群雄割拠の乱世において、関東最大の野戦となった古戦場を訪ねました。場所は現在の群馬県と埼玉県の県境付近です。
<神流川古戦場跡>かんながわ
■ 神流川の戦い ■1582年7月5日〜
時は本能寺の変の直後。信長の命を受けて関東に派遣されていた滝川一益と、小田原北条軍の戦いです。
■ 滝川一益 ■ たきがわかずます
甲賀出身で、信長が尾張で勢力の基盤を築き始めた頃には既に家来となっていました。つまり古くからの部下ですね。もともと甲賀忍者だったという説もありますが、それは不確か。ただ、私は「花の慶次」※の影響もあって、そう信じてます。
※主役の慶次は立場上前田利家の甥、血の繋がりだと滝川一益の甥。よって慶次にも忍びの血が流れているという設定。その「花の慶次」でも、この神流川の戦いは扱われています。
■ 運命の人事異動 ■ 関東管領
数々の功績を上げた一益は、信長の重臣となりました。織田四天王(柴田・丹羽・滝川・明智)の一人です。かなり信頼されていたからでしょうね。武田氏が滅んだ後、アウェイの関東へ関東管領として派遣されました。
当時の関東、小田原の北条氏は表向き織田と協調関係を保っていましたが、やはり影響力は絶大です。息子に当主の座を譲ったものの、実質リーダーである北条氏政の気性を考えると、いくら信長の権威をまとっていても気が抜ける状況ではありません。更に、自分たちは関東の国人たちから見れば余所者。かなり苦労されたことと思います。
■ 出先機関は上州 ■ 厩橋城
滝川一益の関東での拠点は上州(=現在の群馬県)です。まずは地元国人衆の真田昌幸や小幡信貞と友好関係を構築。倉賀野城主・倉賀野秀景は、この時に一益の側近とされたようです。力による支配ではなく、本領安堵を約束する協調路線です。武蔵国の成田氏長らも味方に取り込みました。
こうして余所者の気配り支配は概ね順調にスタート。滝川一益は織田信長に託された役割を徐々に担い始めていました。
■ 本社で異変 ■ 本能寺の変
1582年6月21日
明智光秀謀反
これで肝心の親分がいなくなってしまいました。アウェイで踏ん張ってるのに、もはや権威の裏付けはありません。配属からまだ3ケ月とはいえ、折角やってきた関東でのお仕事も全部中止です。もう余所者の居場所なんてないのですか…
織田信長の死を内緒にして、こっそり逃げ出すのが得策です。しかし、一益はそうはしませんでした。上州の国人衆に事実を伝えて、判断を本人達に委ねます。
「上方に戻って明智光秀と一戦し、主君の恩に報いねばならない。この機に乗じて私の首をとり、北条への手土産にしようと思う者は遠慮なくそうなされ」
ちょっとラフですが、大筋こんな感じです。国人衆の多くはこの心意気を受けとめ、反旗を翻すことはしませんでした。
美談となっていますが、そこをほじくってもシラケるだけなので、私はそのまま信じます。信じてあげねば、この方の晩年が報われません…
■ 対抗勢力 ■ 関東の覇者
織田信長・信忠親子の死を知った北条氏は、上州へ進攻を開始します。神奈川県小田原市から群馬県まではけっこう距離がありますよね?しかし関東で絶大な勢力を誇る北条氏に抜かりはありません。今後も協調関係を続けましょうといった表向きの態度とは裏腹に、既に兵を北上させていました。
そして何より、北条氏には武蔵国の北部、現在の埼玉県寄居町に既に立派な拠点がありました。鉢形城です。城を任されているのは北条氏邦。沢山いる氏政の弟たちの中でも、氏照と並んで武勇に優れたつわものです。この氏邦が、5千の兵を率いて鉢形城から出撃し、早々と上州へ攻め込みます。これに後詰めで北条軍本隊が加わることに。主君を失ったばかりの滝川一益、アウェイの関東で関東最強の敵と激突せざるを得なくなりました。
<現在の神流川>
滝川軍1万8千対北条軍5万
滝川軍は前半こそ健闘するも、北条軍本隊が到着して形勢は一転。5万ですからね。北条氏邦が、甥で当主の氏直を補佐して滝川軍を圧倒します。つまり氏邦が、兄ちゃんの息子をサポートして大活躍ということですね。この大軍に圧倒され、上州の諸将は次々離脱していきました。まぁ逃げたわけですが、上州の皆さんは、北条の怖さを良く知っていたはず。逆によくここまで滝川一益に付き合いましたよね。関東武士の人情、あるいは一益の武将としての魅力でしょうか?いずれにせよ、滝川軍は崩壊し、一益本人も敗走に追い込まれました。
滝川軍1万8千といっても、実質的に戦い続けたのは一益本人が率いる尾張衆約三千とも言われています。つまり、もともとの部下だけ。これを圧倒的多数の北条軍が狙うのですから、そうとう厳しい撤退戦となりました。
滝川一益との別れを惜しみ、先述の倉賀野秀景や真田昌幸が木曽路まで送り届けたという話もあります。国人衆の人質を解放しながら移動したとか、その辺りの話は昨年の大河ドラマ「真田丸」でも詳しく扱っていましたが、ここでは省略します。
■ 失 脚 ■ 清州会議
北条の追撃をかわして何とか生き延びた一益ですが、その間にいわゆる清州会議は終わってしまいました。重要な役割を背負って苦労したにも関わらず、発言権どころが、織田家における地位すら一気に急落。
そのいい例が、忠誠を尽くした織田信長の法要に出かけた時の話。
「滝川殿の席はありませぬ」
と、秀吉に追い返されてしまいます。
「この野郎!!!」
ですよね。
滝川一益はその後は当然のように柴田勝家に味方しますが、これがまたまた裏目に…
血筋とかコネではなく、己の才覚と献身的な仕事で大名にまでなったのですがね。まぁそれは秀吉も同じ。そして、どんな時代の組織でもあり得る理不尽な結果なのかもしれません。
ただただ結末が残念です。
<つわものどもが夢の跡>
この地が滝川一益の分岐点だったのかも知れません。
■ 神流川の戦いまとめ ■
いつ:1582年7月5日〜8日
どこ:武蔵国児玉郡上里町周辺
だれ:滝川一益VS北条氏邦・氏直
なに:関東における勢力争い
なぜ:織田信長がいなくなった
どう:滝川軍は北条軍に敗北
※何となく会社っぽくなりました…
<石碑の場所>
神流川は埼玉県と群馬県の県境を流れる川。古戦場は両県にまたがります。両軍の衝突が多かったのは埼玉県側のようですが、この石碑は群馬県側にあります。
■訪問:神流川古戦場跡
[群馬県高崎市新町]
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