川越市の大堀山城及び周辺の城跡を巡った帰り道、城の遺構らしき区画に足が止まりました。
堀の跡か?
この付近は城跡が狭い範囲に密集しているエリアですので、ある程度予習してきましたが、ここはまったくのノーマークでした。現地でネット検索しましたが手がかりなく、呼び名すら分かりません。ただ、醸し出す雰囲気に魅かれ、とりあえず撮影だけして現地を後にしました。
その後調べましたが、やはり情報は少なく、やっと見つけた「ニッポン城めぐり」さんのサイトにあった「字往還上の遺構」という呼び名をそのまま使わせ頂きます。
ということで
「字往還上の遺構」の堀跡のご紹介でした。
■訪問:川越市下広谷の林
(字往還上の遺構)
■参考及び引用
ニッポン城めぐり
・字往還上の遺構
https://cmeg.jp/w/castles/2030/pins/19025
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--------■ 参 考 ■--------
当サイトでご紹介させて頂いたこの付近の城跡です
<大堀山城跡>
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
→『記事へすすむ』
<広谷北城跡>
[埼玉県川越市下広谷]420周辺
→『記事へすすむ』
<広谷南城跡>
[埼玉県川越市下広谷]792周辺
→『記事へすすむ』
<在家館比定地>
[埼玉県川越市下広谷]437周辺
→『記事へすすむ』
2022年09月17日
大堀山城周辺の城のなごり(川越市)在家館
川越市の大堀山城跡を訪問したついでに、同じエリアで城跡とされる複数の場所に立ち寄ってみました。今回はそのうちのひとつ、館跡と推定されている場所のご紹介です。遺構はありません。そんな内容でよろしかったらお付き合い下さい。
<在家館比定地>ざいけ
こちらです。現地で言えることは、真っ平な状態ではなく、堀や土塁のなごりらしきものを感じられなくもないということです。
<微高地>
あとは周辺と比較して、この区画が少しだけ高い位置にあるということくらいですかね
<微高地>
館跡を背中にして撮影した南側の景色
半径数百メートル以内に大堀山城、広谷北城、広谷南城があります。ここが具体的にどういう場所だったかは不明ですが、中世の軍事施設が密集するエリアですので、出城やどが築かれていたとしても、何ら不思議はありません。
ただ
雰囲気は良いのですが決定的な遺構がありません
区画の隅の方の堀状の溝には木材が並べられていました。整備される?
お隣は諏訪神社となっています。創建年代等は不詳ですが、この付近の村々の鎮守社だったと伝わります。
ということで
城跡の密集地帯で館比定地に立ち寄ってみたという内容でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:在家館
[埼玉県川越市下広谷]437周辺
--------参考画像--------
<大堀山城跡>
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
<広谷北城跡>
[埼玉県川越市下広谷]420周辺
<広谷南城跡>
[埼玉県川越市下広谷]792周辺
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<在家館比定地>ざいけ
こちらです。現地で言えることは、真っ平な状態ではなく、堀や土塁のなごりらしきものを感じられなくもないということです。
<微高地>
あとは周辺と比較して、この区画が少しだけ高い位置にあるということくらいですかね
<微高地>
館跡を背中にして撮影した南側の景色
半径数百メートル以内に大堀山城、広谷北城、広谷南城があります。ここが具体的にどういう場所だったかは不明ですが、中世の軍事施設が密集するエリアですので、出城やどが築かれていたとしても、何ら不思議はありません。
ただ
雰囲気は良いのですが決定的な遺構がありません
区画の隅の方の堀状の溝には木材が並べられていました。整備される?
お隣は諏訪神社となっています。創建年代等は不詳ですが、この付近の村々の鎮守社だったと伝わります。
ということで
城跡の密集地帯で館比定地に立ち寄ってみたという内容でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:在家館
[埼玉県川越市下広谷]437周辺
--------参考画像--------
<大堀山城跡>
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
<広谷北城跡>
[埼玉県川越市下広谷]420周辺
<広谷南城跡>
[埼玉県川越市下広谷]792周辺
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2022年09月10日
竹林で遺構を探す(川越市)広谷南城跡
遺構が確かな大堀山城周辺には、城跡とされる場所が複数存在します。前回の投稿で広谷北城跡をご紹介させて頂きましたが、今回の投稿は多少遺構らしものが確認できる広谷南城です。
<広谷南城跡>ひろやみなみ
竹林内の空堀らしきもの
土塁でしょうか
城跡であることを前提に考えると、これらの堀や土塁は、大堀山城や広谷北城と同時期に設けられたものなのでしょう。同じく築城者は不明。街道から近く、ここに拠点を設ける軍事的意味がきっとあたのですね。
竹林そのものは立入禁止のようなので、通りから撮影しました。それでも、遺構らしきものがはっきり見えます。現地で縄張り全体を想像するのは困難ですが、立ち寄れて良かったです。
■訪問:広谷南城
[埼玉県川越市下広谷]792周辺
--------参考画像--------
<大堀山城>
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
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<広谷南城跡>ひろやみなみ
竹林内の空堀らしきもの
土塁でしょうか
城跡であることを前提に考えると、これらの堀や土塁は、大堀山城や広谷北城と同時期に設けられたものなのでしょう。同じく築城者は不明。街道から近く、ここに拠点を設ける軍事的意味がきっとあたのですね。
竹林そのものは立入禁止のようなので、通りから撮影しました。それでも、遺構らしきものがはっきり見えます。現地で縄張り全体を想像するのは困難ですが、立ち寄れて良かったです。
■訪問:広谷南城
[埼玉県川越市下広谷]792周辺
--------参考画像--------
<大堀山城>
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
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雑木林で遺構を探す(川越市)広谷北城跡
川越市郊外の大堀山城跡を訪問した日、すぐ近くの広谷北城跡とされる場所を訪ねてみました。事前にお話ししておきますが、明確な遺構は見つけられませんでした。
<広谷北城跡>ひろやきたじょう
県道川越片柳線沿いのこちらの区画になります
<雑木林>
説明板もなく、ただの雑木林にしか見えませんが、場所はあっているようです。
<多少の起伏>
多少の起伏はあるものの…
広谷北城跡には「土塁と空堀が残る」という情報を頼りに立ち寄りました。ただ、盛り土らしきところがあるものの、途中で途切れていて土塁とまでは思えません。また、平坦な土地が若干窪んでいるところもありますが、なにぶんにも浅く、雨水などで自然にできた溝に見えなくもありません。よって、城跡という実感は湧きませんでした。
大堀山城と同じく築城者は不明です。ただ、築かれた理由も築城時期も大堀山城と同じような気がします。なんらかの抗争のなかで、街道近くのこの場所に砦が必要だったのでしょう。
■訪問:広谷北城
[埼玉県川越市下広谷]420周辺
--------参考画像--------
<大堀山城>
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
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<広谷北城跡>ひろやきたじょう
県道川越片柳線沿いのこちらの区画になります
<雑木林>
説明板もなく、ただの雑木林にしか見えませんが、場所はあっているようです。
<多少の起伏>
多少の起伏はあるものの…
広谷北城跡には「土塁と空堀が残る」という情報を頼りに立ち寄りました。ただ、盛り土らしきところがあるものの、途中で途切れていて土塁とまでは思えません。また、平坦な土地が若干窪んでいるところもありますが、なにぶんにも浅く、雨水などで自然にできた溝に見えなくもありません。よって、城跡という実感は湧きませんでした。
大堀山城と同じく築城者は不明です。ただ、築かれた理由も築城時期も大堀山城と同じような気がします。なんらかの抗争のなかで、街道近くのこの場所に砦が必要だったのでしょう。
■訪問:広谷北城
[埼玉県川越市下広谷]420周辺
--------参考画像--------
<大堀山城>
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
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2022年09月04日
大堀山城のなごり(川越市)
川越市郊外の城跡を訪ねました。
<大堀山城>
呼び名は大堀山城ですが、山城ではなく平城です
地図に大堀山城が見当たらない場合は「若葉霊園」を目印にすれば現地へ辿り着きます。若葉霊園入口という案内表示に従って林の中の道を進んでいけば、説明板が設置されています。
<林道>
林道はこんな感じの道
<土塁>
林道沿いの土塁です。既に城跡にいるようなものです
そして更に奥へ進むと
<説明板>
ありました。この説明板が目印です。向こう側はすべて城跡。自分の位置が分かり安いように、この付近から進入するのがお勧めです。
説明板に気づかないと素通りなんてこともあり得ますが、この先は若葉霊園になっていますので、焦る必要はありません。城跡は若葉霊園のお隣ですので、ゆっくり林道を引き返すだけでOKです。
さて
<説明板拡大>
縄張りそのものはシンプルです。ただ、主郭を中心に土塁や堀を幾重にも巡らせた念入りな造りとなっていたようです。方形ですが、東西にやや長い四角形。三郭の土塁の一部が途中で変形しているのはどういうことでしょう。馬出しですかね(不明)。
林に足を踏み入れると、まず低い盛り土と浅い堀跡を通過します。これらも遺構の一部ですが、この城跡の見どころはもう少し奥になります
これは凄い。曲輪を囲むように設けられた土塁と堀です。
郊外とはいえ、周辺はかなり宅地化されています。平地に築かれた城の遺構がここまで残っていることはとても貴重だと思います。
ただ
ちょっと荒れ放題という気もします
土塁・土塁・堀跡。まぁ放っとかれているから、こうして遺構もあるのだと思うことにしました
ただこういうのはやめて欲しいですね。城跡うんぬん以前に、ここはゴミ捨て場ではありません
蚊の襲撃と蜘蛛の巣に数回悩まされましたが、奥まで入れて満足でした。見応えのある土の城です
さて
遺構は確かでしたが、ここ大堀山城が誰の城だったか、実ははっきりしていません。この付近には他にも複数の城跡が確認されていますが、全て築城者は不明です。
地元豪族である河越氏が拠点とした館跡が、ここから約3qのところにあります。よって河越氏と何らかの関係があっても不思議ではありません。また、その拠点は河越氏が滅んだのちも、関東管領上杉顕定が河越城を攻撃する(長享の乱)際に利用されており、更に戦国時代末期には、小田原北条氏の重臣・大道寺政繁が砦としたという話もあります。大堀山城は、そんな歴史が刻まれた地点からそれほど遠くないため、関りを連想するのは自然なことと思います。
どの時代の何であったか明言できませんが、古くからある街道筋であったことから、戦略上は重要な意味があったのでしょう。
ということで
歴史的なことは曖昧なままではありますが、遺構が城のなごりを留めている大堀山城跡のご紹介でした。
--------■大堀山城■--------
別 名:大堀山館 牛原南の遺構
築城年:不明
築城者:不明
城 主:不明(扇谷上杉氏)
廃 城:不明
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
■参考:
現地説明板(川越市教育委員会)
--------参考画像--------
<河越氏館跡>
[埼玉県川越市上戸]
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<大堀山城>
呼び名は大堀山城ですが、山城ではなく平城です
地図に大堀山城が見当たらない場合は「若葉霊園」を目印にすれば現地へ辿り着きます。若葉霊園入口という案内表示に従って林の中の道を進んでいけば、説明板が設置されています。
<林道>
林道はこんな感じの道
<土塁>
林道沿いの土塁です。既に城跡にいるようなものです
そして更に奥へ進むと
<説明板>
ありました。この説明板が目印です。向こう側はすべて城跡。自分の位置が分かり安いように、この付近から進入するのがお勧めです。
説明板に気づかないと素通りなんてこともあり得ますが、この先は若葉霊園になっていますので、焦る必要はありません。城跡は若葉霊園のお隣ですので、ゆっくり林道を引き返すだけでOKです。
さて
<説明板拡大>
縄張りそのものはシンプルです。ただ、主郭を中心に土塁や堀を幾重にも巡らせた念入りな造りとなっていたようです。方形ですが、東西にやや長い四角形。三郭の土塁の一部が途中で変形しているのはどういうことでしょう。馬出しですかね(不明)。
林に足を踏み入れると、まず低い盛り土と浅い堀跡を通過します。これらも遺構の一部ですが、この城跡の見どころはもう少し奥になります
これは凄い。曲輪を囲むように設けられた土塁と堀です。
郊外とはいえ、周辺はかなり宅地化されています。平地に築かれた城の遺構がここまで残っていることはとても貴重だと思います。
ただ
ちょっと荒れ放題という気もします
土塁・土塁・堀跡。まぁ放っとかれているから、こうして遺構もあるのだと思うことにしました
ただこういうのはやめて欲しいですね。城跡うんぬん以前に、ここはゴミ捨て場ではありません
蚊の襲撃と蜘蛛の巣に数回悩まされましたが、奥まで入れて満足でした。見応えのある土の城です
さて
遺構は確かでしたが、ここ大堀山城が誰の城だったか、実ははっきりしていません。この付近には他にも複数の城跡が確認されていますが、全て築城者は不明です。
地元豪族である河越氏が拠点とした館跡が、ここから約3qのところにあります。よって河越氏と何らかの関係があっても不思議ではありません。また、その拠点は河越氏が滅んだのちも、関東管領上杉顕定が河越城を攻撃する(長享の乱)際に利用されており、更に戦国時代末期には、小田原北条氏の重臣・大道寺政繁が砦としたという話もあります。大堀山城は、そんな歴史が刻まれた地点からそれほど遠くないため、関りを連想するのは自然なことと思います。
どの時代の何であったか明言できませんが、古くからある街道筋であったことから、戦略上は重要な意味があったのでしょう。
ということで
歴史的なことは曖昧なままではありますが、遺構が城のなごりを留めている大堀山城跡のご紹介でした。
--------■大堀山城■--------
別 名:大堀山館 牛原南の遺構
築城年:不明
築城者:不明
城 主:不明(扇谷上杉氏)
廃 城:不明
[埼玉県川越市下広谷]332周辺
■参考:
現地説明板(川越市教育委員会)
--------参考画像--------
<河越氏館跡>
[埼玉県川越市上戸]
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2022年07月09日
菅谷北城のなごり(上尾市)
上尾市の土塁跡を訪ねました
<菅谷北城跡>
こちらです
ちょっとこれだけだと分かりにくいですが、発掘調査により、少なくとも三方向に土塁堀が巡らされていたと推定されています。ただ、現在は宅地化により、全体像を想像することは難しいです。
それでも要所要所に漂う城のなごり
堀跡か…?
土が盛ってあるような…
現地の地形からして、微高地に築かれた比較的小規模な城だったのでしょう
では
誰が何のために築いたのでしょうか
戦国時代に菅谷村を領した春日八郎行光の築城という説があります。素人なりに調べたものの、なかなか有効な情報源にたどり着かず、ここでは推定ということにしておきます。
ということで
宅地に漂う菅谷北城のなごりのご紹介でした。
<土塁のなごり>
-------■菅谷北城■-------
築城年:南北朝時代
築城者:詳細不明(春日行光)
城 主:詳細不明(春日氏)
廃 城:詳細不明
[埼玉県上尾市菅谷]2丁目
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<菅谷北城跡>
こちらです
ちょっとこれだけだと分かりにくいですが、発掘調査により、少なくとも三方向に土塁堀が巡らされていたと推定されています。ただ、現在は宅地化により、全体像を想像することは難しいです。
それでも要所要所に漂う城のなごり
堀跡か…?
土が盛ってあるような…
現地の地形からして、微高地に築かれた比較的小規模な城だったのでしょう
では
誰が何のために築いたのでしょうか
戦国時代に菅谷村を領した春日八郎行光の築城という説があります。素人なりに調べたものの、なかなか有効な情報源にたどり着かず、ここでは推定ということにしておきます。
ということで
宅地に漂う菅谷北城のなごりのご紹介でした。
<土塁のなごり>
-------■菅谷北城■-------
築城年:南北朝時代
築城者:詳細不明(春日行光)
城 主:詳細不明(春日氏)
廃 城:詳細不明
[埼玉県上尾市菅谷]2丁目
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2022年04月17日
水判土館のなごり(さいたま市)
さいたま市西区の川沿いに位置する土豪の館跡を訪ねました
<水判土館跡>みずはた
周辺と比較して高台となっている寺院付近が、かつての館跡と推定されています
<慈眼寺>じげんじ
創建は天長3年(826)という歴史ある寺院です
<袋橋>
橋を渡った先が館跡と思われる慈眼寺。低地に突き出た台地の南端に位置しています。
<新川>
館跡をかすめるように流れる川。整備され新川と呼ばれていますが、大むかしの入間川の流路と一致します。すぐ近くで鴨川と合流しますので、館跡は二つの川と密接な関係にあったと思われます
さて
実は誰が館を構えていたのか、はっきりしていません。ただ、新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起には『元城壘のありし所』(もともと城塁のあったところ)と記されています。いまでは遺構は確認できませんが、現地を実際に訪ねてみると、かつてはあったであろう地の利を実感することができます。
<堀の内橋>
こんな橋と出会いました。『堀の内』は地名にもなっています。いかにも、むかし何らかの拠点があったような雰囲気が漂います
<二つの川の合流地点>
こちらは鴨川と新川の合流地点です。いまでこそ川沿いが整備されていますが、むかしは堤防もなく、低湿地が広がっていたのでしょう。そんな平地に面した台地の隅に、地元の有力者が館を築いた。歴史の詳細は不明ながらそう思えたので、満足な訪問となりました。
■訪問:水判土館
[さいたま市西区水判土]462
■参考及び出典■
・猫の足あと
慈眼寺 さいたま市西区水判土にある天台宗寺院
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_nisi_jigan.html
(新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起)
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<水判土館跡>みずはた
周辺と比較して高台となっている寺院付近が、かつての館跡と推定されています
<慈眼寺>じげんじ
創建は天長3年(826)という歴史ある寺院です
<袋橋>
橋を渡った先が館跡と思われる慈眼寺。低地に突き出た台地の南端に位置しています。
<新川>
館跡をかすめるように流れる川。整備され新川と呼ばれていますが、大むかしの入間川の流路と一致します。すぐ近くで鴨川と合流しますので、館跡は二つの川と密接な関係にあったと思われます
さて
実は誰が館を構えていたのか、はっきりしていません。ただ、新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起には『元城壘のありし所』(もともと城塁のあったところ)と記されています。いまでは遺構は確認できませんが、現地を実際に訪ねてみると、かつてはあったであろう地の利を実感することができます。
<堀の内橋>
こんな橋と出会いました。『堀の内』は地名にもなっています。いかにも、むかし何らかの拠点があったような雰囲気が漂います
<二つの川の合流地点>
こちらは鴨川と新川の合流地点です。いまでこそ川沿いが整備されていますが、むかしは堤防もなく、低湿地が広がっていたのでしょう。そんな平地に面した台地の隅に、地元の有力者が館を築いた。歴史の詳細は不明ながらそう思えたので、満足な訪問となりました。
■訪問:水判土館
[さいたま市西区水判土]462
■参考及び出典■
・猫の足あと
慈眼寺 さいたま市西区水判土にある天台宗寺院
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_nisi_jigan.html
(新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起)
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2022年04月16日
足立遠元館のなごり(さいたま市)
つわものどもが夢の跡
今回は鎌倉幕府の有力御家人・足立遠元の館跡とされる場所を訪ねました。
<六部堂>ろくぶどう
さいたま市西区植田谷本の六部堂です。足立遠元の館はこの付近にあったのではないかと推定されています。
<六部堂説明板>
江戸時代後期、川に石橋を掛けた行者・小平次に感謝した村人が、その徳を後世に伝えるべくお堂を建てたことにはじまります。
堂内には石橋供養塔
橋に使われていたと思われる石材
<藤橋>ふじはし
いまは鉄筋の立派な橋で川を渡ることができますが、むかしは難儀なことだったわけですね。説明板によれば『この付近には鴨川に架かる橋がなく、土地の人々は川の両岸に生える藤蔓を編んだつり橋を伝って往来していました。』とのこと。藤橋の名の由来ですね
<鴨川>かもがわ
現在の川の様子
■足立遠元■ あだちとおもと
足立遠元は武蔵国足立郡の豪族で、畠山重忠らともに源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献しました。いわゆる「十三人の合議制」のひとりです。どこを拠点としていたかについては不明な点も多く、さいたま市の他に桶川市にも候補地があります。
六部堂の西側一帯が館跡の候補地とされていますが、そのなごりはありません。六部堂の手前の道路はかつての鎌倉街道です。現地で納得できるのはそれくらいですかね
その鎌倉街道を東へ
先ほどの「藤橋」を渡ってすぐのところでこんな光景と出会いました
<台耕地稲荷塚古墳>だいこうちいなりづか
[大宮区三橋]4-985
川沿いなので水塚?かと思いましたが古墳でした。さいたま市の史跡となっている円墳で、塚の上には稲荷神社が鎮座しています。この敷地内に、とてもわかりやすい説明板が設置されていました。
<歴史散歩コース 三橋・植田>
これを見てから散策すればよかった。あまり予習しないでやってきたので目から鱗でした。
<説明板拡大>
『鎌倉武士 足立遠元館跡はこの辺り』と記されています。やはり六部堂の付近一帯は館跡の有力な候補地ということのようです
ということで
ざっくりではありますが、御家人・足立遠元の館跡付近を歩けたことで満足しました。
■訪問:足立遠元館
(六部堂)
[さいたま市西区植田谷本]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/4/16
・六部堂説明板
(行者小平次事蹟顕彰保存会
さいたま市教育委員会 )
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今回は鎌倉幕府の有力御家人・足立遠元の館跡とされる場所を訪ねました。
<六部堂>ろくぶどう
さいたま市西区植田谷本の六部堂です。足立遠元の館はこの付近にあったのではないかと推定されています。
<六部堂説明板>
江戸時代後期、川に石橋を掛けた行者・小平次に感謝した村人が、その徳を後世に伝えるべくお堂を建てたことにはじまります。
堂内には石橋供養塔
橋に使われていたと思われる石材
<藤橋>ふじはし
いまは鉄筋の立派な橋で川を渡ることができますが、むかしは難儀なことだったわけですね。説明板によれば『この付近には鴨川に架かる橋がなく、土地の人々は川の両岸に生える藤蔓を編んだつり橋を伝って往来していました。』とのこと。藤橋の名の由来ですね
<鴨川>かもがわ
現在の川の様子
■足立遠元■ あだちとおもと
足立遠元は武蔵国足立郡の豪族で、畠山重忠らともに源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献しました。いわゆる「十三人の合議制」のひとりです。どこを拠点としていたかについては不明な点も多く、さいたま市の他に桶川市にも候補地があります。
六部堂の西側一帯が館跡の候補地とされていますが、そのなごりはありません。六部堂の手前の道路はかつての鎌倉街道です。現地で納得できるのはそれくらいですかね
その鎌倉街道を東へ
先ほどの「藤橋」を渡ってすぐのところでこんな光景と出会いました
<台耕地稲荷塚古墳>だいこうちいなりづか
[大宮区三橋]4-985
川沿いなので水塚?かと思いましたが古墳でした。さいたま市の史跡となっている円墳で、塚の上には稲荷神社が鎮座しています。この敷地内に、とてもわかりやすい説明板が設置されていました。
<歴史散歩コース 三橋・植田>
これを見てから散策すればよかった。あまり予習しないでやってきたので目から鱗でした。
<説明板拡大>
『鎌倉武士 足立遠元館跡はこの辺り』と記されています。やはり六部堂の付近一帯は館跡の有力な候補地ということのようです
ということで
ざっくりではありますが、御家人・足立遠元の館跡付近を歩けたことで満足しました。
■訪問:足立遠元館
(六部堂)
[さいたま市西区植田谷本]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/4/16
・六部堂説明板
(行者小平次事蹟顕彰保存会
さいたま市教育委員会 )
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