つわものどもが夢の跡
今回は北条氏康率いる軍勢が築いたとされる土塁の話です。
<土塁>
住宅地にそびえ立つ土の塊がひときわ目を引きます。
<北条氏の土塁>
この土塁は松山城を攻める小田原の北条氏が、この地に陣を敷いた際に築き上げたと考えられています(1562年: 松山城の戦い)。
<説明板>
現地説明板の後半にその旨が記載されています。いわば戦国時代のなごりということですね。
この頃の北条氏は関東へ勢力を拡大している真っ最中。現在の埼玉県では、上杉謙信とこれを支持する岩槻の太田氏が激しくこれに抵抗し、壮絶な戦いが繰り返されていました。東松山市の松山城は、両者の争奪戦の舞台となった城。その城を攻略すべく兵を進めた北条氏が、陣城としてこの地を利用し、堀や土塁を築いたということですね。
宅地化が進むなかにあって、そのなごりを今でも感じることができる。凄く素晴らしいことに思えるのは、私だけではないはずです。立派な石垣や天守閣のある城も魅力的ですが、こういった歴史の破片のようなものに、心ひかれてしまいます。
<高済寺>
お邪魔したのは東松山市高坂の高済寺さんです。
実はここを訪ねるのは二度目です。前回訪問した頃には、開発により遺構が失われるのではないかという噂もありました(城好きの仲間内の話です)。それを自分の目で確認したかった。今回はそんな感じの訪問でした。
<前回訪問>2019年1月
<今回訪問>2021年5月
土塁は勿論、埋められてしまうのではないかと言われていた堀も残っています。人様の敷地ですからとやかく言えませんが、安心しました。
ということで
土塁も堀もしっかり残っていたというだけの内容でした。ここ『高坂館跡』については別途投稿しておりますので、良かったら覗いてみて下さい。
投稿:2019年03月09日
高坂館跡
北条氏の土塁・加賀爪氏歴代の墓
→『記事へすすむ』
以上です。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
■訪問:高済寺
(高坂館跡)
[埼玉県東松山市高坂]834
-------■ 高坂館 ■-------
別 名:高坂城 高坂陣屋
築城年:14世紀
築城者:高坂氏
改修者:北条氏
城 主:高坂氏・加賀爪氏
廃 城:詳細不明
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2021年06月05日
2021年05月23日
土呂陣屋跡 旗本となった武田家臣・初鹿野信昌の足跡
つわものどもが夢の跡
かつて旗本の陣屋があったとされるさいたま市北区の微高地を訪ねました。
<土呂の地蔵堂>とろのじぞうどう
現地をさ迷ったあげくにたどり着いた地蔵堂です。こちらに設置されている説明板で、やっと目的地へ来れた気がしました。それくらい何も残されていない陣屋跡です。
<説明板>
さいたま市の説明板です。以下に抜粋させて頂きます。
『この地蔵堂は、地元の人の話によると、かなり古くからこの地にあって、村民の信仰をあつめていたといわれている。一説には、江戸時代の土呂村領主旗本 初代初鹿野氏が近くにある同家の墓守堂として建てられたものともいわれているが、『新編武蔵風土記稿』には「村民の持」と記されているのみで、その創建や由来については詳かではない。』
とのこと。真ん中の一部を省略して(スミマセン)旗本に関する部分の抜粋を続けさせて頂きます。
『初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正十八年(1590年)徳川氏の関東入国に伴って土呂村の領主となったもので、この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。また、東武線南側の墓地跡には初鹿野氏の墓碑が残っている。』
[抜粋ː現地説明板(さいたま市)]
とても参考にありました。さいたま市さん、ありがとうございます。
文面によれば、陣屋の主は、もともとは甲斐武田の家臣だったのですね。武田信玄の後継者である勝頼が、織田信長・徳川家康連合軍に追い詰められ滅亡したのが天正十年(1582)。代わって甲斐を領した家康は、武田家の遺臣の多くを保護しています。まぁそうでもしないと、五カ国の領主となった家康としては、全てを治めることは困難ですよね。その家康が関東へ移る時に、既に徳川家臣となっていた初鹿野氏も関東へ移った(1590年以降)。そういう理解しました。
■初鹿野信昌■はじかの のぶまさ
家康の関東入国に伴って土呂村の領主となったのが初鹿野信昌(昌久)。Wikiさんから引用させて頂くと、表が香車で裏が成金と記した陣羽織を羽織ったことから香車伝右衛門と呼ばれたそうです。敵陣へ飛び込んで金と成る。勇ましいですね。
この方、元の名は加藤弥五郎といいます。加藤?信昌はもともとは都留郡国衆の加藤氏の出です。実父の加藤虎景はあの武田信玄に兵法を指南したとされる武将。凄いですね。信昌はその六男でした。養子となって武田氏庶流である初鹿野氏を継いだようです(川中島の戦いで初鹿野忠次が戦死したため)。信昌は家康に仕えてからも幾多の戦いに従軍し、その働きがあって幕府の旗本にまでなったわけですね。
ところで
私は「現地をさ迷ったあげくにたどり着いた」と冒頭に触れさせて頂きましたが、実は事前に陣屋跡の目印としていたのは立派な医療施設のビルでした。
<メディカルセンター>
立派です。これなら遠くからも目立ちます。ここを目的地に定め歩いてきました。そして、このビルの正面が土呂陣屋跡!のはずでした。
<駐車場>
あら・・・
遺構がないのは覚悟していましたが、説明板もなく、そして何より、あてにしていた地蔵堂の姿が見えません。
地蔵堂そのものも移転してしまったのでしょうか…
<高低差>
陣屋があったとされる付近は周囲より高い位置にある。半ば諦めながらそれだけを収穫として帰ろうとした時、遠くにそれらしき建物をみつけ、小走りになって地蔵堂へ辿り着きました。
おいおい、こっちだよ
ご苦労さん
まことに勝手なながら、武田一族でもある初鹿野氏が私を呼び寄せてくれたのだと思いました(現地では)。武田も好きですが上杉ファンを自負しているので、なんとなく寛容な扱いを受けた気がしました(おバカな会社員が勝手に感謝したと受けてめて下さい)。
地蔵堂発見後、近くの初鹿野氏ゆかりの神社を訪ねました
<線路越しに見る地蔵堂>
すぐ近くの東武野田線を越えて見上げる地蔵堂。あそこが陣屋跡そのものではないようですが、やはりやや高い位置にあります。そんなことを感じながら北東へ進んでいくと
<御嶽社>
ここですね。線路脇に鎮座する御嶽社。まだ新しい感じがします。どうやら別の場所から移転してここに鎮座しているようです。
<説明板>
なるほど。冒頭だけ以下に抜粋させて頂きます。
『この社は村の鎮守で、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)に土呂村の領主初鹿野昌久が甲州から同氏の氏神として勧請したものと伝えられています。』
とのこと。初鹿野氏が治めた村の鎮守だったわけですね。
現地探索は以上です
■つわものどもが夢の跡■
甲斐武田家臣の武将が徳川幕府の旗本となって、この地に根をはった。それだけでも感慨深いですが、初鹿野氏の知行が幕末までの長きに渡ったことに重みを感じます。遺構なくともここはその拠点だった場所。訪問して良かったと思えました。
香車が金に成った場所なのかもしれませんね
-------■土呂陣屋■-------
別 名:初鹿野氏館
築城年:(江時時代初期)
築城者:初鹿野信昌(昌久)
屋敷主:初鹿野氏
[埼玉県さいたま市北区土呂町]
・地蔵堂
[北区土呂町]1496
・御嶽社
[大宮区寿能町]2丁目
■参考及び出典
・地蔵堂説明板(さいたま市)
・御嶽社説明板(さいたま市)
・Wikipedia:2021/5/23
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かつて旗本の陣屋があったとされるさいたま市北区の微高地を訪ねました。
<土呂の地蔵堂>とろのじぞうどう
現地をさ迷ったあげくにたどり着いた地蔵堂です。こちらに設置されている説明板で、やっと目的地へ来れた気がしました。それくらい何も残されていない陣屋跡です。
<説明板>
さいたま市の説明板です。以下に抜粋させて頂きます。
『この地蔵堂は、地元の人の話によると、かなり古くからこの地にあって、村民の信仰をあつめていたといわれている。一説には、江戸時代の土呂村領主旗本 初代初鹿野氏が近くにある同家の墓守堂として建てられたものともいわれているが、『新編武蔵風土記稿』には「村民の持」と記されているのみで、その創建や由来については詳かではない。』
とのこと。真ん中の一部を省略して(スミマセン)旗本に関する部分の抜粋を続けさせて頂きます。
『初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正十八年(1590年)徳川氏の関東入国に伴って土呂村の領主となったもので、この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。また、東武線南側の墓地跡には初鹿野氏の墓碑が残っている。』
[抜粋ː現地説明板(さいたま市)]
とても参考にありました。さいたま市さん、ありがとうございます。
文面によれば、陣屋の主は、もともとは甲斐武田の家臣だったのですね。武田信玄の後継者である勝頼が、織田信長・徳川家康連合軍に追い詰められ滅亡したのが天正十年(1582)。代わって甲斐を領した家康は、武田家の遺臣の多くを保護しています。まぁそうでもしないと、五カ国の領主となった家康としては、全てを治めることは困難ですよね。その家康が関東へ移る時に、既に徳川家臣となっていた初鹿野氏も関東へ移った(1590年以降)。そういう理解しました。
■初鹿野信昌■はじかの のぶまさ
家康の関東入国に伴って土呂村の領主となったのが初鹿野信昌(昌久)。Wikiさんから引用させて頂くと、表が香車で裏が成金と記した陣羽織を羽織ったことから香車伝右衛門と呼ばれたそうです。敵陣へ飛び込んで金と成る。勇ましいですね。
この方、元の名は加藤弥五郎といいます。加藤?信昌はもともとは都留郡国衆の加藤氏の出です。実父の加藤虎景はあの武田信玄に兵法を指南したとされる武将。凄いですね。信昌はその六男でした。養子となって武田氏庶流である初鹿野氏を継いだようです(川中島の戦いで初鹿野忠次が戦死したため)。信昌は家康に仕えてからも幾多の戦いに従軍し、その働きがあって幕府の旗本にまでなったわけですね。
ところで
私は「現地をさ迷ったあげくにたどり着いた」と冒頭に触れさせて頂きましたが、実は事前に陣屋跡の目印としていたのは立派な医療施設のビルでした。
<メディカルセンター>
立派です。これなら遠くからも目立ちます。ここを目的地に定め歩いてきました。そして、このビルの正面が土呂陣屋跡!のはずでした。
<駐車場>
あら・・・
遺構がないのは覚悟していましたが、説明板もなく、そして何より、あてにしていた地蔵堂の姿が見えません。
地蔵堂そのものも移転してしまったのでしょうか…
<高低差>
陣屋があったとされる付近は周囲より高い位置にある。半ば諦めながらそれだけを収穫として帰ろうとした時、遠くにそれらしき建物をみつけ、小走りになって地蔵堂へ辿り着きました。
おいおい、こっちだよ
ご苦労さん
まことに勝手なながら、武田一族でもある初鹿野氏が私を呼び寄せてくれたのだと思いました(現地では)。武田も好きですが上杉ファンを自負しているので、なんとなく寛容な扱いを受けた気がしました(おバカな会社員が勝手に感謝したと受けてめて下さい)。
地蔵堂発見後、近くの初鹿野氏ゆかりの神社を訪ねました
<線路越しに見る地蔵堂>
すぐ近くの東武野田線を越えて見上げる地蔵堂。あそこが陣屋跡そのものではないようですが、やはりやや高い位置にあります。そんなことを感じながら北東へ進んでいくと
<御嶽社>
ここですね。線路脇に鎮座する御嶽社。まだ新しい感じがします。どうやら別の場所から移転してここに鎮座しているようです。
<説明板>
なるほど。冒頭だけ以下に抜粋させて頂きます。
『この社は村の鎮守で、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)に土呂村の領主初鹿野昌久が甲州から同氏の氏神として勧請したものと伝えられています。』
とのこと。初鹿野氏が治めた村の鎮守だったわけですね。
現地探索は以上です
■つわものどもが夢の跡■
甲斐武田家臣の武将が徳川幕府の旗本となって、この地に根をはった。それだけでも感慨深いですが、初鹿野氏の知行が幕末までの長きに渡ったことに重みを感じます。遺構なくともここはその拠点だった場所。訪問して良かったと思えました。
香車が金に成った場所なのかもしれませんね
-------■土呂陣屋■-------
別 名:初鹿野氏館
築城年:(江時時代初期)
築城者:初鹿野信昌(昌久)
屋敷主:初鹿野氏
[埼玉県さいたま市北区土呂町]
・地蔵堂
[北区土呂町]1496
・御嶽社
[大宮区寿能町]2丁目
■参考及び出典
・地蔵堂説明板(さいたま市)
・御嶽社説明板(さいたま市)
・Wikipedia:2021/5/23
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2021年03月13日
羽生城のなごり
つわものどもが夢の跡
今回は埼玉県羽生市の城跡です
<羽生城>はにゅうじょう
上杉謙信の関東出兵において重要な拠点となった城跡です
■現地訪問■
私は羽生駅から徒歩で現地へ向かいました。その途上、こんな橋を渡りました。
<城橋>
なんとなく気分が盛り上がる名前です
もう少し進むと
<道しるべ>
ここに記載されている『羽生古城天満宮』がこの日のゴール。これもまた気分が盛り上がる名前です
<羽生城跡>
到着しました。羽生駅から20分くらいでしょうか。遺構らしい遺構は無いことを事前に聞いていましたので、何となく地形を意識しながらゆっくり歩いてきました。多少の起伏を除くと、駅からここまでほぼ平らな地形です。
<天満宮>
城跡の天満宮
<史跡羽生城址>
立派な石碑です
<説明板>
石碑の隣には説明板。城の歴史と縄張り図が記されています。ちょっと見てみますかね
<羽生古城之図>
ちょっと影で見にくいですが、雰囲気は伝わると思います。平らな低地の微高地に築かれた城だったのでしょう。埼玉県の平野にありがちですが、城は沼地に取り囲まれた浮き城のようです。いまでこそこの付近も整備されていますが、大昔は水郷だったのでしょう。そこに築かれた平城が今回訪問の羽生城ということですね。円状に設けられた曲輪の中央が本丸、西側が二の丸。右上(北東)の蓮池に面したところに建物が記されています。いま立っている場所があの位置と受け止めました。つまり、ここは本丸跡ではないということですね。
さて
羽生城の歴史について事前に知っていたことは、あの上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東攻略の拠点とし、のちに小田原北条氏の配下に組み込まれたということだけです。現地の説明板で、もうちょっと詳しい情報を得ました。予習なしの訪問者にはありがたい説明です。折角ですので以下に抜粋させて頂きます(部分的に文字を省略していますがご容赦下さい。)
【羽生城のうつりかわり】
西暦 主な事項
1540年代:広田直繁・木戸忠朝兄弟によって築城
1544年:古河公方(足利義氏)敗れ小田原北条氏の支配下になる
1560年:広田直繁・木戸忠朝 上杉謙信に属す
1561年:木戸忠朝 皿尾城(現在の行田市)に移る
広田直繁 羽生城を守る
1570年:広田直繁 館林城に移る
木戸忠朝 羽生城を守る
1574年:木戸氏上州の膳城に移り、羽生城北条氏に攻められ落城
忍城の支城となる
1590年:大久保忠隣 羽生城主となり、1万石を領す
1614年:忠隣、徳川家康の不振を買い、城地は没収され羽生城も廃城となる
[出典:現地説明板]
築城者である兄弟、広田直繁と木戸忠朝を中心に羽生城の歴史が紹介されています。あとで調べたことを補足すると、広田直繁が兄で、木戸忠朝が弟です。北武蔵において、忍城の成田氏と勢力争いをした木戸氏。弟が家督を継ぎ、兄は同じく北武蔵の地元豪族の広田氏を継いだようです(細かい事情まではわかりませんでした)。
つづいて
『古河公方敗れ小田原北条氏の支配下になる』ですが、兄弟は揃って古河公方に従っていましたが、その古河公方が北条氏に敗れてしまったことで、一度は城を奪われたということですね。しかし関東へ出兵する『上杉謙信に属す』ことで兄弟は羽生城を奪回。そのあと広田直繁は『館林城に移る』とありますので、謙信からよほど期待されていたのでしょう。館林城も謙信の重要拠点だったことで知られています。
上杉謙信と言えば、いうまでもなく現在の新潟県を本拠とした武将。関東出兵での拠点というと、私はまず前橋城(厩橋城)ほか群馬県の城を想像します。しかし今回訪問の羽生城は埼玉県です。山を越えて関東に入り、更に南下するための拠点ということでしょうか。南へ進むほど、小田原の北条氏と勢力が重なることになります。上杉謙信にとって、羽生城は関東攻略のための最前線の城のひとつだったのかもしれません。
説明板によれば、1574年に『羽生城北条氏に攻められ落城』となり、以降は北条配下の『忍城の支城と』なったようです。少しだけ補足すると、上杉対北条の争いが激化し、諸々の経緯を経たのち、羽生城は謙信の指示で破却され、木戸忠朝は城兵とともに群馬県の膳城に移されたそうです。
上杉謙信としては、守り切れない拠点を手放して、信頼できる木戸忠朝率いる兵力を温存したわけですね。木戸忠朝は討ち死にしてしまい、兵だけが膳城に移されたとする説もありますが、とりあえず前者を信じることにします。
<古城天満宮>
羽生城は上杉謙信が救援に駆けつける重要な城でした。遺構はなく、いまはかつての城の一部(天神曲輪跡)に天満宮が鎮座しています。この神社は藤原秀郷による創建に始まります。城主である木戸忠朝が古城天満宮と改称し、城の守護神としたと伝わります。
やがて戦国時代末期
豊臣秀吉による小田原征伐により、北条氏は滅亡。関東には徳川家康が入ります。羽生城は大久保忠隣(ただちか)に与えられました。忠隣は古くからの家康の家臣です。数々の戦で武功を立てるとともに、三方ヶ原で大敗を喫して敗走する時も、はたまた織田信長死後の伊賀越えの際にも、家康と同行していた武将です。家康から高く評価され、武蔵国羽生2万石を拝領しました。羽生城には城代がおかれ、徳森伝蔵らがつとめました。
大久保忠隣はやがて幕府の中核を担う存在となりますが、説明板にもある通り『1614年:忠隣、徳川家康の不振を買い、城地は没収され羽生城も廃城』となりました。老中や小田原藩主にもなった大物なんですがね。失脚の経緯はかなり複雑なため、今回は省略致します。
<羽生城のなごり>
江戸初期まで城があったとは思えない景色ですが、ここには確かに武士の拠点がありました。三方を沼地で囲まれた天然の要害は、中世においては上杉謙信の戦略上の重要拠点、そしてそれに呼応する地元豪族の広田直繁・木戸忠朝兄弟の思いが込められた城でした。天満宮の境内であるがゆえに宅地化されなかった敷地に、微かながら城のなごりが漂います。
<つわものどもが夢の跡>
------■ 羽生城 ■------
築城主:木戸忠朝
築城年:詳細不明(1540年代)
改修者:広田直繁・大久保忠隣
城 主:木戸氏・成田氏・大久保氏
廃城年:1614年(慶長19)
[埼玉県羽生市東]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2021/3/13
現地説明板
お城巡りランキング
今回は埼玉県羽生市の城跡です
<羽生城>はにゅうじょう
上杉謙信の関東出兵において重要な拠点となった城跡です
■現地訪問■
私は羽生駅から徒歩で現地へ向かいました。その途上、こんな橋を渡りました。
<城橋>
なんとなく気分が盛り上がる名前です
もう少し進むと
<道しるべ>
ここに記載されている『羽生古城天満宮』がこの日のゴール。これもまた気分が盛り上がる名前です
<羽生城跡>
到着しました。羽生駅から20分くらいでしょうか。遺構らしい遺構は無いことを事前に聞いていましたので、何となく地形を意識しながらゆっくり歩いてきました。多少の起伏を除くと、駅からここまでほぼ平らな地形です。
<天満宮>
城跡の天満宮
<史跡羽生城址>
立派な石碑です
<説明板>
石碑の隣には説明板。城の歴史と縄張り図が記されています。ちょっと見てみますかね
<羽生古城之図>
ちょっと影で見にくいですが、雰囲気は伝わると思います。平らな低地の微高地に築かれた城だったのでしょう。埼玉県の平野にありがちですが、城は沼地に取り囲まれた浮き城のようです。いまでこそこの付近も整備されていますが、大昔は水郷だったのでしょう。そこに築かれた平城が今回訪問の羽生城ということですね。円状に設けられた曲輪の中央が本丸、西側が二の丸。右上(北東)の蓮池に面したところに建物が記されています。いま立っている場所があの位置と受け止めました。つまり、ここは本丸跡ではないということですね。
さて
羽生城の歴史について事前に知っていたことは、あの上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東攻略の拠点とし、のちに小田原北条氏の配下に組み込まれたということだけです。現地の説明板で、もうちょっと詳しい情報を得ました。予習なしの訪問者にはありがたい説明です。折角ですので以下に抜粋させて頂きます(部分的に文字を省略していますがご容赦下さい。)
【羽生城のうつりかわり】
西暦 主な事項
1540年代:広田直繁・木戸忠朝兄弟によって築城
1544年:古河公方(足利義氏)敗れ小田原北条氏の支配下になる
1560年:広田直繁・木戸忠朝 上杉謙信に属す
1561年:木戸忠朝 皿尾城(現在の行田市)に移る
広田直繁 羽生城を守る
1570年:広田直繁 館林城に移る
木戸忠朝 羽生城を守る
1574年:木戸氏上州の膳城に移り、羽生城北条氏に攻められ落城
忍城の支城となる
1590年:大久保忠隣 羽生城主となり、1万石を領す
1614年:忠隣、徳川家康の不振を買い、城地は没収され羽生城も廃城となる
[出典:現地説明板]
築城者である兄弟、広田直繁と木戸忠朝を中心に羽生城の歴史が紹介されています。あとで調べたことを補足すると、広田直繁が兄で、木戸忠朝が弟です。北武蔵において、忍城の成田氏と勢力争いをした木戸氏。弟が家督を継ぎ、兄は同じく北武蔵の地元豪族の広田氏を継いだようです(細かい事情まではわかりませんでした)。
つづいて
『古河公方敗れ小田原北条氏の支配下になる』ですが、兄弟は揃って古河公方に従っていましたが、その古河公方が北条氏に敗れてしまったことで、一度は城を奪われたということですね。しかし関東へ出兵する『上杉謙信に属す』ことで兄弟は羽生城を奪回。そのあと広田直繁は『館林城に移る』とありますので、謙信からよほど期待されていたのでしょう。館林城も謙信の重要拠点だったことで知られています。
上杉謙信と言えば、いうまでもなく現在の新潟県を本拠とした武将。関東出兵での拠点というと、私はまず前橋城(厩橋城)ほか群馬県の城を想像します。しかし今回訪問の羽生城は埼玉県です。山を越えて関東に入り、更に南下するための拠点ということでしょうか。南へ進むほど、小田原の北条氏と勢力が重なることになります。上杉謙信にとって、羽生城は関東攻略のための最前線の城のひとつだったのかもしれません。
説明板によれば、1574年に『羽生城北条氏に攻められ落城』となり、以降は北条配下の『忍城の支城と』なったようです。少しだけ補足すると、上杉対北条の争いが激化し、諸々の経緯を経たのち、羽生城は謙信の指示で破却され、木戸忠朝は城兵とともに群馬県の膳城に移されたそうです。
上杉謙信としては、守り切れない拠点を手放して、信頼できる木戸忠朝率いる兵力を温存したわけですね。木戸忠朝は討ち死にしてしまい、兵だけが膳城に移されたとする説もありますが、とりあえず前者を信じることにします。
<古城天満宮>
羽生城は上杉謙信が救援に駆けつける重要な城でした。遺構はなく、いまはかつての城の一部(天神曲輪跡)に天満宮が鎮座しています。この神社は藤原秀郷による創建に始まります。城主である木戸忠朝が古城天満宮と改称し、城の守護神としたと伝わります。
やがて戦国時代末期
豊臣秀吉による小田原征伐により、北条氏は滅亡。関東には徳川家康が入ります。羽生城は大久保忠隣(ただちか)に与えられました。忠隣は古くからの家康の家臣です。数々の戦で武功を立てるとともに、三方ヶ原で大敗を喫して敗走する時も、はたまた織田信長死後の伊賀越えの際にも、家康と同行していた武将です。家康から高く評価され、武蔵国羽生2万石を拝領しました。羽生城には城代がおかれ、徳森伝蔵らがつとめました。
大久保忠隣はやがて幕府の中核を担う存在となりますが、説明板にもある通り『1614年:忠隣、徳川家康の不振を買い、城地は没収され羽生城も廃城』となりました。老中や小田原藩主にもなった大物なんですがね。失脚の経緯はかなり複雑なため、今回は省略致します。
<羽生城のなごり>
江戸初期まで城があったとは思えない景色ですが、ここには確かに武士の拠点がありました。三方を沼地で囲まれた天然の要害は、中世においては上杉謙信の戦略上の重要拠点、そしてそれに呼応する地元豪族の広田直繁・木戸忠朝兄弟の思いが込められた城でした。天満宮の境内であるがゆえに宅地化されなかった敷地に、微かながら城のなごりが漂います。
<つわものどもが夢の跡>
------■ 羽生城 ■------
築城主:木戸忠朝
築城年:詳細不明(1540年代)
改修者:広田直繁・大久保忠隣
城 主:木戸氏・成田氏・大久保氏
廃城年:1614年(慶長19)
[埼玉県羽生市東]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2021/3/13
現地説明板
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2021年01月16日
城山神社(所沢)滝の城のなごり
今回は中世の山城跡に鎮座する神社の話です。その名も城山神社!ほぼそのままですね。
<拝殿>
山頂に鎮座する長い歴史の神社です。愛宕社や熊野社などが合祀されいまに至ります。
■訪問■
この日は城の天然堀でもあった柳瀬川沿いから現地へ向かいました。
<城前橋>
この橋を渡ればまもなくです。その名も城前橋!こちらもほぼそのままです。
<山>
この山が今回の目的地。頂上付近に神社の幟が見えています。ちょっとした崖になっているあの地点を目指します。山の麓は市民のための運動公園。といっても、私の訪問時には誰もいない状態でした。真冬ということもありますが、やはり新型コロナウィルスの影響ですね。
<注意>
私もいわゆる『密』を避けてこのような場所へ来ましたが、別なものに注意が必要です。
<社号標と鳥居>
さて、ここから登ります。城跡として訪問した時は別ルートでしたが、今回は神社を目がけてミニ登山です。
<城山神社>
到着です。ここはかつての城の本丸跡。いまでは神社の境内です。創建に関する詳細は不明ながら、かなり古くからこの地に祀られていたらしく、城が築かれたのはその後のお話のようです。
<城内の鎮守>
やがて城の鎮守となり、城亡き後もその歴史は続きます。重厚な拝殿です。
<滝の城>たきのじょう
こちらは境内、つまり本丸跡の石碑です。城は『滝の城』と呼ばれています。
<説明板>
あまり大きくはありませんが、深い歴史の刻まれた城跡です。そしてなんといっても遺構が見事。埼玉県指定史跡に指定されています。
<空堀>からぼり
<堀切>
<二重堀>
<曲輪>くるわ
見事です
<本丸虎口>
土橋です。ここが本丸への入り口だったようです。向こう側は冒頭の神社の裏手になります。ちょっと直接渡ることはできないので、本丸側へ戻ります。
<神社の裏手>
神社の裏側に来ました。
<本殿>
城山神社の本殿です。
<説明板>
本丸虎口に関係する説明板が設置されています。ここには門があり、馬出しや三の丸への通路として橋が架かけられていたと記されています。
<三の丸>
歴史の長いこの城も、戦国末期に小田原北条氏の配下だったことから、豊臣秀吉による小田原征伐の際に落城し、それ以降は城として利用されることはありませんでした。
戦の拠点が失われても民は残ります。まして、この地は城が築かれる前から人の営みのあった場所。落城とともに城内の神社は一旦失われたようですが、地元民が再び神を祀り今に至っています。
<山頂の鳥居>
ということで
名前と境内の周辺に『城のなごり』が漂う神社のご紹介でした。主役は神社でありながら城の画像の方が多いですね。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:城山神社
(滝の城跡)
[埼玉県所沢市城]
お城巡りランキング
-------追 記-------
城跡として訪問した『滝の城』については別途投稿しています。『ブログ』というものを手探りで始めた頃の記事ですが、良かったら覗いてみて下さい。
『所沢の城跡 滝の城』
[投稿:2017年4月18日]
→『記事へすすむ』
<拝殿>
山頂に鎮座する長い歴史の神社です。愛宕社や熊野社などが合祀されいまに至ります。
■訪問■
この日は城の天然堀でもあった柳瀬川沿いから現地へ向かいました。
<城前橋>
この橋を渡ればまもなくです。その名も城前橋!こちらもほぼそのままです。
<山>
この山が今回の目的地。頂上付近に神社の幟が見えています。ちょっとした崖になっているあの地点を目指します。山の麓は市民のための運動公園。といっても、私の訪問時には誰もいない状態でした。真冬ということもありますが、やはり新型コロナウィルスの影響ですね。
<注意>
私もいわゆる『密』を避けてこのような場所へ来ましたが、別なものに注意が必要です。
<社号標と鳥居>
さて、ここから登ります。城跡として訪問した時は別ルートでしたが、今回は神社を目がけてミニ登山です。
<城山神社>
到着です。ここはかつての城の本丸跡。いまでは神社の境内です。創建に関する詳細は不明ながら、かなり古くからこの地に祀られていたらしく、城が築かれたのはその後のお話のようです。
<城内の鎮守>
やがて城の鎮守となり、城亡き後もその歴史は続きます。重厚な拝殿です。
<滝の城>たきのじょう
こちらは境内、つまり本丸跡の石碑です。城は『滝の城』と呼ばれています。
<説明板>
あまり大きくはありませんが、深い歴史の刻まれた城跡です。そしてなんといっても遺構が見事。埼玉県指定史跡に指定されています。
<空堀>からぼり
<堀切>
<二重堀>
<曲輪>くるわ
見事です
<本丸虎口>
土橋です。ここが本丸への入り口だったようです。向こう側は冒頭の神社の裏手になります。ちょっと直接渡ることはできないので、本丸側へ戻ります。
<神社の裏手>
神社の裏側に来ました。
<本殿>
城山神社の本殿です。
<説明板>
本丸虎口に関係する説明板が設置されています。ここには門があり、馬出しや三の丸への通路として橋が架かけられていたと記されています。
<三の丸>
歴史の長いこの城も、戦国末期に小田原北条氏の配下だったことから、豊臣秀吉による小田原征伐の際に落城し、それ以降は城として利用されることはありませんでした。
戦の拠点が失われても民は残ります。まして、この地は城が築かれる前から人の営みのあった場所。落城とともに城内の神社は一旦失われたようですが、地元民が再び神を祀り今に至っています。
<山頂の鳥居>
ということで
名前と境内の周辺に『城のなごり』が漂う神社のご紹介でした。主役は神社でありながら城の画像の方が多いですね。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:城山神社
(滝の城跡)
[埼玉県所沢市城]
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-------追 記-------
城跡として訪問した『滝の城』については別途投稿しています。『ブログ』というものを手探りで始めた頃の記事ですが、良かったら覗いてみて下さい。
『所沢の城跡 滝の城』
[投稿:2017年4月18日]
→『記事へすすむ』
2020年10月17日
陣屋の土塁跡(野火止陣屋)
つわものどもが夢の跡
今回はかつて陣屋が設けられていたとされるエリアに残る土塁跡の話です。場所は埼玉県新座市です。
<土塁跡>
■野火止陣屋■のびどめ
まずは現地のバス停から
<バス停>
陣屋というバス停。城跡好きがわくわくするような名前です。地図上は存在していませんが、陣屋は地名(古い地名・小字)です。このバス停から歩いて数分のところに、お目当ての土塁があります。
<現地到着>
ありました。土塁です。そして説明板も設置されています。
<説明板>
詳細が記されています。ここでは「野火止用水陣屋堀」となっていますね。ちょっと長いので抜粋させて頂きます。新座市教育委員会さん、部分的な引用で申し訳ございません。
『松平伊豆守信綱は江戸の上水道である玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から三割の分水許可を得ました。承応四年(1655)、私領である野火止の地を開発する人々の生活水を確保するため、野火止が開削されます』とのこと。そして『寛文三年(1663)、岩槻にあった平林寺が野火止に移転されると、ここにも用水が引水されました』とあります。つまり支流も造られたということですね。それらが平林寺堀、陣屋堀と呼ばれたようです。
さて、ここまでは野火止用水の説明なので、もうちょっと引用させて頂きます。いよいよ陣屋の話です。『松平信綱の孫である輝貞が、高崎藩主であった際に、先祖が開拓し、墓を造営した土地を飛地として管理することが許されたため、高崎藩の陣屋が置かれました』とのこと。
[出典:現地説明板]
なるほど。いわば藩の出張所のような役割を担うために陣屋が設けられたということですね。説明の最後に、信綱の時代に、新田開発の拠点として既に既にあったという説もあることが付け加えられています。ただ、他の文献でも、陣屋は平林寺を守るために設けられたという見解が多いので、私はそちらの説を信じることにします。
ちょっと補足すると、川越城主の座は信綱を含め松平家で三代続きますが、のちに他家が入り、野火止も他家の支配するところとなります。信綱の孫で高崎城主の松平輝貞が幕府の許しを得たことで、野火止は再び松平家の知行地となり、平林寺前に出先機関として陣屋が置かれたということですね。
<平林寺>
松平伊豆守の墓所がある平林寺。埼玉県が誇る名刹です。陣屋はこの寺を守るために設けられました。そして、そこに住む武士の生活水として陣屋堀も開削されました。
<盛土>
■つわものどもが夢の跡■
土塁は堀(用水)の堤を兼ねていたというお話があります。また、現地の説明板も陣屋の土塁という表現ではなく、陣屋堀となっていました。つまり陣屋の用水跡と受け止めた方が良いような説明となっています。
ただまぁ、用水路が陣屋の外堀的な役割を果たしていたとも思えるので、私はあくまで陣屋の遺構と受け止めたいと思います。そのへんは城跡好き会社員のブログですので、寛容にお受けとめ下さい。
<土塁>
陣屋に出入りした武士たちも眺めたであろう土塁のなごりです。
■訪問:野火止陣屋
(野火止用水陣屋堀)
[埼玉県新座市野火止]1丁目
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今回はかつて陣屋が設けられていたとされるエリアに残る土塁跡の話です。場所は埼玉県新座市です。
<土塁跡>
■野火止陣屋■のびどめ
まずは現地のバス停から
<バス停>
陣屋というバス停。城跡好きがわくわくするような名前です。地図上は存在していませんが、陣屋は地名(古い地名・小字)です。このバス停から歩いて数分のところに、お目当ての土塁があります。
<現地到着>
ありました。土塁です。そして説明板も設置されています。
<説明板>
詳細が記されています。ここでは「野火止用水陣屋堀」となっていますね。ちょっと長いので抜粋させて頂きます。新座市教育委員会さん、部分的な引用で申し訳ございません。
『松平伊豆守信綱は江戸の上水道である玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から三割の分水許可を得ました。承応四年(1655)、私領である野火止の地を開発する人々の生活水を確保するため、野火止が開削されます』とのこと。そして『寛文三年(1663)、岩槻にあった平林寺が野火止に移転されると、ここにも用水が引水されました』とあります。つまり支流も造られたということですね。それらが平林寺堀、陣屋堀と呼ばれたようです。
さて、ここまでは野火止用水の説明なので、もうちょっと引用させて頂きます。いよいよ陣屋の話です。『松平信綱の孫である輝貞が、高崎藩主であった際に、先祖が開拓し、墓を造営した土地を飛地として管理することが許されたため、高崎藩の陣屋が置かれました』とのこと。
[出典:現地説明板]
なるほど。いわば藩の出張所のような役割を担うために陣屋が設けられたということですね。説明の最後に、信綱の時代に、新田開発の拠点として既に既にあったという説もあることが付け加えられています。ただ、他の文献でも、陣屋は平林寺を守るために設けられたという見解が多いので、私はそちらの説を信じることにします。
ちょっと補足すると、川越城主の座は信綱を含め松平家で三代続きますが、のちに他家が入り、野火止も他家の支配するところとなります。信綱の孫で高崎城主の松平輝貞が幕府の許しを得たことで、野火止は再び松平家の知行地となり、平林寺前に出先機関として陣屋が置かれたということですね。
<平林寺>
松平伊豆守の墓所がある平林寺。埼玉県が誇る名刹です。陣屋はこの寺を守るために設けられました。そして、そこに住む武士の生活水として陣屋堀も開削されました。
<盛土>
■つわものどもが夢の跡■
土塁は堀(用水)の堤を兼ねていたというお話があります。また、現地の説明板も陣屋の土塁という表現ではなく、陣屋堀となっていました。つまり陣屋の用水跡と受け止めた方が良いような説明となっています。
ただまぁ、用水路が陣屋の外堀的な役割を果たしていたとも思えるので、私はあくまで陣屋の遺構と受け止めたいと思います。そのへんは城跡好き会社員のブログですので、寛容にお受けとめ下さい。
<土塁>
陣屋に出入りした武士たちも眺めたであろう土塁のなごりです。
■訪問:野火止陣屋
(野火止用水陣屋堀)
[埼玉県新座市野火止]1丁目
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2020年08月31日
岩槻探索のおまけ(久伊豆神社)遺構に思えた盛り土
今月は岩槻探索ばかり投稿してきましたが、最後に『土塁かと思って後から調べたけど根拠がみつからなかった』盛り土をご紹介します。
<盛り土>
こちらです。右手は低地になっており、盛り土は低層の台地上にありました。
<久伊豆神社>
場所は南下新井の久伊豆神社付近。盛り土はこちらの境内の西側の道にありました。
神社そのものが周囲より高い位置にあります。
ここからは邪推に過ぎませんが、この付近が何らかの砦または屋敷跡だったのではないか?と現地で勝手に想像し、帰宅していろいろと調べました。しかし神社そのものの説明ばかりで、砦や屋敷に結び付く資料はみつけられませんでした。
室町時代末には勧請されていたとされる歴史ある神社です。
現地説明板なども確認しましたが、地元豪族の屋敷とか、そんな記載はいっさいありません。
まぁしっかりとした裏付けのある史跡を自分の目で見て回るという探索も楽しいですが、よくわからないものに足を止めて、勘違いも含めて楽しむのも、それはそれで楽しいです。
ということで
ちょっと中身のないお話となりました。ただ、似たような思いで地元探索などをしている方が共感してくれれば嬉しいです。
個人的にはいまでも砦かなにかの『土塁』と思っています
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<盛り土>
こちらです。右手は低地になっており、盛り土は低層の台地上にありました。
<久伊豆神社>
場所は南下新井の久伊豆神社付近。盛り土はこちらの境内の西側の道にありました。
神社そのものが周囲より高い位置にあります。
ここからは邪推に過ぎませんが、この付近が何らかの砦または屋敷跡だったのではないか?と現地で勝手に想像し、帰宅していろいろと調べました。しかし神社そのものの説明ばかりで、砦や屋敷に結び付く資料はみつけられませんでした。
室町時代末には勧請されていたとされる歴史ある神社です。
現地説明板なども確認しましたが、地元豪族の屋敷とか、そんな記載はいっさいありません。
まぁしっかりとした裏付けのある史跡を自分の目で見て回るという探索も楽しいですが、よくわからないものに足を止めて、勘違いも含めて楽しむのも、それはそれで楽しいです。
ということで
ちょっと中身のないお話となりました。ただ、似たような思いで地元探索などをしている方が共感してくれれば嬉しいです。
個人的にはいまでも砦かなにかの『土塁』と思っています
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2020年08月29日
城主に代わって天下軍2万と戦った宿老(岩槻太田氏家臣)伊達房実
つわものどもが夢の跡
今回は岩槻城に2千の兵で立て籠り、豊臣軍2万を迎え撃った武将の話です。
<岩槻城跡>
豊臣秀吉による小田原征伐の際、ここ岩槻城には2万の兵が押し寄せました。城主は小田原城に詰めていて不在。代わりに指揮をとったのが今回ご紹介する伊達房実(ふさざね)です。
■岩槻太田氏家臣■
以下はwikiさんの『岩槻城』からの抜粋です。
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等が率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
壮絶な戦いです。文中の『氏房』は本来の岩槻城主・北条氏房。まぁ既に太田氏を継いでいたわけですから太田氏房ですかね。あと、ここでは『浅野長吉』となっていますが、浅野長政と言ったほうがピンとくる方が多いような気がします。石田三成らとともに、豊臣政権下で五奉行の一角だった武将ですね。秀吉から信頼の厚い大物が率いる天下軍2万が、岩槻城に襲い掛かりました。
指揮をとった伊達房実は、岩槻太田氏に仕える古参にして、岩槻城の西を守る伊達城の城主です。改修により総構えとなっていた岩槻を守るべく、2千の兵を指揮して善戦しますが、最終的には落城となりました。伊達房実はここで討ち死にしたのではないかという説もありますが、降伏して助命されたとするのが一般的です。
<伊達城推定地の台地>
こちらはさいたま市見沼区大和田町の伊達城跡の推定地です。伊達城の正確な位置まではわかりません。ただ、この付近だったようです。
■江戸幕府旗本■
豊臣軍に屈した伊達房実は、のちに徳川家康に召し抱えられています。250石の旗本となり、江戸三番町角屋敷を与えられ、かつて自らの居城だった伊達城付近を知行し、陣屋を構えました。
<大和田陣屋>
こちらは先ほどの伊達城近くの陣屋跡です。土塁が確認できます。画像は2018年のもので、それまであった民家が取り壊された状態でした。ちょっと地味ではありますが、これも立派な痕跡。大和田伊達氏のなごりです。
■徳川家康との縁■
戦国末期の岩槻太田氏の家臣は、すなわち小田原北条氏に与した者たちということになります。伊達房実も、主君であり城主である北条氏房(太田氏房)に代わって岩槻城を守り、豊臣軍と戦いました。豊臣方の徳川家康としては、直接の戦いはないものの、敵方の武将だったわけですね。
敵であっても、戦が終われば家臣に迎え入れる。これは日本の場合はよくある話です。ただ、ある程度のポジションになると、やはり家柄や力量が認められるとか、あるいは信用できる者の血縁とか、なんらかの裏付けが必要になる気がします。
旗本になるのはそう簡単なことではありません。『伊達』を名乗っていますが、伊達政宗と結び付けるには、そうとうご先祖様まで遡る必要があります。当人同士はほぼ無関係で、あまり効力があるとは思えません。では、なにが背景となっているのでしょう。
■駿河伊達氏の出か■
伊達房実の出自については、ある程度有力な説もありながら諸説があり、更に資料も乏しい状態です。ということで、またwikiさんにお世話になります。以下はwikiさんの『伊達 房実』からの抜粋です。
『駿河伊達氏とされるが、『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達政充が北条氏康に仕え、その子の宗春(宗綱)は今川氏、次いで徳川家臣であった。小笠原信興配下の高天神衆として姉川の合戦に従軍し、姉川七本槍に数えられた。のち徳川家康の次女の督姫が天正11年(1583年)8月に北条氏直に嫁いだ際、同行して北条氏傘下に入ったと伝わる。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
『伊達政充』は祖父、『宗春』は父です。そして小笠原信は高天神城の城主を務めた武将。個人的に、ここが一番興味深いところです。
<高天神城>
この城は武田に対抗するための徳川の城でした。つまり、城を守る者たちは全て徳川の家臣です。しかし、武田勝頼率いる大軍に攻められた時、浜松城にいる家康に助けを求めたものの援軍は来ませんでした。援軍が出せる状態ではなかったという表現の方が家康にとっては良い言い回しでしょうか。しかし籠城して奮闘する者たちからみれば、見捨てられたことに代わりありません。城主の小笠原信興は武田に降伏するとともに、徳川家康を見限って武田に降る道を選びました。
この時、城を守る中に伊達房実がいたとしたら、これが家康との縁、しかも古い縁ということになりますね。徳川家康は過去の失敗を教訓としていつまでも忘れないタイプの武将です。再会するに至り、見捨てた城の生き残りにそれ相応の対応をした。これにより、江戸幕府の旗本にまでなれた。そんな想像はちょっと乱暴過ぎますかね?
ということで
伊達房実が駿河伊達氏の出ということにも確証ないままのお話でした。今回は一般的に言われている内容でもないことから、最後に出典元を明記させて頂きます。その他の部分は、ただの城好き・戦国武将好き会社員の想像が盛り込まれていますので、その程度に受け止めて下さい。ただ、そんな視点で歴史を楽しんでいる方と共有できれば幸いです。
<岩槻城裏門>
つわものどもが夢の跡
■参考及び抜粋■
Wikipedia−伊達 房実
Wikipedia−岩槻城
[検索日2020/8/29]
------- 補 足 -------
今回登場した伊達城跡・大和田陣屋跡、そして高天神城については別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
伊達城跡
→『記事へすすむ』
大和田陣屋跡
→『記事へすすむ』
高天神城跡
→『記事へすすむ』
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今回は岩槻城に2千の兵で立て籠り、豊臣軍2万を迎え撃った武将の話です。
<岩槻城跡>
豊臣秀吉による小田原征伐の際、ここ岩槻城には2万の兵が押し寄せました。城主は小田原城に詰めていて不在。代わりに指揮をとったのが今回ご紹介する伊達房実(ふさざね)です。
■岩槻太田氏家臣■
以下はwikiさんの『岩槻城』からの抜粋です。
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等が率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
壮絶な戦いです。文中の『氏房』は本来の岩槻城主・北条氏房。まぁ既に太田氏を継いでいたわけですから太田氏房ですかね。あと、ここでは『浅野長吉』となっていますが、浅野長政と言ったほうがピンとくる方が多いような気がします。石田三成らとともに、豊臣政権下で五奉行の一角だった武将ですね。秀吉から信頼の厚い大物が率いる天下軍2万が、岩槻城に襲い掛かりました。
指揮をとった伊達房実は、岩槻太田氏に仕える古参にして、岩槻城の西を守る伊達城の城主です。改修により総構えとなっていた岩槻を守るべく、2千の兵を指揮して善戦しますが、最終的には落城となりました。伊達房実はここで討ち死にしたのではないかという説もありますが、降伏して助命されたとするのが一般的です。
<伊達城推定地の台地>
こちらはさいたま市見沼区大和田町の伊達城跡の推定地です。伊達城の正確な位置まではわかりません。ただ、この付近だったようです。
■江戸幕府旗本■
豊臣軍に屈した伊達房実は、のちに徳川家康に召し抱えられています。250石の旗本となり、江戸三番町角屋敷を与えられ、かつて自らの居城だった伊達城付近を知行し、陣屋を構えました。
<大和田陣屋>
こちらは先ほどの伊達城近くの陣屋跡です。土塁が確認できます。画像は2018年のもので、それまであった民家が取り壊された状態でした。ちょっと地味ではありますが、これも立派な痕跡。大和田伊達氏のなごりです。
■徳川家康との縁■
戦国末期の岩槻太田氏の家臣は、すなわち小田原北条氏に与した者たちということになります。伊達房実も、主君であり城主である北条氏房(太田氏房)に代わって岩槻城を守り、豊臣軍と戦いました。豊臣方の徳川家康としては、直接の戦いはないものの、敵方の武将だったわけですね。
敵であっても、戦が終われば家臣に迎え入れる。これは日本の場合はよくある話です。ただ、ある程度のポジションになると、やはり家柄や力量が認められるとか、あるいは信用できる者の血縁とか、なんらかの裏付けが必要になる気がします。
旗本になるのはそう簡単なことではありません。『伊達』を名乗っていますが、伊達政宗と結び付けるには、そうとうご先祖様まで遡る必要があります。当人同士はほぼ無関係で、あまり効力があるとは思えません。では、なにが背景となっているのでしょう。
■駿河伊達氏の出か■
伊達房実の出自については、ある程度有力な説もありながら諸説があり、更に資料も乏しい状態です。ということで、またwikiさんにお世話になります。以下はwikiさんの『伊達 房実』からの抜粋です。
『駿河伊達氏とされるが、『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達政充が北条氏康に仕え、その子の宗春(宗綱)は今川氏、次いで徳川家臣であった。小笠原信興配下の高天神衆として姉川の合戦に従軍し、姉川七本槍に数えられた。のち徳川家康の次女の督姫が天正11年(1583年)8月に北条氏直に嫁いだ際、同行して北条氏傘下に入ったと伝わる。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
『伊達政充』は祖父、『宗春』は父です。そして小笠原信は高天神城の城主を務めた武将。個人的に、ここが一番興味深いところです。
<高天神城>
この城は武田に対抗するための徳川の城でした。つまり、城を守る者たちは全て徳川の家臣です。しかし、武田勝頼率いる大軍に攻められた時、浜松城にいる家康に助けを求めたものの援軍は来ませんでした。援軍が出せる状態ではなかったという表現の方が家康にとっては良い言い回しでしょうか。しかし籠城して奮闘する者たちからみれば、見捨てられたことに代わりありません。城主の小笠原信興は武田に降伏するとともに、徳川家康を見限って武田に降る道を選びました。
この時、城を守る中に伊達房実がいたとしたら、これが家康との縁、しかも古い縁ということになりますね。徳川家康は過去の失敗を教訓としていつまでも忘れないタイプの武将です。再会するに至り、見捨てた城の生き残りにそれ相応の対応をした。これにより、江戸幕府の旗本にまでなれた。そんな想像はちょっと乱暴過ぎますかね?
ということで
伊達房実が駿河伊達氏の出ということにも確証ないままのお話でした。今回は一般的に言われている内容でもないことから、最後に出典元を明記させて頂きます。その他の部分は、ただの城好き・戦国武将好き会社員の想像が盛り込まれていますので、その程度に受け止めて下さい。ただ、そんな視点で歴史を楽しんでいる方と共有できれば幸いです。
<岩槻城裏門>
つわものどもが夢の跡
■参考及び抜粋■
Wikipedia−伊達 房実
Wikipedia−岩槻城
[検索日2020/8/29]
------- 補 足 -------
今回登場した伊達城跡・大和田陣屋跡、そして高天神城については別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
伊達城跡
→『記事へすすむ』
大和田陣屋跡
→『記事へすすむ』
高天神城跡
→『記事へすすむ』
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2020年08月23日
岩槻城のなごり
つわものどもが夢の跡
関東の覇権争いで常に緊張にさらされ続けた重要拠点を訪ねました。
<岩槻城跡>いわつきじょう
鍛冶曲輪の道灌橋
■築城者・太田道灌■
岩槻城は川越城・江戸城の築城者でもある太田道灌により築かれたとされています。当時の関東は、既に勢力争いの混迷期に突入していました。関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方に抵抗すべく家臣である道灌に築城を命じたことが岩槻城のはじまりです。古河に対する前線基地のような存在だったわけですね。
<白鶴城址碑>
岩槻城の別名は白鶴城。太田道灌の築城秘話に由来する呼び名です。
実は築城者については諸説あります。道灌と父である太田道真による築城とする説。これなら築城主が扇谷上杉氏という点では同じですが、古河公方に与する成田氏の築城とする説もあります。成田氏は『のぼうの城』の舞台となった忍城の築城でも知られる武蔵国の士族ですね。これも興味深い話ですが、当ブログでは太田道灌ということで通します。
■岩槻太田氏対小田原北条氏■
小田原北条氏第2 代当主の氏綱は、扇谷上杉氏の居城・江戸城を攻め落とすと(1524年)、その勢いで北上し、岩槻にも進攻しました。岩槻城は北条の配下となりますが、太田資頼(すけより)が岩槻城を攻略(1530年)。城は資頼の長男・資顕(すけあき)、次男の資正(すけまさ)に受け継がれます。
三楽斎の名でも知られる太田資正は、勢力を増す北条氏へ靡こうとした兄とは逆に、あくまで扇谷上杉氏に仕え続けます。その扇谷上杉氏が滅びると越後の上杉謙信と結び、小田原の北条氏に対抗し続けました。
しかし、里見氏とともに北条氏と戦って破れたのち(1564年)、子である氏資に裏切られ、岩槻城を追い出されることとなりました(同じく反北条の佐竹氏を頼って落ち延びました)。岩槻城は氏資は受け継がれたものの戦で討ち死にし、城には北条一族の氏房が入城することとなりました。氏房は第5代当主である氏直の弟です。ちょっと長くなりましたが、結果としては北条配下の城となりました。
<堀跡と沼>
<岩槻城址ノ記>
■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原征伐に乗り出します。関東覇者となっていた北条氏は、これに備えて主要な城の強化を図ります。岩槻城もこの時に拡張・改修されました。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。城の防衛において、元荒川の果たした役割は大きいですね。岩槻城には七つの曲輪があったとされ、本丸から沼を挟んだ南側の部分は秀吉による小田原征伐の際に出丸として拡張されたと考えられています。また、この時に岩槻の城下町にも堀や土塁が設けられ、いわゆる総構えとなったとされています。もともとの地形、つまり台地と低地と川をうまく利用した城という感じですね。
<元荒川>
新曲輪橋から眺めた元荒川です。岩槻城にとっての天然の堀です。
<岩槻愛宕神社>いわつきあたごじんじゃ
[さいたま市岩槻区本町]
かつて城下町の外周を囲んでいた土塁はほとんど姿を消しましたが、ここは神社が祀られていることで壊されずにすみました。貴重な総構えのなごりです。
<総構えの堀跡>
[さいたま市岩槻区府内]
こちらは城下の堀の跡です
実際に天下軍が押し寄せた時、城主の北条氏房(太田氏房)は、小田原城の籠城戦に参陣していました。代わりに城を守ったのは家臣の伊達房実。2千の兵で籠城し、浅野長政が指揮する天下軍2万の攻撃に耐えますが、数日後に落城。千人以上の犠牲者が出たそうです。
<ふるさと散策路>
岩槻城址公園へ繋がる散歩道、堀の跡です。
■譜代大名の城■
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、江戸から比較的近い岩槻城は北の重要拠点と位置付けられ、高力清長を筆頭に、以降も譜代大名が城主を務めました、めまぐるしく城主は変わりましたが、江戸時代中期に9代将軍徳川家重から信頼の厚かった大岡忠光(大岡忠相の遠縁です)が藩主として入城すると、以降は明治まで、岩槻城は大岡氏の居城でした。
■岩槻城のなごり■
<本丸跡>
岩槻城の本丸や二の丸といった主郭部分は、開発により姿を消しました。向こう側に見えているのはマミーマートです。この付近一帯がかつての本丸でした。
<岩槻城址公園>
新曲輪・鍛冶曲輪付近が公園として整備され、城のなごりを今に留めています。岩槻城址公園はかつての城の主郭部分ではなく、出丸的な役割を担ったエリアです。
<かつての沼>
埋め立てにより現在は広場となっていますが、ここはかつては水の中。主郭部分を取り囲む沼でした。
<菖蒲池と八ツ橋>
巨大な沼は姿を消しましたが、残された水辺に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。
<鍛冶曲輪周辺の堀跡>
見事な遺構です。今でも充分な高低差ですが、昔はもっと深かったのでしょう。
右折する堀。横矢が掛けられています。
<鍛冶曲輪>かじくるわ
<堀障子が確認された場所>
発掘調査の結果、鍛冶曲輪と新曲輪の間の堀で、堀障子が確認されたそうです。調査が終わると保存のために埋めてしまうので、いまはご覧の通りです(現地には説明板あり)。
<新曲輪付近>
この付近には櫓があったとされています
<城門>
黒門と呼ばれるかつての城門。形としては長屋門です。
<裏門>
こちらは岩槻城の裏門とされています。門の形式は薬医門。先ほどの黒門もそうですが、かつての城郭のどこに設けられていたかははっきりしていません。
■つわものどもが夢の跡■
室町末期に築かれた岩槻城は、戦国時代を通して緊張にさらされ続け、江戸時代には統治の城として存続しました。かつての城の大半は失われましたが、一部が城址公園として整備され、その一角で役割を終えた2棟の門が静かに佇んでいます。
------■ 岩槻城 ■------
別 名:白鶴城 岩付城
築城主:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:北条氏房
城 主:太田氏・北条氏
高力氏・大岡氏他
廃城年:1871年(明治4年)
[さいたま市岩槻区太田]
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--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了したそうです。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、岩槻城本丸跡であることはゆるぎない事実。また様子を見に訪問しようと思います。
関東の覇権争いで常に緊張にさらされ続けた重要拠点を訪ねました。
<岩槻城跡>いわつきじょう
鍛冶曲輪の道灌橋
■築城者・太田道灌■
岩槻城は川越城・江戸城の築城者でもある太田道灌により築かれたとされています。当時の関東は、既に勢力争いの混迷期に突入していました。関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方に抵抗すべく家臣である道灌に築城を命じたことが岩槻城のはじまりです。古河に対する前線基地のような存在だったわけですね。
<白鶴城址碑>
岩槻城の別名は白鶴城。太田道灌の築城秘話に由来する呼び名です。
実は築城者については諸説あります。道灌と父である太田道真による築城とする説。これなら築城主が扇谷上杉氏という点では同じですが、古河公方に与する成田氏の築城とする説もあります。成田氏は『のぼうの城』の舞台となった忍城の築城でも知られる武蔵国の士族ですね。これも興味深い話ですが、当ブログでは太田道灌ということで通します。
■岩槻太田氏対小田原北条氏■
小田原北条氏第2 代当主の氏綱は、扇谷上杉氏の居城・江戸城を攻め落とすと(1524年)、その勢いで北上し、岩槻にも進攻しました。岩槻城は北条の配下となりますが、太田資頼(すけより)が岩槻城を攻略(1530年)。城は資頼の長男・資顕(すけあき)、次男の資正(すけまさ)に受け継がれます。
三楽斎の名でも知られる太田資正は、勢力を増す北条氏へ靡こうとした兄とは逆に、あくまで扇谷上杉氏に仕え続けます。その扇谷上杉氏が滅びると越後の上杉謙信と結び、小田原の北条氏に対抗し続けました。
しかし、里見氏とともに北条氏と戦って破れたのち(1564年)、子である氏資に裏切られ、岩槻城を追い出されることとなりました(同じく反北条の佐竹氏を頼って落ち延びました)。岩槻城は氏資は受け継がれたものの戦で討ち死にし、城には北条一族の氏房が入城することとなりました。氏房は第5代当主である氏直の弟です。ちょっと長くなりましたが、結果としては北条配下の城となりました。
<堀跡と沼>
<岩槻城址ノ記>
■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原征伐に乗り出します。関東覇者となっていた北条氏は、これに備えて主要な城の強化を図ります。岩槻城もこの時に拡張・改修されました。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。城の防衛において、元荒川の果たした役割は大きいですね。岩槻城には七つの曲輪があったとされ、本丸から沼を挟んだ南側の部分は秀吉による小田原征伐の際に出丸として拡張されたと考えられています。また、この時に岩槻の城下町にも堀や土塁が設けられ、いわゆる総構えとなったとされています。もともとの地形、つまり台地と低地と川をうまく利用した城という感じですね。
<元荒川>
新曲輪橋から眺めた元荒川です。岩槻城にとっての天然の堀です。
<岩槻愛宕神社>いわつきあたごじんじゃ
[さいたま市岩槻区本町]
かつて城下町の外周を囲んでいた土塁はほとんど姿を消しましたが、ここは神社が祀られていることで壊されずにすみました。貴重な総構えのなごりです。
<総構えの堀跡>
[さいたま市岩槻区府内]
こちらは城下の堀の跡です
実際に天下軍が押し寄せた時、城主の北条氏房(太田氏房)は、小田原城の籠城戦に参陣していました。代わりに城を守ったのは家臣の伊達房実。2千の兵で籠城し、浅野長政が指揮する天下軍2万の攻撃に耐えますが、数日後に落城。千人以上の犠牲者が出たそうです。
<ふるさと散策路>
岩槻城址公園へ繋がる散歩道、堀の跡です。
■譜代大名の城■
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、江戸から比較的近い岩槻城は北の重要拠点と位置付けられ、高力清長を筆頭に、以降も譜代大名が城主を務めました、めまぐるしく城主は変わりましたが、江戸時代中期に9代将軍徳川家重から信頼の厚かった大岡忠光(大岡忠相の遠縁です)が藩主として入城すると、以降は明治まで、岩槻城は大岡氏の居城でした。
■岩槻城のなごり■
<本丸跡>
岩槻城の本丸や二の丸といった主郭部分は、開発により姿を消しました。向こう側に見えているのはマミーマートです。この付近一帯がかつての本丸でした。
<岩槻城址公園>
新曲輪・鍛冶曲輪付近が公園として整備され、城のなごりを今に留めています。岩槻城址公園はかつての城の主郭部分ではなく、出丸的な役割を担ったエリアです。
<かつての沼>
埋め立てにより現在は広場となっていますが、ここはかつては水の中。主郭部分を取り囲む沼でした。
<菖蒲池と八ツ橋>
巨大な沼は姿を消しましたが、残された水辺に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。
<鍛冶曲輪周辺の堀跡>
見事な遺構です。今でも充分な高低差ですが、昔はもっと深かったのでしょう。
右折する堀。横矢が掛けられています。
<鍛冶曲輪>かじくるわ
<堀障子が確認された場所>
発掘調査の結果、鍛冶曲輪と新曲輪の間の堀で、堀障子が確認されたそうです。調査が終わると保存のために埋めてしまうので、いまはご覧の通りです(現地には説明板あり)。
<新曲輪付近>
この付近には櫓があったとされています
<城門>
黒門と呼ばれるかつての城門。形としては長屋門です。
<裏門>
こちらは岩槻城の裏門とされています。門の形式は薬医門。先ほどの黒門もそうですが、かつての城郭のどこに設けられていたかははっきりしていません。
■つわものどもが夢の跡■
室町末期に築かれた岩槻城は、戦国時代を通して緊張にさらされ続け、江戸時代には統治の城として存続しました。かつての城の大半は失われましたが、一部が城址公園として整備され、その一角で役割を終えた2棟の門が静かに佇んでいます。
------■ 岩槻城 ■------
別 名:白鶴城 岩付城
築城主:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:北条氏房
城 主:太田氏・北条氏
高力氏・大岡氏他
廃城年:1871年(明治4年)
[さいたま市岩槻区太田]
お城巡りランキング
--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了したそうです。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、岩槻城本丸跡であることはゆるぎない事実。また様子を見に訪問しようと思います。