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2017年04月03日

桜咲く道灌ゆかりの名城 岩槻城

つわものどもが夢の跡
桜の時期にあわせて埼玉県の岩槻城を訪問しました。

<桜咲く岩槻城跡>いわつきじょう
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扇谷上杉氏の命を受けて太田道灌が父とともに築城した城。現在は公園として整備されています。桜が見頃となり、本日は家族連れで賑わっていました。

<太田道灌像>おおたどうかん
Iwatsyki2017 (4).JPG
駅からここまで来る途中、旧岩槻区役所の敷地で撮影しました。さすが道灌ゆかりの地。城に到着する前から気分が盛り上がります。


■ 緊張にさらされ続けた城 ■
太田道灌がこの世を去ったのちも、岩槻城はその流れを汲む岩槻太田氏の城でした。古河公方と扇谷上杉氏の対立から生まれた城は、やがて小田原の北条氏と越後の上杉が争う関東の重要拠点となり、戦国時代を通していつも緊張にさらされた城でした。

徳川家康が関東に入ってからは、高力清長が二万石で入封。その後も岩槻の地は江戸を守る要衝と位置づけられ、その城主は幕府の重要ポスト(三河譜代の重臣の居城)でした。廃城は明治になってからです。

<公園入口付近>
IWATSUKI2017 (1).JPG

<土塁>
IWATSUKI2017 (2).JPG
土塁というより、こちら側が堀の底ということになります。現在の公園の広場は、昔の本丸の南に位置する沼でした。

<桜と土塁>
IWATSUKI2017 (5).JPG

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遺構はあまりないという評判も耳にしますが、そんなことはありません。確かに本丸付近は宅地化されてしまいましたが、南側に位置する曲輪に城のなごりが漂います。

<八ツ橋と沼>
IWATSUKI2017 (6).JPG
かつての大きな沼(水堀)は、廃城後に埋められて姿を消しました。残されたこの沼が、かつてのなごりを今に留めています。

<花見客が沢山>
IWATSUKI2017 (3).JPG
岩槻城址公園の桜は約600本。埼玉県内有数の花見の名所です。夜はライトアップされるようですが、私は夕方で退散してしまいました。


■ 湿地の平城 ■
岩槻城は元荒川に近く、半島のように突き出した台地の上に本丸・二の丸・三の丸といった曲輪を配置しています。本丸等の主郭部分を取り囲む沼を挟んだ北と南にも曲輪を配置。念入りな縄張りとなっています。水城と称されることもあることから、低地に広がる沼(水堀?)に浮かぶ要塞のような感じだったのでしょう。

<堀の中を歩く>
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結構深い堀です
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もともとはもっと深かったのでしょう
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堀底の道。いい感じです。


■北条氏の足跡■
<堀障子>
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堀の底に堀障子(現地説明あり)。いわゆる障子堀ですが、調査後埋め戻したとのこと。障子堀=北条という訳ではないですが、きっと岩槻城が北条氏配下の時に設けられたものでしょう。

戦国末期の秀吉による小田原征伐の時(1590年)、この城の城主は北条氏房(うじふさ)でした。北条氏政の子で五代目当主の氏直の弟です。既に太田氏の家督を継いでいたのですから、まぁ太田氏房ですね。この氏房の時に、岩槻城は大幅に拡張・改修されました。秀吉率いる天下軍に備えるためですね。実際に戦が始まると、氏房は城を家臣に任せ、自らは小田原の籠城戦に参加しました。敗戦後は当主である兄と共に高野山へ送られています(二年後に病没)。

氏房に代わってここ岩槻城の指揮をとったのは伊達房実。いわゆる伊達政宗と祖を同じくし、枝分れして武蔵国に根をはった伊達氏です(諸説あり)。岩槻太田氏に仕える房実は、約2千の兵で天下軍2万を迎え撃ちましたが、千人もの犠牲者を出す壮絶な戦いの末に落城となりました。

最後に

<鍛冶曲輪>
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本丸・二の丸・三の丸とは別に、出丸のような役割を担った曲輪です。諸説ありますが、秀吉軍の攻撃に備えて整備された曲輪とも言われています。こちらにも見事な桜と花見客の姿が。そして、立派な石碑を見つけました。

<白鶴城址碑>
IWATSUKI2017 (16).JPG
岩槻城は白鶴城とも呼ばれているのですね。初めて聞きました。沼地に守られた城ですから、湿地に佇む白い鶴に例えられたのでしょうか?現地ではそんな気がしました。後で調べたら、鶴が水面に落とした木の枝に舞い降りる様子を見て、道灌は竹をたばねて沼を埋める方法を思いついたという話に由来するそうです。

久しぶりの訪問。天気と桜に恵まれた城跡巡りとなりました。

------------■ 岩槻城 ■------------
別 名:岩付城 白鶴城
築城者:太田道灌(諸説あり) 
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:太田氏 北条氏 徳川氏 
城 主:太田氏 北条氏 高力氏 他
廃 城:1871年(明治4年)
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]


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2017年03月30日

道灌築城と伝わる朝霞市の城 岡城

つわものどもが夢の跡
埼玉県朝霞市に太田道灌築城と伝わる城跡を訪ねました。

<岡城跡>
FanBL30ASAKA  Oka (4).jpg
本丸と二の丸を繋ぐ橋

■ 別名:朝霞城 ■
岡城というと大分県竹田市の岡城が有名ですね。私が訪問したのは埼玉県朝霞市にある岡城。川沿いの台地に位置する山城です。標高14m、比高だと10mくらいでしょうか。現在は公園として整備されていますが、遺構は比較的良好な城跡です。

<空堀より>
FanBL30ASAKA  Oka (2).jpg
曲輪は良く分かるもので3つあります。それらを区切る空堀も良い状態で残っています。その空堀に降りて撮影しました。まぁ今はこの程度ですが、現役の頃はもっとシャープで深さもあったのでしょう。こうして残してもらえれば、そんな想像もできます。ありがたい城跡です。

<公園>
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城山公園として市民憩いの場となっています。除草や階段の手入れなど、よく整備されています。これもありがたいですね。

<中世の城>
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整備され過ぎてないエリアもあり、城跡マニアも納得してくれるのではないでしょうか。ちょっと画像が悪くて申し訳ありません。

<曲輪>くるわ
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ただの平らな区画ではありません。曲輪を囲むように土塁が残されています。いかにも城跡らしい。

川に近い方が本丸、遠ざかる順で二の丸・三の丸という縄張りです。いわゆる連郭式ですね。一番広い曲輪は二の丸です。更に四の丸があったという話も耳にしましたが、もしそうなら山の西側の公園入口付近ですかね。現在はその面影はありませんが、三の丸より一段低くなったところが曲輪だったのかも知れません。いずれにせよ、そんなに複雑な構造ではありません。


■ 道灌築城か ■
太田道灌といえば、江戸城を築いたことで知られる室町時代の武将ですね。ここ岡城も、道灌によって15世紀に築かれたとする説があります。そう言われると、この山に残された遺構のひとつひとつが妙に愛おしいく、感慨深いものがありますね。具体的な史料は無いそうです。ただ、そう推定されているのなら、否定する証拠が明らかになるまで、私はそう思うことにします。好きな戦国武将のひとりですので。

■ 太田康資 ■ やすすけ
太田康資の館跡という説もあります。道灌の子孫です。康の字は母方の伯父にあたる北条氏康から授かったということなので、この時点での北条氏との関わりが伺えます。ここから比較的近い所沢市東部に、「滝の城」と呼ばれる城跡がありますが、こちらは小田原北条氏の支配下だったことがはっきりしています。なんとなく関連性がうかがえますね。

いずれにせよ、本格的な史料の乏しさから陣城、つまり臨時の城といった役割だったのではないかと考えられています。それなら、縄張りのシンブルさも納得できます。


■川沿いの山城■
<黒目川>くろめがわ
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目黒川ではなく黒目川。東京・埼玉を流れる一級河川です。東京都の小平市から続く流れ。

岡城はこの川沿いの山城。半島状に突き出た丘陵に築かれた城です。いわゆる「舌状台地」の先端を利用した城ですね。この画像だと左手奥の緑の山が岡城跡です。

説明によると『今から約8000年〜4500年位前の縄文時代の集落であるとともに、中世期の頃に築城された平山城址・・・』とのことです。平山城(ひらやまじろ)とは、平野の中にある山に築かれた城。平らなところにある独立峰を想像してもらえば分りやすいと思います。

川沿いの平地には、水の被害も恩恵も両方あったことでしょう。ポツンとある小山には、そこで人が暮らすのに都合がいい利点があったと思われます。

生活のための地の利が人を集め、やがて時を経て砦にもなった・・・

などと考えながら、川沿いをゆっくり歩きながら駅へと向かいました。最寄り駅はJRの北朝霞駅または東武の朝霞台駅で、徒歩20分ちょっとは必要です。まぁ川沿い散歩も好きなので、私はあまり苦にはなりませんでした。

黒目川沿いの岡城。中世の山城の雰囲気を留めたいい城跡でした。

■訪問:岡城(朝霞城)
[埼玉県朝霞市岡]


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2017年03月24日

戦国の歴史漂う町(嵐山町)

(菅谷館の追記です)

深く長い歴史が刻まれた嵐山町には、多くの史跡が残されています。当ブログのテーマである城跡も多数。そして、あの有名な木曾義仲、坂東武者の鑑と賞される畠山重忠ゆかりの地でもあります。

<菅谷館跡>すがや
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もともとあった坂東武者の館跡を、どなたかが拡張工事した城跡。かつてあったと推測される泥田堀、そして今もはっきりと残る二重土塁や空堀。戦国時代の平城が、こんな良好な状態で存在し、縄張り全体が見渡せるのですから素晴らしいですね。

これほどの城跡が、あまり世間に知られていないのは勿体ないことです。そもそも、ここ嵐山も「あらしやま」とか呼ばれているのではないでしょうか?これは「らんざん」と読みます。埼玉県中部に位置する町です。戦国時代、諸将の勢力が交錯する場所であったことから、結果として多くの城が築かれました。その嵐山町を含む埼玉県比企郡には、中世以降「放っとかれた城跡」が多数存在しています。全国的には有名でないことが、逆に探究心を掻き立てます。

<杉山城跡の写真>
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嵐山駅で撮影しました。この瞬間まで、私は杉山城の存在を知りませんでした。

あら…これ凄いやこれ…
しばらく立ちつくしました。

行ってみたいなぁ…

ただこの日は電車での訪問。杉山城も嵐山町の城跡ですが、駅からやや距離があることを知り、断念しました。時間の制約もありましたので。

帰宅してから調べたら、杉山城もやはり中世の城。堀や土塁、曲輪が良好に残る山城跡です。北条氏関係の城、いやそうではない等々、情報はいろいろと交錯しているようです。「つわものどもが城の跡」の「つわもの」が誰なのか、これはもちろん関心事です。ただ、城の遺構があのレベルで確認できるなら、それだけで見に行く価値があります。実際には行ってないので「行く価値があると思います」としておきます。きっと菅谷館跡なみに、城跡好きが鳥肌をたてる城跡なのでしょうね。

埼玉県比企郡嵐山町

いつかまた必ず訪問すると思います。


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2017年03月23日

菅谷館のなごり(嵐山町)中世の土の城

つわものどもが夢の跡
鎌倉時代に畠山重忠が住居したと伝わる場所を訪ねました。

<菅谷館跡>すがややかたあと
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二の丸と三の丸を隔てる空堀です。

■ 畠山重忠の館跡 ■はたけやましげただ
畠山重忠といえば、鎌倉幕府の有力御家人。源頼朝の幕府設立に大きく貢献しました。私のイメージでは清廉潔白な武士の鑑のような人。代表的な坂東武者ですね。ここはそのゆかりの地ということになります。

<説明板>
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畠山重忠は『長寛二年(1164年)、畠山荘司重能を父とし、相糢の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。』と記されています。生まれは武蔵国内の別の場所、やがてここ菅谷を拠点としたわけですね。以下省略しますが『武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。』という説明がいいですね。

源頼朝の死後、畠山重忠は実権を握った北条時政の謀略により命を落とします。「鎌倉に異変あり」との急報に、僅かな兵を率いて「菅谷館」を出発しましたが、二俣川(現在の横浜市旭区)で大勢の北条勢に囲まれ討ち死にしました。騙し討ちにあったわけですね。その後については、畠山氏とこの城の関係は不明。戦国時代に誰かの手によって改築されて、城とし機能していたことは明らかなようです。

現地の説明にはありませんが、太田資康(この方は太田道灌の嫡男です)が河越城(川越城)に対するおさえとして城主をつとめたとする説が有力とのこと。ただ、不確かな要素もあるようです。まぁとにかく、この城跡の遺構は畠山重忠の時代のものではないにせよ、中世のものということですね。


■ 中世の土の城 ■
<三の丸外側の堀と土塁>
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廃城好きの人が一番好きな時代ではないでしょうか。館跡というから、もう少しスケールの小さいものを想像していましたが、中世らしい土の城。立派な城郭です。

<土塁>
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遺構を残しながら綺麗に整備してもらっているので、とても見やすい。土塁も良好、曲輪の配置も分かり安いですね。縄張りは本丸を中心とした配置になっています。平城ですが、ここは川や湿地に守られた要害。地形の説得力もあります。

<縄張り>お城の設計
RanzanSu (8).jpg
本丸などの位置が記されています。この説明板だと本郭(ほんぐるわ)。厳密なことを言うと、中世の場合は「二の丸」「三の丸」というより「二ノ郭」「三ノ郭」と表現します。でも同じことなので、当ブログでは分りやすく「丸」で通しますね。

地形についてもう少し付け加えると、まずここは都幾川と槻川の合流付近の丘陵です。本丸の南が都幾川を臨む崖状の地形。東西には侵食谷が深く切り込む自然環境となっています。

北に向っては二の丸、三の丸といった曲輪を配置していますので、守りは完璧。この縄張り図だと、下方向が北になります。

この城跡は、これら縄張りの思惑が非常に実感しやすい。「どういうつもりか」が伝わってくる。ヘンな言い方になりますが、良く考えて作られていることが良く分かる城跡です。

<説明板>
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二重土塁と泥田堀・・・説明も親切で分りやすいです。

正直、ここまで素晴らしい城跡だとは思っていませんでした。行ってみてビックリ。私の訪問は、まだ寒さが残る3月。枯れた草の感じがちょうどいいです(私にとってですが)。

ここ菅谷館跡はあまり有名ではありませんが、中世の土の城郭が好きな人にはたまらないと思います。それでいて、入門者にも理解しやすい。ありがとうと言いたくなる訪問でした。

■つわものどもが夢の跡■
RanzanSu (7).jpg
感謝したくなる遺構でした。

■訪問:菅谷館
[埼玉県比企郡嵐山町菅谷]


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