1523年(大永3年)に皆川氏と宇都宮氏が激突した古戦場を訪ねました。といっても、具体的な場所がはっきりせず、石碑等もありません。合戦の後、死者を葬ったとされる塚が存在するため、そちらを目指しました。
<升塚>ますずか
■現地訪問■
<合戦場駅>
東武日光線の合戦場駅。凄い名前ですね。ここは栃木県栃木市(旧都賀町)。合戦場は地名。「かっせんじょう」じゃなくて「かっせんば」と読みます。都賀町合戦場(つがまちかっせんば)です。
おお・・・でも地名が合戦場なのですから自然なネーミングですね
凄い・・・繰り返しますが合戦場は地名です
かつてここで戦いがあった。そのなごりということですね。
■ 河原田合戦 ■ 1523年
この地は皆川城を拠点とする皆川氏の領内。そこへ宇都宮忠綱が軍勢を率いて侵攻を開始します。宇都宮勢は1800から2500と伝わります。これを迎え撃つ皆川勢は700でした。両軍は川を挟んで対決しますが、結果は宇都宮勢の圧勝。皆川氏は当主の皆川宗成が討死するなど壊滅的な被害を受けました。しかし小山氏・結城氏が1800の兵を率いて援軍として駆けつけ、最終的に宇都宮勢は敗走となります。
川を挟んで対峙したとされる場所の呼び名から、この戦いは河原田合戦と呼ばれています。
先ほどの「合戦場駅」の西には、いまも「河原田」の地名が残ります。両軍が対峙したとされる場所と一致するのでしょうかね?河原田には川が南北に流れており、皆川氏の居城は更に西の方に位置していますので、普通に考えれば川の西岸に皆川氏、反対側に宇都宮氏という構図だったと思われます。
河原田の東側に合戦場の地名が残るということは、優勢だった宇都宮勢が最終的には押し込まれ、混戦の末に敗走となったなごりなのでしょうか。あるいは、皆川氏の援軍とした現れた小山氏・結城氏の居城はこの地点より東に位置しますので、東側から宇都宮勢に攻め掛かったとか?などなど・・・
地名の位置関係だけで、勝手な想像が膨らみます。繰り返しますが、ホントに素人の勝手な想像です。ただ、せっかく「合戦場」に来たのですから、いろんなことに思いを巡らせてみる。そうでなかったら、てくてくと何キロも歩けません。
■ 戦死者たちの塚 ■
地元の人たちにより、合戦場に残された亡骸は一箇所に集められ葬られました。
<升塚>
戦死者を葬った「升塚」です。また地名の話に戻すと、合戦場の北は升塚となっています。現在の呼び方だと、都賀町升塚。今回の訪問に際して、私が目印とした住所です。
<説明板>
この説明では皆川勢の大敗というより、『両軍譲らず大混戦』となっていますね。塚の規模についても説明が。『●基壇の底面 21.6米の方形 ●中壇の底面 16.2米の方形 ●上壇の底面 10.8米の方形 ●墳頂までの高さ 3.6米』とのことです。
<塚の上>
石碑と桜の木
<普門地蔵堂>
<升塚と十九夜塔>
升塚と周辺の雰囲気はだいたいこんな感じです。
河原田合戦の激戦地は正確には分りません。しかし升塚が良好に保たれていることで、その一部に触れることが出来ました。貴重な歴史の痕跡。大切に保護し続けて欲しいですね。
以上です。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
■訪問:
河原田合戦の升塚
[栃木市都賀町升塚]
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