名城古河城は、本丸跡を含めてそのほとんどが渡良瀬川改修工事により河川敷となりました。川とは逆方向(東側)で、やや離れた場所に配置されていた出城(諏訪曲輪)は取り壊しを間逃れ、開発の波に曝されながらも城のなごりを留めています。
私の古河城訪問記はこの「本丸跡」と「出城(諏訪曲輪)」で終了。そのつもりでした。でも現地をてくてくと歩き回り、「はっ」とした光景がもう一か所ありますので追記させて頂きます。
<獅子ケ崎土塁>
ただの竹藪?ではなくこれは明らかに土塁です。説明板も設置されています。
<土塁>
古河城の「丸の内曲輪」の北側を守るための土塁。その痕跡です。本来もっと長く、その行先には先述の出城(諏訪曲輪)へと通じる御成門があったとされています。形状が猪の鼻の形に似ていることが名の由来。まぁ猪ヶ崎ですね。経緯はわかりませんが、猪は獅子となっています。
<土塁の反対側>
逆側も立派な遺構。かつて百間堀と呼ばれた堀の一部です。すぐお隣は民家。この尊い遺構も、お住まいになってる方から見れば当たり前の光景なのでしょうね。城の本体が既にないことを思うと、訪問者にとっては本当に貴重な遺構です。また、土塁の正面に立派な門を発見しました。家老屋敷長屋門、、、のなごりらしいのですが、個人宅と思い、撮影は遠慮しました。
<説明板・拡大1>
見えにくいですね(申し訳ございません)。城本体、この獅子崎土塁、そして出城の位置関係が分ります。
<説明板・拡大2>
確かに特殊な形の土塁ですね・・・
こうして説明してもらうと、現地でも実感がわいてきます。
このブログでは、古河城のことを何の躊躇もなく「幻の名城」と形容させてもらいました。訪問する以前から、私のなかではそういうイメージだったからでしょう。でもよく考えたら、幻の前提は実体がないこと。じゃ実際に目にした土塁はなんなのでしょうか。
オイ、幻なんかじゃないぞ!
本体からも出城からも離れた場所で、孤立した遺構がそう訴えかけてくれた気がします。現地で「はっ」としたのは、遺構らしいものはほとんどないと思い込んでいた私にとって、この土塁の存在感が強烈であったからでしょう。
<本丸跡>
繰り返しになりますが、古河城本体は徹底的に壊されてしまいました。
消え去って残る気配をなごりと呼ぶなら、ここ獅子ケ崎に残る土の塊も古河城のなごり。
名城がかつてこの地に本当に在った。その証として、いつまでもこのままであることを願っています。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:
古河城獅子ケ崎土塁
[茨城県古河市桜町]
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