<石垣山から見た小田原>
中央の木々が密集している付近が小田原城です(雨天のため画像が不明瞭ですが、肉眼では良く見えました) 。石垣山は秀吉が一夜城を築いた山。小田原を一望することができます。
■ 小田原征伐までの流れ ■
1587年
豊臣秀吉が関東惣無事令を発令
※そうぶじれい:大名同士の私戦禁止です
1588年
秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた上で、大名に自身への忠誠を誓わせる。
※北条氏政はこれを拒否
1589年
北条氏が真田氏配下の名胡桃城を奪い取る。
※惣無事令違反とみなされます
1590年
豊臣秀吉による小田原征伐
※20万を越える天下軍が動き出します
<名胡桃城>
[群馬県利根郡みなかみ町]
小田原征伐の原因となった真田家の山城です。北条氏家臣の猪俣邦憲が、真田昌幸配下の名胡桃城を奪い取ってしまいました。
■ 天下人vs関東覇者 ■
圧倒的に兵力に差があったようですが、どのくらいあったのでしょうか・・・
【天下軍総数22万】
本隊15万強+別働隊7万弱
別動態は分散して関東に点在する小田原北条氏の支城に襲い掛かります。
=北国軍(前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら)・水軍・地元関東勢(佐竹・宇都宮、結城他)
※人数だけでなく、有名な武将が名を連ねるオールスター軍団ですね
これに対し北条側はどうでしょう。
【北条軍総数5万2千】
北条側は兵の分散を避けて支配下の城から小田原城へ兵を動員します。その一方で、主要な支城は整備に着手するとともに一定の兵を配置しました。
■戦況■
東海道を進んできた天下軍本隊がその通り道の城(山中城他)を落城させます。小田原城が完全包囲されるなか、主要な支城(松井田城・鉢形城・八王子城等)も天下軍の別働隊によって次々と陥落。
<山中城>
[静岡県三島市]
天下軍本隊の通り道になります(この城攻めの総大将は秀次)。北条側も激しく抵抗しますが城主・松田康長は戦死し、わずか半日で落城しました。
<鉢形城>
[埼玉県大里郡寄居町]
北国軍3万5千により攻撃され、北条側の城兵三千は約1ヶ月間籠城しますが落城。城主は北条氏政の弟の氏邦です。城兵の助命を条件に降伏しました。
<伊豆長浜城>
[静岡県沼津市]
天下軍の水軍を前に城を放棄しました。
<岩槻城跡>
[埼玉県さいたま市岩槻区]
天下軍本隊も関東に入ると分散して支城を潰してまわります。この城は本隊から別れた浅野長吉らが率いる約2万の兵に攻め落とされました。北条側の城兵は二千。うち千人が犠牲となる壮絶な戦いと伝わります。
主要な城は全て落ちてしまいました(成田氏の忍城を除く) 。
出口の見えない長い籠城生活。小田原城内の評定は、どんな雰囲気だったのでしょうか・・・
<小田原城> 本丸堀跡
籠城は三ヶ月間続きましたが、五代目当主・氏直は和議を決意。自身の切腹と引き換えに城兵の助命を請い、天下軍に降伏します。秀吉は氏直の申出を評価し、最終的には助命します。ただ、父であり四代目当主だった氏政、そしてその弟の氏照には切腹を命じます。同じく、家臣の松田憲秀と大道寺政繁についても、戦を始めた責任を取らせて切腹を命じました。
戦国大名としての小田原北条氏はここに滅びました。
広大な領地は、ほぼそのまま徳川家康にあてがわれます。
--------番外編----------
■ 小田原評定 ■
長いだけで「結論が出せない会議」というのはどこの会社でもあることですよね。特に古い体質の会社ではなおさらでしょう。こういった会議の比喩として「小田原評定」という言葉がよく使われます。これは天下軍を前に、意見が分かれまとまらなかった北条氏の評定を指しています。
ただこの時代に、既に会議制というシステムを導入していたという評価もできます。その実績として、下克上がまかり通る世の中で、北条五代百年の間に、身内や配下の者の裏切りはほとんどありませんでした(小田原征伐のときを除く)。これはこれで凄い事ですね。ですから小田原評定は、最後こそ負の部分が露呈しましたが、逆に長い間組織の安定に貢献してきたとも言えます。
お城巡りランキング
タグ:神奈川