<現在の小田原城>
■ 北条早雲 ■ 下剋上の典型
一般的にこの名前で世間に知られていますね。有名です。一介の素浪人から戦国大名にまでなったことから、いわゆる「下剋上」の典型とされてきました。最近になって、決して名も無い浪人ではなく、室町幕府で要職を務めた(つまり身分の高い)伊勢氏の出であるとする説が有力になっています。ただ、その後の本人の活躍、そしてやがて関東の覇者となる小田原北条氏の租であることを考えると、素浪人でも名門の出でもどっちでも良い気がします。別名や呼び名はたくさんあり(例:新九郎)、ご本人は北条を名乗っていませんが、このブログでは「北条早雲」と呼ばせてもらいます。
関東進出と勢力拡大
[初代] 早雲
北条早雲は1495年に大森氏から小田原城を奪い、本拠地をここ小田原へ移します。やがて三浦氏(三浦半島)を滅ぼし、伊豆国と相模国(現在の神奈川県のほぼ全部)を征服しました。ここまでは良く知られた話ですが、伊豆に進出した時に、既に60歳だったことはあまり知られてません。元気なのはいいとして、なぜそこまで頑張れるのか。これは逸話ですが、早雲はある日、一匹のネズミが二本の杉を倒して虎となる夢を見て決意を新たにしたと言われています。ネズミは自分、二本の杉は上杉(山内上杉と扇谷上杉)と思ったそうです。まぁ事実かどうかは分りませんが、北条早雲は86歳まで生きました(どうも根本的に普通の人とは違うようですね)。
[二代目] 氏綱
先述の通り、もともとは伊勢氏。関東の既存の勢力には馴染のない名前です。
「なんだ、よそ者かよ」
これは仲間を増やすにしても争うにしても、あまり都合の良いことではありませんね。そこで、早雲の息子の氏綱の時に、かつて鎌倉幕府を支配した執権の名を名乗ることにしました(北条を名乗ったのは二代目からということですね)。この二代目は、のちの北条氏の繁栄の基礎を築き上げます。内部の統制に優れていた上に、武蔵国や下総国への進出を図ります。ただ破竹の勢いで拡大したというより、勢力を確実に広げられる構造を造ったという方が適切かも知れません(よく使われる「礎を築く」という表現が適切ですかね)。
[三代目] 氏康
三代目は氏康です。関東から山内・扇谷両上杉氏を追い払い、武田・今川との間に甲相駿三国同盟を結びました。外交に優れた当主です。更に内政面でも手腕を発揮。やや個人的な感覚になりますが、小田原北条というと最初に三代目・北条氏康の名が思い浮かびます。あの上杉謙信を退けたというインパクトのせいですかね?武田信玄、上杉謙信という両雄と対等にわたりあった武将。ライバルがあまりに有名で、北条氏康はやや地味であることは否めませんが、この三人がいわゆる「関東三国志」の主役です。
戦国時代末期
[四代目] 氏政
北条氏政も、父氏康の後を継いで勢力拡大に努めます。ただ、ちょっと時代の流れを読み間違えましたかね?秀吉の台頭に対する態度で失敗してしまいます。家督は息子の氏直に継がせたものの、実質的な支配者のまま小田原征伐の時をむかえます。
[五代目] 氏直
氏政が強硬派だったのに対し、その息子で五代目当主の氏直は穏健派であったと言われています。まだ父親やそうそうたる叔父さま達と比較して経験は浅かったかも知れませんが、若い人の方が将来に敏感というケースは良くありますね。大きな組織となってしまった小田原北条氏にあって、この氏直が実質的にも当主という環境が整っていたなら、別な選択をしていたかも知れません。関東覇者というポジションを失っても、滅びてしまうことはなかったと思います。
1590年小田原征伐■
総数20万を越える天下軍が関東へ攻め込みます。支城を次々と攻略され、本城である小田原城も3ケ月の籠城の末に落城。小田原北条氏百年の栄華繁栄がここで終わりました。
<小田原城からの景色>
手前の矢印。石垣山がどこか教えてくれています。秀吉が一夜城を築いた山のことですね。北条氏時代の本丸はもう少しだけ石垣山に近い位置です(八幡山)。支城の大半を天下軍に落とされ、大軍に完全包囲されている状態で、四代目の氏政は何を思ったのでしょうか。
〚有名な逸話〛 汁かけ飯
食事の際、飯に汁を一度かけ、更にもう一度汁をかけ足した息子を見て、三代目の氏康が嘆いたというお話です。
「こいつは汁の量も量れんのか。北条もワシの代で終わりか・・・」
毎日やってるはずのことが感覚として分らない。そんなことでは、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない。そういう意味ですね。結果として、四代目氏政の時に北条家は滅びました。
2016年大河ドラマ「真田丸」でも、この逸話を意識した演出がありましたね。後世の創作という説もありますが、私も「氏政はちょっと対応を間違えたなぁ」と思っています。ただ、それは最後の最後の話。氏政も有能な武将として、そして当主として活躍しています。兄として沢山の弟たちとも良好な関係を保ち、更に愛妻家だったと言われています。
もしかしたら、身近な人にとっては魅力的な男だったのではないでしょうか。「井の中の蛙」「己を過信した」という烙印。これはこれで間違えとは思いません。「彼を知り己を知れば百戦危うからず」とは有名な孫子の言葉。もう少しだけ彼 (敵について) を知っていれば、実質的な当主として違う判断があったかも知れません。ただ、それはもう氏政個人の才覚うんぬんの話ではなく、ご本人がそうなってしまう環境が、早雲以来の繁栄の陰で既に整っていたのではないでしょうか。
■北条五代の夢の跡■
小田原城跡では春には桜、そして梅雨ににれば紫陽花が咲き誇ります。ただただ己の命を謳歌する花たちが、季節の移り変りを教えてくれます。
■訪問:小田原城
[神奈川県小田原市城内]
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