ではおのおのはどうなったのでしょうか・・・
北条一族は分家も含めると沢山いますので、宗家の主要な男に絞って整理してみました。
■ 北条氏政兄弟 ■
三代目北条氏康はたくさんの男子に恵まれたのですね。分かっている男だけでも八兄弟です。
@(新九郎)A氏政B氏照C氏邦D氏規E氏忠F(上杉景虎)G氏光
小田原征伐の時点で存命だったのは六人です(太字)。六兄弟はその後どうなったのでしょうか。
まず四代目当主氏政(次男)は切腹。武田信玄や上杉謙信と互角に争った北条氏康の次男として生まれ、死んだ兄に代って実質長男として家を引き継ぎ、自らの力量で支配を240万石にまで広げた男です。その命もここで尽きました。
兄同様、戦に舵をとった三男氏照も切腹となりました。勇猛果敢にして戦略家、文武ともに秀でていました。重要拠点の八王子城主を任され、最後は小田原城に詰めて兄を補佐しました。氏政と氏照、秀吉はこの二人だけは許しませんでした。
藤田氏邦を名乗り、鉢形城主となっていた四男氏邦は、一戦を交えた前田利家の嘆願により助命となり、前田家に預けられます。小田原征伐から7年後、移り住んだ加賀金沢で亡くなりました。
五男の氏規(うじのり)は、北条内にあって和平に尽力したことが認められ助命。幼少期を今川義元の人質として過ごしたため、同じく人質だった徳川家康と駿河時代の知り合い(歳も近い)だったことも影響しました。ただ切腹する二人の兄の介錯役は氏規でした。すぐに自害しようとしますが、周囲に止められそれも叶いませんでした。蟄居を命じられ、高野山へと向かいます。
六男は佐野氏に送り込まれて佐野氏忠(唐沢山城主)を名乗っていましたが、戦ではやはり小田原城に詰めていました。戦後は高野山を経て伊豆で隠居。八男氏光も高野山送りとなりますが、こちらは同年その地で没してしまいました。
■小田原北条氏のその後■
氏政の子で五代目当主の氏直は、助命されて高野山へ。表舞台からは消えたものの、秀吉から賄い領1万石を与えられました。ただ小田原征伐の翌年、30歳の若さで亡くなりました。男子はなく、小田原の北条氏が断絶の危機を迎えますが、叔父の氏規が家督引き継ぎます。
この家系、やがて狭山藩の藩主となります。大きな藩ではありませんが、お取り潰しの憂き目もなく、明治まで続きました。狭山といっても埼玉ではなく大阪。小田原からはずいぶん離れたところですね。しかし独立した藩です。戦国大名としての北条氏は滅びましたが、家は江戸を通じて存続しました。
<つわものどもが夢の跡>
北条の城は徳川幕府の重要拠点となりました
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