<森巖寺山門>
秀康はあの徳川家康の次男として生まれ、武将としての実力も備わっていましたが、弟の秀忠と比較すると、明らかに冷遇され続けました。ここ森巖寺は、若くして亡くなった秀康の位牌所として建てられたことに始まります。
■森巖寺訪問■ しんがんじ
八幡山浄光院と号する浄土宗の寺院です。先述の通り結城中納言秀康の位牌所として創建されました(1608年)。せっかく訪問したので、簡単で恐縮ですが、まずは境内の様子をご紹介させて頂きます。
<本堂>
昭和に再建された綺麗な本堂です。
<辨財天堂>
私は結城秀康を意識して訪問していますが、江戸時代の森巌寺は、灸と針供養、そして富士講で知られる寺で、多くの参詣者で賑わったそうです。庶民に開かれた人気のお寺だったのですね。
<淡島堂>
森巖寺の境内にある淡島堂。紀州の淡島明神の分霊を勧請したものです。
<針塚>
淡島堂の前に設けられた針塚の石碑。針供養は淡島神社や淡島神を祀る淡島堂がある寺院で行われることが多いそうです。ここ森巖寺もそのひとつ。そして人気のお寺です。毎年2月に針供養が開催されています。
<富士塚>
森巌寺のすぐそばの北沢八幡神社で撮影。こちらの神社は明治の神仏分離まで森巌寺と一体で管理されていました。
<北沢八幡神社>
森巌寺が号する八幡山とは、この神社の別当寺を務めたことによります。
森巖寺も北沢八幡神社も、有難さを感じる素敵な場所でした。
さて
訪問するきっかけとなった結城秀康についてもご紹介させて頂きます。好きな武将の一人であることから、ちょっと主観が入りますがお許し下さい。
■結城秀康という武将■
秀康は遠江国の生まれ。幼名は於義丸(おぎまる)といいます。母は家康の側室ですが、もともとは正室・築山殿の奥女中でした。まぁ分かり易く言えば、家康が手を付けてしまったということですね。こういった経緯から、家康は正室の嫉妬を警戒し、身ごもった母親を重臣の本多重次のもとに預けたとされています。
於義丸が父と対面したのは3歳の時。家康はそれまで会おうともしなかったようです。その初対面も、弟を不憫に思った長男・信康による取りなしであったようです。
この冷遇とも言える背景には、家康の正室への遠慮とする説があります。また、今では考えられないことですが、この時代は双子そのものが忌み嫌われていたため、これを理由とする説もあります。後に家康が秀吉と和睦すると、実質人質として秀吉の養子に出されることに。長男の信康は織田信長の命で切腹させられ既にこの世を去っていたので、本来なら家康の後継者となる立場のはずですが、そうはなりませんでした。
秀吉に実子の鶴松が誕生したことで、秀康は再び他家に出されることとなり、これにより結城家当主・結城秀康が誕生します。
■関ヶ原に出陣できず■
秀吉が没したのち、石田三成が対立する諸大名から命を狙われる事件(石田三成襲撃事件)が起きます。この時、家康の命を受けた秀康は、三成を警護して佐和山城まで送り届けました。三成はこれに感謝し、名刀・正宗を秀康に贈りました。
のちに三成らを中核とした西軍と、徳川家康率いる東軍の両陣営が関ヶ原で激突する際、弟の秀忠が家康の別働隊として3万8千の兵を任されたのに対し、結城秀康は関東で上杉を牽制する役しか与えられませんでした。つまり、天下分け目の関ヶ原には出陣が許されませんでした。秀忠と比較してだいぶ扱いに差がありますね。ちょっと個人的見解になりますが、用心深い家康のことですから、秀康と三成の微妙な信頼関係を警戒したなんてこともあるかもしれませんね。
■越前松平家宗家初代■
下総結城から越前北庄68万石に加増移封された秀康は、姓を松平に改めます。将軍にはさせてもらえませんでしたし、江戸から遠いところですが、68万石というのは徳川一族では宗家を除いて最大の石高です。家康の配慮が伺えます。ただその後間もない1607年、秀康は病により34歳の若さで没しました。
<三つ葉葵>
秀康の法号「浄光院殿森厳道慰運正大居士」から森巖寺と命名されました。徳川ゆかりのお寺です。
■訪問:森巖寺
[東京都世田谷区代沢]
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