鎌倉時代に畠山重忠が住居したと伝わる場所を訪ねました。
<菅谷館跡>すがややかたあと
二の丸と三の丸を隔てる空堀です。
■ 畠山重忠の館跡 ■はたけやましげただ
畠山重忠といえば、鎌倉幕府の有力御家人。源頼朝の幕府設立に大きく貢献しました。私のイメージでは清廉潔白な武士の鑑のような人。代表的な坂東武者ですね。ここはそのゆかりの地ということになります。
<説明板>
畠山重忠は『長寛二年(1164年)、畠山荘司重能を父とし、相糢の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。』と記されています。生まれは武蔵国内の別の場所、やがてここ菅谷を拠点としたわけですね。以下省略しますが『武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。』という説明がいいですね。
源頼朝の死後、畠山重忠は実権を握った北条時政の謀略により命を落とします。「鎌倉に異変あり」との急報に、僅かな兵を率いて「菅谷館」を出発しましたが、二俣川(現在の横浜市旭区)で大勢の北条勢に囲まれ討ち死にしました。騙し討ちにあったわけですね。その後については、畠山氏とこの城の関係は不明。戦国時代に誰かの手によって改築されて、城とし機能していたことは明らかなようです。
現地の説明にはありませんが、太田資康(この方は太田道灌の嫡男です)が河越城(川越城)に対するおさえとして城主をつとめたとする説が有力とのこと。ただ、不確かな要素もあるようです。まぁとにかく、この城跡の遺構は畠山重忠の時代のものではないにせよ、中世のものということですね。
■ 中世の土の城 ■
<三の丸外側の堀と土塁>
廃城好きの人が一番好きな時代ではないでしょうか。館跡というから、もう少しスケールの小さいものを想像していましたが、中世らしい土の城。立派な城郭です。
<土塁>
遺構を残しながら綺麗に整備してもらっているので、とても見やすい。土塁も良好、曲輪の配置も分かり安いですね。縄張りは本丸を中心とした配置になっています。平城ですが、ここは川や湿地に守られた要害。地形の説得力もあります。
<縄張り>お城の設計
本丸などの位置が記されています。この説明板だと本郭(ほんぐるわ)。厳密なことを言うと、中世の場合は「二の丸」「三の丸」というより「二ノ郭」「三ノ郭」と表現します。でも同じことなので、当ブログでは分りやすく「丸」で通しますね。
地形についてもう少し付け加えると、まずここは都幾川と槻川の合流付近の丘陵です。本丸の南が都幾川を臨む崖状の地形。東西には侵食谷が深く切り込む自然環境となっています。
北に向っては二の丸、三の丸といった曲輪を配置していますので、守りは完璧。この縄張り図だと、下方向が北になります。
この城跡は、これら縄張りの思惑が非常に実感しやすい。「どういうつもりか」が伝わってくる。ヘンな言い方になりますが、良く考えて作られていることが良く分かる城跡です。
<説明板>
二重土塁と泥田堀・・・説明も親切で分りやすいです。
正直、ここまで素晴らしい城跡だとは思っていませんでした。行ってみてビックリ。私の訪問は、まだ寒さが残る3月。枯れた草の感じがちょうどいいです(私にとってですが)。
ここ菅谷館跡はあまり有名ではありませんが、中世の土の城郭が好きな人にはたまらないと思います。それでいて、入門者にも理解しやすい。ありがとうと言いたくなる訪問でした。
■つわものどもが夢の跡■
感謝したくなる遺構でした。
■訪問:菅谷館
[埼玉県比企郡嵐山町菅谷]
お城巡りランキング
タグ:埼玉