokazu-Oshi-Suwa-Shrine.JPG
境内で撮影した忍城の鳥瞰図です。諏訪曲輪は本丸の北側に位置する曲輪です。成田氏が去ったあと、忍城には徳川家とゆかりのある大名が代々城主として入り、江戸時代を通して城として機能し続けました。明治となり、忍県の県庁が置かれたもののその後に廃城。忍城は徹底的に破壊されました

<行田市郷土博物館の鐘楼>
Oshicastle-Belltower.JPG
いまはかつての本丸付近が行田市郷土博物館として整備されています。

<諏訪の大木>
Sacred-Tree-Suwa-Shrine.JPG
郷土博物館お隣の諏訪神社の大木は、そのまま忍城諏訪曲輪のなごりということになります。

■訪問:忍諏訪神社
[埼玉県行田市本丸]12-5


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■参考・引用
・現地説明板
「諏訪の大木」
・猫の足あと
>行田市の神社>忍諏訪神社

https://tesshow.jp/saitama/gyoda/shrine_honmaru_suwa.html
タグ:埼玉
posted by Isuke at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年10月26日

忍城の城門のなごり(行田市)大手門外升形城門跡

忍城跡を訪問する前に、城門跡とされるところに足を伸ばしてみました。
<升形城門跡>ますがたじょうもん
Stonemonument-Masugata-Castlegate-Oshi.JPG
石碑には「忍城大手門外 升形城門跡」と記されています。そのまま解釈すると、ここには忍城の大手門の外側に設けられた枡形門があったということになります。現在の忍城跡まで少し距離がありますが、かつての城の範囲はここまで達していたということですね。

<市内の案内板>
informationboard-gyoda.JPG
別な場所で撮影した行田市教育委員会さんの説明板です。左側は現在と過去の様子が比較できる地図になっています。とても分かり安いので、一部を拡大させて頂きます。

<地図拡大>
Map-Oshi-Castle.JPG
画像の中央に大手門が記されています(〚18〛)。大手門の前には水堀があり、更に外側(画像右側)が今回訪問の「大手門外升形城門」ということのようです(〚17〛)。

それにしても、こうして地図をながめてみると、ホントに水辺の多い城ですね。広い沼地と自然堤防を利用して築かれた忍城ですから、水に守られていたことはいうまでもありません。ただ、出入り口が無防備ではまったく意味がなくなります。大手門も厳重な管理下にあったことが推測されますが、更に外側に、今回訪問の「大手門外升形城門」があったということのようです。

<直角>
Masugatamon-ruins-Oshijo.JPG
枡形は方形の区画を意味しています。この直角な曲がり角はそのなごりか?などと思いつつも、石碑の裏側の駐車場も綺麗な方形になっており、結局のところ、城門のために設けられた枡形の正確な位置まではわかりませんでした。

忍城跡周辺はすっかり市街地化されていますが、街なかのあちらこちらに「〇〇跡」と記された行田市教育委員会さんの石碑が設置されています。古地図を参考に、それらを訪ね歩くのも面白そうですね。ただこの日の私にはそこまでの余力がなかったので、たまたま近くを通った石碑だけをご紹介させて頂きました。

<城門のなごり>
Masugatamonruins-Oshi-Castle.JPG
姿なくとも城門のなごり

■訪問:
忍城大手門外升形城門跡
[埼玉県行田市忍]2丁目


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■参考・引用
・案内板「忍城史跡碑」
(行田市教育委員会)
タグ:埼玉
posted by Isuke at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年10月20日

行田兵衛尉館のなごり(行田市)

行田市を散策中にこんな石碑を見かけました。
<行田兵衛尉館跡>
Yakata-ato-Stone-Monument.JPG
行田兵衛尉?

行田市教育委員会と刻まれていることからきっと歴史的に意味深い館跡なのだろうと思い、裏側を見ると説明がなされていました。ちょっと読みにくいところもありましたが、大筋では、成田氏六代助広の三男・助忠が源義経の出陣(一の谷合戦)に従軍し、その功によって行田の地を与えられ、ここに館を構えて行田氏を名乗ったということのようです。

といっても…

<現地>
NTT-Gyoda.JPG
現地はすっかり市街地化されており、遺構があるわけでもありません。石碑の背後のビルはNTT東日本。その敷地の片隅に、ひっそりと石碑が佇んでいるだけです。

まぁ、ここは成田氏の居城として知られる忍城跡のすぐ近く。館の主である行田兵衛尉が、忍一族を滅ぼしてこの地を支配した地元豪族・成田氏の庶流であることが分かり、何となく納得して現地を去りました。

■訪問:行田兵衛尉館跡
[埼玉県行田市忍]2-17-18 


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■参考:
行田兵衛尉館跡碑説明文
(行田市教育委員会)

タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年05月27日

代山城のなごり(さいたま市)

<代山城>だいやまじょう
Daiyamajo-Castle.JPG
さいたま市の代山城跡です。詳細は不明ながら、室町時代に城が築かれたと推定されています。城の主は岩槻太田氏の家臣・小久保縫殿助(るいどののすけ)。豊臣秀吉による小田原征伐の際、岩槻城が大軍によって攻め落とされると、小久保氏も滅んだと考えられています。

<代山城遠望>
Daiyama-jo.JPG
あの小高い雑木林が城跡とされています。到着早々、民家の右手に盛土のようなものが見えましたが、明らかに私有地。遠くから眺めるだけにしました。

<低地に面した丘>
Daiyama-Hill.JPG
私の到着地点は低地に面した丘。ここから見える低い土地は、かつては湿地、あるいは深田だったのでしょう。城跡とされる雑木林には入れそうにないので、ここから丘を下りながら散策することにしました。

<地形>
Daiyamajo-search.JPG
明らかに土が盛り上がっていますが、遺構というより、シンプルに山の尾根と考える方が妥当ですかね?

<藪の中>
Daiyamajo-Bush.JPG
あれは土塁ではないか?と思って足を止めましたが、ここも私有地の可能性があることから深入りは断念。道から撮影しました。仮に土塁だとしても、城全体のどの部分なのか、ちょっと想像が及びません。

とりあえず
それっぽいものを探して求めて歩き続けました。

<土の凹凸>
Daiyamajo-Earthwork.JPG
延々と続く藪の一部が、道路に向かって開かれていたので、望遠で撮影しました。土の盛り上がりの向こう側は明らかに低くなっています。今度こそ土塁?根拠は無く、城跡らしい規則性を実感することもありません。ただ、せっかく来たので、私は勝手に土塁と受け止めることにしました。

城跡から少し離れて…

<裏鬼門>
Daiyamajo-Itsukushimajinja-Torii.JPG
Daiyamajo-Itsukushimajinja.JPG
こちらは城の裏鬼門に勧請されたと伝わる厳島神社です。鳥居と拝殿の間には水路が通っていました。

<古道>
Daiyama-Old-Road-Near-Castle.JPG
城の東側のゆるやかな坂で撮影しました。古くからの道と思われます。左手が代山城跡。右側には庚申塔が見えます。

<庚申塔>
Daiyama-Koshin-Towers-Near-Castle.JPG
右は青面金剛立像ですね。足元には三猿。かなり古いもののようです。左は文字だけの庚申塔。上部は梵字ですね。

現地と周辺の探索は以上です。

<代山>
Daiyama-search.JPG
代山城跡とされる場所は、2本の川に挟まれた台地の先端に位置し、三方が斜面という立地です。遺構と言い切れるものには出会えませんでしたが、そういった地形を肌で感じることはできました。

暑くも寒くもない5月の曇りの日。快適だったせいもあり、満足な訪問となりました。

■訪問:代山城
[埼玉県さいたま市緑区代山]

<埼玉スタジアム>
Saitama-Stadium-2002.JPG
現地は埼玉スタジアムの西側です。直線距離なら5百mくらいです。


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■参考
・Wikipedia:2024/5/27
タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年02月18日

沼が消えても地形は残る(岩槻城)天然堀のなごり

<さいたま市岩槻区>
X-Twitter-Isuke230210.jpg
この下り坂はさいたま市岩槻区で撮影しました。都市化によりコンクリの街となっていますが、坂を下ったところには、かつて岩槻城の天然堀だった巨大な沼がありました。

<久伊豆神社一の鳥居>
Hisaizu-Shrine-Main-Gate.JPG
撮影場所は宮町の久伊豆神社参道入口の南側です。東武野田線(アーバンパークライン)の踏切を渡ってすぐのところで撮影しました。

<縄張り図>
shirononagoriMAPiwa (5).jpg
[出典:岩槻城址公園説明板]
岩槻城はご覧の通り自然地形を利用した平城でした。本丸や二ノ丸・三ノ丸といった城の中核部分は、天然堀である沼に囲まれています。

<縄張り図拡大>
Mapfocusedon-Hisaizujinja.JPG
先ほどの久伊豆神社は、この巨大な沼の北側に設けられた新正寺曲輪に鎮座しています。

沼はやがて姿を消しました。

しかし地形は残り続けます。

<岩槻城の天然堀のなごり>
Iwatsuki-geography.JPG
ここはそのなごりを感じられる場所ということになります。この道を真っすぐ進めば、岩槻城三ノ丸跡になります。

普段当たり前に通り過ぎてしまう都市の風景も、地形を手がかりにちょっと視点を変えると、別なものに映りますね。

■訪問:久伊豆神社前踏切付近
 (新正寺曲輪跡)
[埼玉県さいたま市岩槻区本丸]2丁目


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タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年01月27日

佐枝氏館のなごり(岩槻)龍門寺境内の土塁跡

戦国時代の館跡を訪ねました。

<佐枝氏館跡>さえだしやかた
Saedashiyakata-Dorui-Ryumonji-Iwatsuki.JPG
場所はさいたま市岩槻区の龍門寺境内です。佐枝若狭守館土塁であることが記されています。

<土塁跡>
Saedashiyakata-Dorui-Iwatsuki.JPG
昔はもっと高かったのでしょう。土塁が途切れるところもありますが、虎口の跡なのか、何らかの都合で取り崩したものなのかはわかりませんでした。

<墓所付近の土塁>
Saedashiyakata-Oruiato-Iwatsuki.JPG
こちらは墓所との間をブロック塀で隔てていますが、土塁がよく見えています。迫力があります。

<龍門寺>
X-Twitter-Isuke-Ryumonji.jpg
お邪魔させて頂いた龍門寺は、1550年に北条家臣の佐枝若狭守秀成が、自身の居館敷地内に開山した寺院です。地形の話をすると、元荒川のかつての流路沿いの微高地に位置しています。元荒川は岩槻城にとって重要な天然堀。佐枝氏の館は、岩槻城の外郭の守りを担っていたと考えられています。

<土塁>
Saedashiyakata-Ato-Iwatsuki.JPG
岩槻城は戦国末期(1590年)に豊臣軍によって攻め落とされます。土塁はその時に備えたものか、あるいはそれ以前から館の土塁として存在していたのかは分かりません。豊臣軍来襲時には、館を築いた佐枝秀成は既に亡くなっていたので、後継者の嫡男(佐枝植行)が土塁を築いた可能性もあるわけですね。私個人は、直線の土塁が直角に折れ曲がるところを見て、方形館の土塁を想像しました。まぁいずれにせよ、いまでも生々しい土塁が、戦国時代のなごりであることは間違いありません。素晴らしい遺構です。


最後に
ご先達の方々の城ブログを見ると、龍門寺さんが立ち入りを規制している時期もあったようです。龍門寺さんは岩槻藩主大岡氏の菩提寺でもあり、歴史的に興味深い寺院であることに間違いありませんが、著名な方だけでなく、一般の方々の墓所でもあります。門が開かれていても、寺の関係者ではないことを意識し、マナーを守った見学が望まれます。

<有形文化財の山門>
Ryumonji-Gate-Iwatsuki.JPG
龍門寺さんのご厚意に感謝申し上げます

■訪問:佐枝氏館
(龍門寺境内 佐枝若狭守館土塁)
[さいたま市岩槻区日の出町]


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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/27
・猫の足あと「龍門寺」

https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_iwa_ryumon.html
タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

岩槻城大手門のなごり

岩槻城のかつての大手門付近を探索しました。

<岩槻城大手門跡>
Otemon-Iwatsukijo-sign.JPG
ここは大手門があった場所です。正確な位置が分からないので、とりあえずこのプレートを目指して歩いてきました。柵の向こう側はかつての大手門の堀跡になります。

<堀跡>
Otemon-Hori-Iwatsukijo.JPG
内部は私有地(宗教法人敷地)となっているため、立ち入ることはできません。道から見える範囲で撮影しました。今でも結構な高低差があります。この堀は三ノ丸・二の丸・本丸といった城の中核部を取り囲む巨大沼と繋がっていました。沼の水が堀まで入ってきていたのか、それとも空堀の状態だったのかは分かりません。

<堀の上部>
Otemon-Dorui-Iwatsukijo.JPG
こちらも道から見える範囲で撮影。土が露わになっているため、いかにも城跡という雰囲気が漂います。

岩槻城の歴史は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。さいたま市のホームページに記載がある通りで、岩槻城は戦国時代の関東の歴史において欠かすことのできない重要な城郭でありながら、今では江戸時代の面影さえも失われつつあります。急速な近代化の波に飲み込まれ、跡形もなく取り壊されてしまったわけですね。それはそれで仕方のないことですが、人が手を加えた地形がそのまま残っているということは、とても貴重なことだと思えます。姿を消した城のなごりですね。

<付近の地形>
Otemon-horiato-Iwatsukijo.JPG
大手門跡のすぐ近くで撮影しました。縄張り図を見る限り、マンションの駐車場となっているこの窪みも、別の堀のなごりと思われます。

私には難しい文献を解読する力がありませんが、専門の方々の研究の成果を、実際に足を運んで感じるくらいのことならできます。情報を得るだけならネットで充分ですが、現地へ行ってみると、思ったより距離があったとか、距離はないが高低差があったとか、現地ならではの発見があったりします。

<大手口>
Otemon-Iwatsukijo-Ato.JPG
こちらは大手門へ通じる大手口の跡です。古い街並みが残っているわけではないので、石柱がなければただ通り過ぎたことでしょう。こうして記してもらうだけでありがたいです。こういう目印と有難い古地図とを見比べ、あとは勝手に想像する。それだけで満足とまでは言いませんが、来れて良かったという気持ちにはなります。

街のなかの城跡巡り
似たような感覚をお持ちの方と共有できれば幸いです。

<城のなごり>
Iwatsukijo-Otemon-Dorui.JPG
大手門付近の城のなごりです

■訪問:岩槻城大手門跡
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]1丁目5


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■参考
・Wikipedia:2024/1/27
・さいたま市HP
>文化財>知って楽しむ文化財>深掘り文化財>
「岩槻城跡を探る」

https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年01月20日

総構えの北の守り(岩槻市)新正寺曲輪のなごり

今回は岩槻城の北側の守りの要だった新正寺曲輪の話です。

<新正寺曲輪跡>
Stonepillar-Shinsyojikuruwa.JPG

岩槻城の歴史は長いですが、今回訪問の新正寺曲輪が注目されるのは戦国時代末期。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の時です。秀吉は小田原城を大軍で包囲するとともに、別働隊で関東に点在する北条配下の城を落としていきました。当時北条配下だった岩槻城は、その別働隊によって攻め落とされます

「別働隊」といっても小隊ではなく、約2万の大軍です。いくら堅固な城といっても、2万の攻め手に対し、守る側は2千です。更に、城主・太田(北条)氏房と主力は小田原城へ移っていたため、兵力の差は明らか。城を任された家老・伊達房実を中心に岩槻城は奮闘しますが、城兵約1千の死傷者を出して、降伏となりました。

岩槻城を攻め落としたのは浅野長政率いる豊臣軍ということになりますが、本多忠勝や鳥居元忠といった徳川勢も加勢しています。守りの固かった当時の岩槻城に対し、豊臣軍は北側からの攻撃を選びました。秀吉からの催促もあり、持久戦にはしませんでした。

<新正寺曲輪石柱>
Stone-Pillar-Shinsyojikuruwa.JPG
こちらは岩槻区宮町の久伊豆神社前の新正寺曲輪の石柱です。新正寺曲輪は岩槻城本丸から巨大な沼を隔てた北側に設けられた防衛施設。石柱を設置してもらったお陰で、かつての城跡にいることが実感できます。

<石柱の説明文>
Shinsyojikuruwa-Stone-Pillar.JPG
側面に岩槻市教育委員会による説明が記されています。平成元年のものですね。この10年後、岩槻市はさいたま市岩槻区となっています。内容を以下に転記させて頂きます。
『元荒川沿いに広がり、沼を隔てて本丸を南に望む。西は新正寺口より田中町に続き、東は明戸口より岩槻城主郭に連なる。曲輪内には岩槻城総鎮守・久伊豆神社がある。』
説明文に登場する新正寺は、久伊豆神社の別当・光明院の寺号で、曲輪の名の由来でもありますが現在は存在しません。

<縄張り図>
shirononagoriMAPiwa (5).jpg
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらは別の日に岩槻城址公園で撮影した説明板です。ご覧の通り、岩槻城は沼地を利用した平城です。近くに元荒川が流れる台地上に、城の中核がありました。岩槻城は江戸時代を通して存続しましたが、城の中核と地形は戦国末期も同じです。

大きくカーブしている元荒川の内側に、新正寺曲輪があります。川と沼にはさまれた微高地だったのでしょう。ここをあえて曲輪とする理由は、まずは天然の堀である元荒川を敵が渡ろうとするのを妨害するため。そして、川を越えられてしまった場合は、敵が久伊豆神社の境内を含む広々とした微高地を足場にしかねないため、予め城に内包して守りを強化しておく必要があった。そんな感じでしょうか(他にもいろんな評価があるかと思います)。

そんな守る側の心配が的中したのでしょうか。豊臣軍はこの新正寺曲輪から攻め込んだと伝わります。結果は先述の通りです。多大な犠牲者を出しながらの抵抗は3日で終了しました。


ちょっと殺伐とした内容で終わってしまうので、簡単ではありますが、かつての新正寺曲輪に現在も鎮座する久伊豆神社をご紹介しておきます。

<久伊豆神社参道>ひさいずじんじゃ
Shrine-Chinju-Iwatsuki.JPG
岩槻城を築城した太田道灌が、城の鎮守としたと伝わります。

<鳥居>
Torii-Hisaizujinja-Iwatsuki.JPG
久伊豆神社は元荒川沿いに多く、埼玉県では有名な神社です。創建はかなり古く6世紀頃とされています。

<拝殿>
Hisaizu-Shrine-Guardian-God.JPG
この日も多くの人で賑わっていました。人を避けての撮影は無理だったので、ちょっと画像を加工させて頂きました。

<本殿>
Main-shrine-Hisaizujinja-Iwatsuki.JPG
ここが本社と勘違いするほど立派な神社です(本社は加須市)。岩槻の総鎮守として地元民に親しまれています。

■訪問:新正寺曲輪石柱
(久伊豆神社鳥居前)
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]2


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■参考及び出典
・新正寺曲輪石柱説明文
・岩槻城址公園説明板
・Wikipedia:2024/1/20
・MY神社HP 埼玉の神社一覧
「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社」

https://myjinja.com/jinja/detail/id/15
・久伊豆神社HP
【説話】岩槻城落城伝説と久伊豆神社

https://www.hisaizu.jp/infomation03/269/
タグ:埼玉
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